畠山九郎特集

畠山九郎イメージ
↑畠山九郎イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 九郎<はたけやま くろう>(生没年不詳)
 実名不詳。仮名九郎。入道して宗徳ヵ。慶致の嫡男であったが庶子。弟で当主となった畠山義総と対立し、加賀に出奔した。加賀一向一揆の勢力を借りて義総政権打倒を目指したが叶わず、義総と和睦した。和睦後九郎の娘が義総の猶子となり、三条西実世の妻となった。

九郎政治活動ちぇっく!
 九郎は慶致の嫡男であったが庶子であり、家督相続は想定されていなかった。そのためか、慶致の子にして7代当主となった畠山義総と対立した。そこで九郎は1538(天文7)年、弟の畠山駿河・勝禅寺らとともに加賀に出奔した。そして、羽咋本念寺と阿岸本誓寺の協力を得て、加賀一向一揆との連携を模索した。同年、九郎は加賀一向一揆勢の支援を得て能登に数度乱入している。いずれも敗れたようだが数度も乱入できるだけの兵力と経済力を持っていたと言うことは、それだけの支援者がいなければできないことである。それゆえ、結構な数の一向一揆勢が加勢したと言える(後述)。それにしても九郎とともに弟の駿河・勝禅寺が反乱に参加しているが、弟達が安定していた義総政権にいるより反発する事を選んだということは、それだけ九郎にも勝算が合ったことになる。
 義総は九郎の動きを抑える為、1539(天文8)年幕府に九郎の動きを報告し、本願寺に合力させないよう頼み、幕府も本願寺に九郎に合力しないよう下知状を発行した。本願寺は公式には九郎に合力しないことを幕府に返事するが、一部の門徒が勝手に加勢してしまったと述べている(史料A参照)。しかしその一方で、1540(天文9)年に本願寺は九郎に年始の祝儀を贈っている。この幕府・義総に対する曖昧な返事や九郎への贈答品などから、本音では本願寺は九郎を支援したかった事がわかる徴証である。しかし、さすがに幕府の要請は断ることができなかったのであろう。表向き九郎との親交は控えざるを得なかったのである。
 義総はさらに九郎と本願寺との連携関係を断ち切るため、本願寺との和睦を模索する。そこで、1540(天文9)年9月贈り物を携えて使者を送り和平したい旨を伝えた。その結果翌年の1541(天文10)年本願寺も和与に合意し、返礼の書状と使者を義総に送った(注1)。そのため、本願寺と言う最大の支援者を失った九郎は義総と和与せざるを得なくなった。和睦のために九郎側は人質としてか娘を義総の猶子としている。その九郎の娘は1541(天文10)年10月18日に三条西実世に嫁ぎ、その後1544(天文13)年6月6日に死去した。
 ここに1538(天文7)年から続く九郎の乱が一応の集結を見た。しかし、弟の駿河は和睦を良しとしなかったのか、義総死去後の1547年当主・畠山義続に対して反乱を起こしている(押水合戦)。

(史料A)「天文日記」天文8年4月4日の項
御下知之御返事令申候、九郎事令許容加州之段、於此方不存候。
内々自加州申趣は、能州之儀面向は先和与分候。
幕府から九郎に合力するなという依頼の返事について書かれている。

九郎外交活動ちぇっく!
 安定したと言われる義総政権に反発することができた要因は何であろうか。それは、強力な支援者の存在と言う他はあるまい。義総政権が安定してたのであれば、能登国内からの協力者は積極的には見出せないと思われる。さすれば自然と外部の協力者を求めることになる。そういった理由で九郎は加賀本願寺(証如)に支援を求めたのであろう。
 では証如の支援はどの程度のものであったのか。田中正行氏は「九郎の支配下には単なる「加能堺之地」に九郎が駐軍している弱い立場でなく、能州郡代として本願寺に通ずる(多分有力門徒としてだろう)宇山蔵人亟が居る駐軍であり、加賀に隣接する能登の一部は九郎を通じて本願寺領に近いものがあった」(田中正行氏(「畠山義続に関する二・三の問題(中編)」)と指摘している。このように本願寺が強く介入しているのであれば、証如も本気で支援をするだろうし、義総との和睦を渋々行っているのもわかる。すなわち建前では九郎に対し「公式な支援無し」なのに対し、実質は「本願寺に属す九郎の行動」というようになっているからである。しかし、あくまで公式には支援できないのであるからそのジレンマで幕府からの「九郎への合力停止依頼」に承諾せざるを得なかったのである。また九郎にとってもあくまで建前では「本願寺の支配下には無い」ことにしないと、能登の大略を手に入れたとき、能登国衆の反発が必死であるので、九郎にとっての戦略もまたジレンマを抱えていたのであった。
 1541(天文10)年以後の九郎の消息はよく知られていないが(史料B)によると、幕府に出仕していたと思われる。娘が三条西実世に嫁いだことから京都でも名前が知られていると考えらる。また田中正行氏は前掲書で「義総は、九郎父子を京へ送り出し幕府に出仕させることで、幕府内に重ねて義総の地歩を確保し、加能両国の門徒郡と九郎を切り離す策として考えられたものであろう。」と指摘している。そう考えると、九郎の外交センスはなかなかのものがあったと言えようか。
 しかし、一方で1539(天文8)年に九郎が死亡したという資料もある。それが(史料C)の「永光寺年代記」である。「永光寺年代記」は1500(明応9)年に起きた義元と慶致の兄弟対立によって起きた明応九年の政変を記すなど資料に信憑性のあるものである。しかしそうであると、「政治活動ちぇっく」で前述した「1540(天文9)年に本願寺は九郎に年始の祝儀を贈っている」ということと矛盾するのである。もし、「永光寺年代記」が“(天文)八”ではなく“(永禄)八”ならは史料Bとも合致する。しかし、史料Cには己亥(つちのとい)と記され、1539(天文8)年を指すことは明白である(注2)。1540年以降の九郎の明確な活動が本願寺が九郎に年始の祝儀を贈ったものしかないことから、「天文日記」の記述が誤りであるのか。しかし「天文日記」は同年代に書かれた物であり、史実と多くが合致し良質な史料であることは言うまでもない。すると、「天文日記」が誤りだとは言い難い。
 とすると、永光寺年代記が事実を1539(天文8)年九郎の軍が敗れたことを九郎の討死と誤認した可能性も考えられる。

