松波畠山氏内浦の歴史

はじめに
 松波畠山氏は良質な史料である古文書などの記述に見られない。これは1576(天正4)年から翌年にかけての謙信の能登侵攻の際に、ほとんどの古文書が焼かれたことによるものと言われている。そして古文書に出てこないことから、松波畠山氏の研究はほとんど進んでいない。一方で松波畠山家の歴史の詳細は、三宅邦吉氏が近世以来の軍紀物などの史料を編集して発行した『能登畠山史要』に集約されてる。しかし、この本の原史料となったものがほとんど不明であるため、一般の歴史家が取り上げることはほとんどなく、歴史的事実として受け入れられることはもなかった。わずかに『珠洲市史』や『内浦町史』に記述が見られる程度である。しかし、すべてを「無」にするには誠に惜しいものである。そこでこのコンテンツでは、三宅邦吉氏著作の『能登畠山史要』を取り上げながら、松波を取り巻く歴史的背景や発掘調査などを踏まえてその歴史を論じていきたいと思う。

 
松波城址
↑松波城址石碑
  1. 松波畠山家のおこり
  2. 松波畠山氏年表
  3. 松波畠山氏系図
  4. 松波畠山氏関連人物特集
  5. 松波畠山氏と松波氏
  6. 松波城について
  7. 松波城下町の発展
  8. 上杉謙信の能登侵攻と松波城
  9. 松波畠山家のその後

1.松波畠山家のおこり
 松波畠山家の歴史は、1474(文明6)年に能登畠山家第3代当主畠山義統の三男・畠山義智が松波(現・能登町)に入部し、松波城を築いた(注1)ことに始まると言われている。つまり松波畠山氏は能登畠山家の庶家であり、以後6代、100年余りにわたって松波一帯3800貫余(14000石程)を領したという。1569(永録12)年に八代俊盛が守護・義慶に反旗を翻した鶏塚の合戦では、松波畠山氏4代当主・畠山常重が義慶方として参戦するなど、歴代当主は能登畠山家に忠実に使えていたと言われる。ただ、「はじめに」で前述したように松波に畠山義智が入部したという記録も、江戸期に作られた『三州誌』に拠ったものであり、裏づけはないのである。長氏系図も天文年間以前のものは疑わしいと言われてるように、江戸時代に長家被官となった松波畠山氏の子孫が天文年間以前の当主である、初代義智や2代義成のことを捏造した疑いは十分に考えられるのである。
 ただその場合でも、後述するように松波城は相当な規模を誇るし、同城には大きな室町庭園であるかなりの規模と文化水準を誇る枯山水庭園が存在するのを考える時、かなりの経済力と文化力が伺え、おおよそ能登畠山氏の庶家としての松波畠山氏が存在したと肯定してもよいのではないかと思う。枯山水庭園は16世紀前半の造営と推定され(能登町教育委員会2010年調査より)、その頃には、枯山水庭園で文化水準が高い、或いは身分の高い客人を持てなす会所が必要だったことが伺える。これほどの規模と文化水準を考えると、少なくとも信濃の国人であった高梨氏(長野県中野市)以上の権力があったのではなかろうか(高梨氏館にも枯山水庭園が存在する)。それだけの庭園を要するということは、おそらく国主である能登畠山氏の庶流だからこそ必要だったのではないかと思う。つまり、天文年間以降の当主である3代義遠、4代常重、5代義龍、6代義親については信頼がおけるのではなかろうか。
 では仮に『三州誌』の記録を信じるとすると、なぜ松波の地に畠山氏が入部したのであろうか。能登半島の先端珠洲郡(下地図参照)の大半は中世には若山庄と呼ばれる荘園が占めていた。この若山庄の荘園領主は京都の公家である日野氏(注2)であった。京都から遠く離れたこの若山庄の経営は現地荘官が行っていた。つまり日野氏の現地における被官と言える者に松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がおり、徐々に本庄氏が台頭してきた(注3)。しかし、15世紀に入って能登守護職である畠山氏の分国経営が進んでくると、若山庄も守護が経営に介在し年貢領主に進納する守護請が多くなってくる。若山庄の守護請は能登畠山氏の有力被官で守護代にもなっている遊佐氏が代官となったこともあり、珠洲郡は遊佐氏の基盤となるのである(注4)。しかし、日野氏は室町幕府にも影響力が強く簡単に押領などはできない。さらに言えば日野氏の怒りを買えばそれは将軍家にも伝わることとなり、能登畠山氏の権力低下にも繋がるということもあり、若山庄は能登畠山氏の領国経営にとって頭痛の種であったはずである。しかし、応仁の乱でよってその状況は劇的に変化した。能登畠山氏は将軍・足利義政中心の東軍(管領畠山家・政長、細川勝元中心)に対して、足利義視が中心の西幕府を支援する西軍(管領畠山家・義就、山名宗全中心)に味方するのである。これにより能登畠山家は将軍家と敵対することとなり、若山庄の領主・日野氏とも対立することになる。ここで軍紀物の言い伝え通り、1474(文明6)年に能登畠山家第3代当主畠山義統の三男・畠山義智が松波に入部したとすると、応仁の乱の後半にあたり能登における日野氏の影響力低下を狙ったものではなかろうか。同時に分国・能登における守護支配を進展させ、守護代・遊佐氏を牽制を画策することもできる。日野氏の影響力を考えると珠洲焼などが発展している珠洲の中心部より、あえて珠洲郡の南端にある松波の地に松波畠山氏の拠点を築いとは考えられないだろうか。

