御舘館跡
<石川県指定史跡>


御舘館跡鳥瞰図
↑御舘館跡鳥瞰図(広報『宝達志水』35号,2008年より<転載不可>

読み仮名 おたちやかたあと
別名  
所在地 羽咋郡宝達志水町
形式 平城
築城者 不明
築城年 14世紀
遺構 土塁、郭、空堀
歴代城主
交通 能登有料道路今浜ICから車で20分ほど
JR七尾線・免田駅か宝達駅から車で10分ほど
  
 御舘館は、発掘調査によると4つの郭と二重の堀をもち、その館の範囲は東西300mで南北に200mに及ぶ非常に規模の大きい館である。発掘調査が主郭と堀・土塁で行われ、掘立柱建物、柵列、井戸、焼土坑などが確認された。また、出土した土師器皿(かわらけ)から考えると、館の成立年代は14世紀後半と見られ、館が使われた時代は成立〜15世紀前半までの一次期と、15世紀中頃に再建され幾度かの改修を経て巨大な館が造られた16世紀第3四半期(1550年〜1575年)の二次期に分けられる。石川県内では平地に残された中世城館は珍しく、御舘館跡は貴重な遺構である。また、周辺の地名に「館跡に関する通称、小字名を観ると「ゴアン」「門館口」「若宮跡」「正伝」「堂後」「表町」「一丁目」「二丁目」「中二丁目」などの名が残り、周辺の「三日町」「紺屋町」等の集落についても関連性が注目されている。」(『石川県中世城館跡調査報告書T(加賀T・能登U)』石川県教育委員会,2002年より)など、館だけなく周辺に町も形成されていた(もしくは最初から町があった?)ようである。ちなみに「御舘」という名前の由来は、鎌倉時代前期の天皇である順徳天皇が佐渡に流刑になった時に、御舘の景色に愛しここに館を建てたという伝承元になったと言われている。
 このような大規模な居館にも関わらず、館主に関する確定的な文書や伝承がなく、未だ館主不明である。規模的な観点から、村落領主的クラスではなく、国人領主クラスの居館ではないかと言われている。
 館主については色々な考察がなされている。『能登志徴』(森田平次,1938年)では、御舘集落の隣にある紺屋町にあったとされる岡部六弥太忠澄の館(「武家毘目集」より)がこの御舘の館ではないかと推考している(郷土史家の高井勝己氏もこの説を推している)。『押水町史』では、御舘の宝達山の麓であり、杓田川と大坪川に挟まれた地だからこそ中世の商品流通経済に乗って台頭した小領主と推考している。『末森城等城館跡群 発掘調査報告書』(宝達志水町,2007年)では、「一方御舘館も、十六世紀の前半から再整備されてくる。再整備を行ったのは、この時期押水に拠点をおいていた畠山三兄弟であると考えられる。」と畠山義総に抵抗して加州と能州の境目にいたとされる畠山九郎らの存在を指摘している。筆者はさらに能登御入国の乱で、わざわざ坪山砦の攻略に言及していることから、義綱はこの御舘館を拠点としていたのではないかと考えてみた。
 いずれにしても館主については確定的なことは言えないが、地理的にみて宝達山の麓であり、克2つの川に挟まれており、さらに能登加賀の国境(に近い)という流通に適した地であること。また、発掘調査により館の成立年である14世紀頃から存在し、館の規模が大きくなったのは16世紀後半であるという考古学的見地を加えて、今一度館主について推察してみる必要があるだろう。
 御舘館跡は1995(平成7)年に押水町(当時)の指定史跡となり、2006(平成18)年に石川県指定史跡となった。御舘集落の住民の方々が「殿様の館跡」ということで、大切に守ってきたため、平地の館跡が良好な遺構を残している。発掘調査などもされる一方、現況は草が伸び放題で、巨大な館跡という平坦面を体感することは難しかった。2010(平成22)年に宝達志水町教育委員会が7000万円の発掘調査費を予算に計上して、国指定史跡を目指す方針を確認した。今後の調査・整備・保存が待ち望ましい。

<★☆★御舘館跡その他の写真★☆★>
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御舘館跡(柱列)
↑城館内部から検出された柱列
(資料提供:宝達志水町転載厳禁
御舘館跡(堀跡)
↑城館を囲む堀
(資料提供:宝達志水町転載厳禁
御舘館01
↑館の南北にはこのような空掘が
はっきりとみえる、
御舘館跡02
↑館跡に町の説明板がある(注1)
御舘館跡93
↑館の周りは畑になっているが、
土塁がハッキリとわかる。
御舘館跡04
↑土塁の上の写真。結構土塁は分厚い。
御舘館跡05
↑館跡の中はかなり広い平地がある。
ただ整備されていないので、草が茫々。

(注1)看板には「御舘館跡遺跡は、東西約280m、南北約200mの規模を持ち、館の主要部は、3つの郭(堀や土塁で囲まれた大きな平坦面のこと)で構成されていることが明らかになっています。二重の堀(約8m〜20m)をコの字に型に巡らせた主要部(東西約90m、南北約80mと推定)と、この北側に幅約5m〜6mの堀を巡らせた副郭(東西約130m、南北約50m〜80m)、東側には、北側に区域を示す堀割を持たない郭(東西約60m、南北推定150m)の存在が予想されています。御舘館跡遺跡は、その規模の大きさを含め、堀や土塁が極めて良好な状態で残されている第一級の遺跡であり、堀で区画する構造、あるいは周辺で出土する珠洲焼の破片から、おおよそ16世紀の守護クラスの居館跡と推定されます。しかし、これだけの規模を有する城館であるにも関わらず、城主を含め、何ら記録に残っていない、謎の多い館跡でもあります。今後、調査・研究によってこれらの謎(城主は誰か、いつの時代に誰が造ったのか、いつまで使用されていたのか、なぜ歴史から消えてしまったのか)は、少しずつ解き明かされていくことが望まれます。 宝達志水町教育委員会」

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