松波畠山氏関連人物特集


★松波畠山氏当主★

畠山義智<はたけやまよしとし>(?-1503)
 常陸守。畠山義統3男。松波畠山氏初代当主。能登畠山家3代当主義統の命で奥能登松波に1474(文明6)年に入部し、松波畠山氏の祖となった。旧記によると、筆道家にして文武の諸芸に通じていたらしい。義智入部の際、名古屋の勝長をはじめとした多数の刀工を招いて鍛治町におき、刀剣の製作にあたらせたのをはじめ、各種の産業を興し奨励した。また、神を敬う心が篤く、氏神大足八幡宮の社格を進めて、直と、木郎の2郷の総社とし、武運長久の祈願所とした。また、万福寺を菩提所と定め、駒渡にあったものを城下の長谷川の地(今の万福寺の場所)に移して盛んに堂宇を営む一方、九里薬師の尊像を祀って堂社を建立した。
畠山義成<はたけやまよしなり>(?-1532)
大隅守・常陸介。畠山義智の子。松波畠山氏2代当主。城主墳墓の塔頭として福寿庵を建立した。
畠山義遠<はたけやまよしとう>(?-1561)
 常陸介。畠山義成の子。松波畠山氏3代当主。亡き母の追善のため、観音寺を建立。彼の娘・花照姫(妙光尼)は松波神宮寺の開基である。容姿秀麗、読書、芸能を好んだ。又、薙刀が得意で諸道万能の評判だった。
畠山常重<はたけやまつねしげ>(?-1570)
 右衛門尉・常陸介。畠山義遠の子。松波畠山氏4代当主。大足八幡宮に大足口一段を寄進したり、布浦椎ノ木崎に毘沙門堂を建立した。1569(永録12)年の鶏塚の合戦で、八代俊盛が謀反を起こすと義慶方として参戦するなど、常重は能登畠山家に忠実に使えていた。
松波義龍<まつなみよしたつ>(?-1572)
 常陸介。畠山常重の嫡男。松波畠山氏5代当主を継承するにあたり、奥能登の有力豪族松波氏を相続する。妹に長対馬守英連の室がいる。菩堤所万福寺の末寺として涌金、宝光のニ寺を建立した。
松波義親<まつなみよしちか>(?-1577)
 常陸介。畠山義綱の三男(加能城址集「加能越文庫」所収より)。松波畠山家6代当主。妻は富士の方で京都の公家・烏丸家の息女と言う。。奥能登の有力国人松波氏を継いだ(松波義龍が早世したためか?)。奥能登の拠点松波城に拠る松波畠山氏が5代当主の時松波を継いでいたが早世したため家督を継いだらしい。人徳があるうえ、武略があり、文雅に長じ画に優れていたようである。また、儒学・禅学にも関心があるらしく、まさに能登畠山氏の文芸に長じたところを継承したと言えよう。その後1577(天正5)年の謙信の侵攻時、七尾城にあって奮戦したが落城するとひそかに脱出して松波城に帰還し、再起を図ろうとした。ところが追っ手が松波まで押し寄せてくると多勢に無勢破れて自害した。法名福翁常満居士。
 一説に義親の父は「続親」(注1)であるとも言われる(「長家伝書」などの長家関連の史料より)。確かに松波萬福寺にある「畠山義親像」の賛には享年を51歳としている。1577(天正5)年没とすれば、生年は1527(大永7)年となり、畠山義綱より早い生年となる。どちらが正しいのか史料がないので後考を待つより他にないが、義親の弟とされる「松波義行」のことを考えれば、義親は義綱の三男ではないような気が強いと思われる。すなわち、義行が義親の弟ならばそれも伝承として伝わっていなければならないからである。
伝義親公画像←伝義親公画像(萬福寺蔵)

★当主以外の松波畠山一門★

畠山義季<はたけやまよしすえ>(?-1577)
 隠岐守。畠山常重の次男。上杉軍・長沢らの松波城侵攻にて討ち死にした。1569(永録12)年に八代俊盛が重臣達に反発して起こった鶏塚の合戦の参加者に「松波隠岐」という人物がいるが、年代的にみても義季の事かと推測できる。
松波義行<まつなみよしゆき>(生没年不詳)
 丹波守。松波義親の弟。堀松城代。1577(天正5)年の七尾城の決戦に畠山方として兵二百を率いて奮戦。穴水奪回戦に敗れた畠山軍をよく助けた。その後、義行は七尾城内で篭城し、七尾城の落城後は松波城に兄・義親とともに篭もり、松波城落城後は堀松城に拠って抗戦した。後、京都に上って徳川家康に仕え千石を領し、江戸松波筑後守の祖となったという。1569(永録12)年に八代俊盛が重臣達に反発して起こった鶏塚の合戦の参加者に「松波丹羽」という人物がいるが、「丹羽」を「丹波」の誤りとすれば、年代的にみても義行の事かと推測できる。
 義行について今一つわからないのは、畠山義綱との関係である。義親が義綱の3男とすれば、丹波守義行は当然義綱の4男かとも思われる。しかし、丹波守の記述には義親の弟にも関わらず、全く義綱との関係を示す記述はない。とすれば、義行は松波義龍の子で、1570年に義龍が死去した時点で、幼かった為に、畠山家から養子を迎えたものであろうか。
花照姫<はなてるひめ?>(生没年不詳)
 3代義遠の娘。容姿端麗読書芸能を好むとある。松波神宮寺の開基である。終生嫁かず。薙刀を得意としたらしい。

★松波畠山氏の家臣★


(注釈)
(注1)坂下喜久次氏の指摘によると、1571(元亀2)年の義綱亡命政府の義胤(義綱)の奉行人発給文書として「続親」の名前が連署されている。これがあるいは義親の父ヵ。

参考文献
三宅邦吉『能登畠山史要』凸版印刷株式会社、1942年
亀田康範(他共著)『日本の名族』新人物往来社、1989年
坂下喜久次「松波城址と松波義親」『七つ尾』第25号、2006年
『松波と畠山家』松波城址保存会
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