(史料B)『大日本野史 第二巻』(春秋社松栢館,1943年)
所収の1565(永禄8)年5月19日将軍義輝を松永久秀が攻め討った記録の一環
時に宿直の士多からず、唯だ畠山九郎・一色淡路守・・・・・・河端左近大夫等、
防禦奮戦し、賦輒を前むを得ず


(史料C)『永光寺年代記』(『新修七尾市史七尾城編』P.142)
(天文)八、己亥、八月、畠山九郎殿討死、
 

九郎出陣履歴ちぇっく!
 九郎が1538(天文7)年、弟の畠山駿河・勝禅寺らとともに加賀に出奔した時、羽咋本念寺と阿岸本誓寺の協力を得て、加賀一向一揆との連携を模索を試みた。また、九郎は陸上交通と海上交通の要所を抑え交通を遮断する目的と、義総政権を牽制する為から、能登と加賀の境に陣取った。その位置について坂下喜久次氏は著書『七尾城と小丸山城』で「亡命先は能登と加賀を扼する森下あたりの可能性がたかいように思われる。」と述べている。その一方で、『末森城等城館跡群 発掘調査報告書』(宝達志水町,2007年)では、「一方御舘館も、十六世紀の前半から再整備されてくる。再整備を行ったのは、この時期押水に拠点をおいていた畠山三兄弟であると考えられる。」と御舘館に居たと推測している。加州と能州の境目である現・宝達志水町の南端で拠点となるうる場所は、末森城御舘館坪山砦である。末森城を拠点としていたとすればかなり九郎の勢力は大きいものであるはずである。坪山砦の発掘調査からは16世紀中頃の遺品は見つかっていない。とすると、九郎の拠ったところは御舘館が一番適当であると私は思う。
 同年、九郎は加賀一向一揆勢の支援を得て能登に数度乱入した。九郎の能登入国が実現していないので結果的には義総に撃退されたと思われる。しかし、数度も乱入するにはそれだけの兵力と経済力が必要である。本願寺の支援が小規模に留まらなかったことがわかる。

九郎文芸ちぇっく!
 九郎は1517(永正14)年から1518(永正15)年に能州に下向していた冷泉為広の門人となっている。1518(永正15)年の『為広能州下向日記』によると、九郎は「一貫文 九郎殿」とある。当時畠山義総に寵愛されていた温井総貞が入門に対し三貫払っているので、その1/3とかなりの金額を出していることからも、一門の中でそれ相応の地位にあったと見られる。推定ではあるが京都にあって幕府に出仕しており、さらに娘が三条西実世に嫁いだことからも、相応の教養(文芸)を身につけていたのではないかと考えられる。

(注釈)
(注1)一見義総と本願寺の和睦が、この書状でなったように見えるが、これは田中正行氏の指摘に拠ると、義総の贈り物に対し「返礼の贈物が全く無い返状に注意せねばならない。当時としては全く異例の取り扱いである。」(史料D参照)としている。本願寺が渋々和睦に応じたことを端的に表している。さらに、田中氏は「天文日記」で義総の事を示す言葉において、「畠山匠作」「能州大夫」「能州匠作」と表し、主権の存する「能登守護」と認めるしなかったことをこの九郎との関係で指摘している。
(注2)1565(永禄8)年だと乙丑(きのとうし)になる。

(史料D)証如返書(「証如上人書札案)天文九年の項
恩簡之趣欣悦至候。殊種々送賜候、御懇篤之段申謝候。
猶使僧可被申候 恐々謹言
 十月二日出之
 九月廿日
 修理大夫入道 御報
参考文献
田中正行「畠山義続に関する二・三の問題(中編)」『七尾の地方史』14号,1978年
東四柳史明(他共著)『戦国大名系譜人名事典』新人物往来社,1986年
坂下喜久次氏『七尾城と小丸山城』北國新聞出版局,2005年
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