西谷内畠山氏関連人物特集


★西谷内畠山氏の一門★

畠山持純<はたけやまもちずみ>(生没年不詳)
 右馬頭、阿波守。仙空。京都にて守護大名や守護クラスの人物で歌に精通した人物として「畠山持純」の名がある。1434年(永亨6)にも持純邸で歌会が催されている。『中世歌壇史の研究 室町前期』では畠山氏系図に「持純」の名が清純の子として挙げられている。持純の「持」が4代将軍足利義持の偏諱だとすると、将軍としての在位期間である1394.12−1423.3と5代将軍義量の死から6代将軍義教が還俗するまで1425.2−1429.3の間に偏諱を受けたものと考えられる。となると、貞清が将軍義持ににらまれて蟄居したので、その替わりに京都に住んだのが持純ではなかろうか。ゆえに、西谷内畠山の嫡流である貞清の子清純に将軍の偏諱が知られないのではなかろうか。
畠山清純<はたけやまきよずみ>(生没年不詳)
 義清の子。父貞清が将軍義持ににらまれた為、貞清の代になってにわかに復権したかに見えた西谷内畠山氏は再び衰微した。清純は父のように京都に住まず、知行の釶打に住んだと言われる。
畠山政栄<はたけやままさひで>(1424-1474)
 左馬助、治部大輔。畠山清純の子。妻は徳大寺公有の女。羽咋郡の西谷内城の城主といわれる。父清純が能登に住んだのに対して政栄は京都で暮らした。応仁の乱を書いた「応仁記」には西軍の将として「同(畠山)左馬助政栄」の名がある。この事からも、政栄が有力な武将であることが知られる。それゆえ、政栄の「政」の字も将軍・足利義政より与えられた「政」の字ではないかと思われる。彼の娘・蓮能(1465〜1518)は本願寺蓮如の五番目の室。蓮如の間に五男二女をもうけた。
畠山政純<はたけやままさずみ>(生没年不詳)
 右馬頭。清純の子で政栄の弟。応仁の乱を書いた「応仁記」には西軍の将として「同(畠山)右馬助政純」の名がある。「政純」の「政」は将軍・足利義政の偏諱かと思われる。
畠山政光<はたけやままさみつ>(生没年不詳)
 中務少輔。次郎。畠山政近の兄と言われる。とすると実父は畠山政栄ヵ。8代将軍義政時代には奉公衆四番の番頭を勤めた。応仁の乱では義視方の西軍に付く。政光の子どもに畠山澄重がいる。澄重は11代将軍義澄に従って活躍している。澄重の「澄」は将軍義澄の偏諱と思われる(山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館.2000より)
畠山政近<はたけやままさちか>(生没年不詳)
 中務少輔。政栄の嫡男であると美濃晃順氏は推測する。『北野神社長亨三年引付』に名が見える。北西弘氏「蓮能尼の生涯」(『教化研究』70・71合併号)によると「山城北野宮寺の雑掌と、加賀江沼郡福田荘並びに山代の知行について争っている。」らしい。「政近」の「政」の字は父・政栄が将軍より1字を頂いてつけたらしい。明応の政変で10代将軍足利義稙が追われ、11代将軍義澄が擁立されると、義稙に従って活躍した。
畠山家俊<はたけやいえとし>(1465-1531)
 大隈守。畠山政栄の次男。一説には家俊の姉・蓮能とは双生児だったらしい。1531(享禄4)年、本願寺との戦い(加賀津幡の合戦)に総大将として出陣したが戦死した。蓮如の後家は家俊の姉といわる。また家俊は、娘を公家の万里小路惟房の嫁にしたり、1517(永正14)年から1518(永正15)年に能州に下向していた冷泉為広の門人となって、歌会を開いて為広に発句を所望したり、1528(大永8)年には公家の三条公頼から能登守護畠山義総と共に薫物(たきもの)を五貝贈られたりするなど、家俊の文化的水準が高いことを知らせる徴証がある。
畠山将監<はたけやましょうかん>(生没年不詳)
 実名不詳。畠山家俊の子。1550(天文19)年の能登天文の内乱に、百騎あまり率いて参戦したとされる。その後の1577(天正5)年の「上杉家家中名字尽」で七尾上落城後に、上杉家方の人物として”畠山大隈”なる人物が知られる。大隈守家俊は天文年間にすでに死んでいることからも、大隈守が西谷内畠山氏の官途だとすれば、この大隈守は将監のことかもしれない。とすると、七尾城攻防戦において上杉方の将として参戦している畠山将監は家俊の子・将監の子かもしれない。美濃順晃氏は『中島町史・資料編』において、永禄九年の政変(1566年)で畠山義綱が能登を追放されると、畠山将監は上杉謙信を頼って出奔したとしている。また同氏によると、将監の家老に和田氏がいたとも記していることからも、七尾城攻防戦の最中、またはその後に、西谷内畠山の一族がいたとしても不思議ではない。
 なお、美濃氏はこの将監を富田景周の『越登賀三州志』にでてくる「畠山家継」に比定している。『越登賀三州志』の「畠山家継居たりけるが、其の後長綱連の家士国分五郎兵衛住めり」の文章からは、長綱連が出ている事からも、将監の時代と一致し、その可能性がないとも言えない。ただし古文書にも見えなく、さらに『越登賀三州志』しか名の見えない「畠山家継」なる人物を比定するには慎重を期さなければならない。ひょっとすると「家俊」と名前を間違いただけかもしれない。
参考文献
亀田康範(他共著)『日本の名族』新人物往来社、1989年
木越祐馨(他共著)『中世仏教と新宗』吉川弘文館、1985年
北西弘「蓮如上人室蓮能尼の生涯」『教化研究』70号・71号、1973年
美濃晃順「蓮能尼公とその一族」『能登史叢』8号
山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』吉川弘文館、2000年
『中島町史 通史編』中島町役場、1996年

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