亨禄の錯乱
[1531年]

大一揆vs小一揆

●原因
 加賀の政権運営をしていたのは三ヵ寺の中心人物である本泉寺蓮悟の後援者であった。しかし、本願寺実如が1525年に死去し、幼少の証如が法主につくと蓮悟がライバルにあった近松蓮淳が後見人となった。それゆえ、三ヵ寺は政権運営から遠ざかる事となり、寺同士の主導権争いが本格化した。それゆえ、守護の支援を受けた3ヵ寺(小一揆)と本願寺の支援をうけた超勝・本覚両寺(大一揆)とついに戦に発展するのである。
 本来なら戦いを調停する立場にある加賀守護の冨樫氏が、この合戦に参加した理由は、すでに冨樫氏が守護として国内紛争の調停者としていられる立場ではなく、一揆側に飲み込まれていたからであろう。
大一揆方 小一揆方 
勝敗 WIN LOSE
兵力 詳細不明 詳細不明
支援者 本願寺 能登畠山氏
越前朝倉氏
越中神保氏
主力寺院 藤島超勝寺
和田本覚寺
若松本泉寺
波佐谷松岡寺
山田光教寺
参加者 下間頼秀
下間頼盛
本泉寺蓮悟
本泉寺実悟
松岡蓮綱→戦死?
松岡蓮慶→戦死?
冨樫稙泰
冨樫泰俊

●経過    

●合戦の影響
 この錯乱によって、冨樫氏の加賀守護としての地位はほとんど失われた。そのかわり、本願寺体制が加賀で固まり加賀は「本願寺領国」となっていった。この後も冨樫氏は冨樫晴貞が家督を継いで存続するが、その権力は政親自害後の泰高政権よりもさらに縮小していったのである。
参考文献
(共著)『日本の名族 七』新人物往来社,1989年
(共著)『図説石川県の歴史』山川出版,2000年

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