<奥能登の地図>
奥能登地図
<地図は「戦国を楽しむ」様から利用させていただきました!>

☆松波畠山氏歴代当主
当主 名前(生没年) 官職・その他
初代当主 畠山義智<よしとし>(?-1503) 常陸守<畠山義統3男>
二代 畠山義成<よしなり>(?-1532) 大隅守・常陸介
三代 畠山義遠<よしとう>(?-1561) 常陸介
四代 畠山常重<つねしげ>(?-1570) 右衛門尉・常陸介
五代 松波義龍<よしたつ>(?-1572) 常陸介
六代 松波義親 <よしちか>(?-1577) 常陸介<畠山義綱3男>

2.松波畠山氏年表
松波畠山氏年表へ

3.松波畠山氏系図
松波畠山氏系図

4.松波畠山氏関連人物特集
松波畠山氏関連人物特集

5.松波畠山氏と松波氏
 奥能登珠洲郡の若山庄に荘園領主である公家・日野家家臣に、松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がいた。南北朝時代から家臣としてみえ、その中でも松波氏は、1200貫の知行を持ち、最も有力とされる家柄であった(注5)。それゆえ、その出自は鎌倉後期、日野頼宣の子・忠俊が日野家庶流の松波氏の始祖となったとする説がある。また松波氏は藤原斉藤氏の一族とも言われる。
 1472(文明4)年の上村笠師大明神造立の棟札に「松波左衛門尉親実」(松波村八幡社人丹波定享二年書状)とあり、さらに1524(大永4)年の松波八幡宮造立の棟札に「藤原朝臣斉藤中務孝親」とある。すなわち松波氏は「親」の字を通字としたようである。この松波氏は松波畠山家5代当主義龍の時、松波氏を相続したと言われる。このため、松波氏は能登畠山家の一門となり居城・松波城七尾城の支城的役割を担うようになった(注6)。また、義龍は勢力基盤を強化するのが狙いか、妹を長英連に嫁がせている。松波畠山氏の地盤がこれによりますます固くなったことは容易に想像できる。6代義親は能登畠山氏9代当主畠山義綱の三男であるといわれている。5代義龍が早世したせいで嫡子が途絶えたからであろうか?ただ、天正元年の「気多大宮司宿祢旦那衆」(気多社文書・詳しくは能登畠山家の家臣組織参照)で「松波常陸殿」という記述が見えるが、畠山一門衆の中に名前が見えず家臣の名前が載っている「面々次第」の中程に記されている。考え方の一つとして松波氏を相続したから家臣の中に記載されているとも考えられるが、本当に松波氏を継いだのであろうか。少々疑問が残る。
 ひとつの推論として、この時期にはまだ「松波氏は能登畠山家の一門ではなかった」のではないかと考えることもできる。ではいつから松波氏は能登畠山家の一門になったのか。松波義親の父親を、松波万福寺所蔵の松波義親の肖像画の賛を信じて畠山義綱の三男だとすると、義親を畠山義慶暗殺後の後継者争いから外し、松波氏を能登畠山氏の譜代家臣とするために養子として送ったのではなかろうか。すると、4代当主松波義龍が早期に家督を交代している理由も納得できる。義親に継がせるため変死させた可能性もある。すると、義親以外の系図は偽造された可能性も大いにある。そして、松波義親の正統性を確保するために、「1474(文明6)年に能登畠山家第3代当主畠山義統の三男・畠山義智が松波(現・能登町)に入部し、松波城を築いた」という伝説を作り上げた可能性もある。

6.松波城の様子
能登の城松波城項へ

7.松波城下町の発展
 初代松波畠山氏当主・義智が松波に入部する際、名古屋から多数の刀工を招いて鍛治町をおくなど、各種の産業を興した。歴代当主もそれを引き継ぎ商工業が発展したという。だが、松波城下町が発展した理由はそれだけではあるまい。能登半島全体が日本海交通で重要な位置を占めていたことは、「能登島と海と畠山氏」で述べいるが、その中で松波は湊の一つとして発展したのである。中世の船は現在の漁船程度の大きさであり、多くの積荷や客人を乗せていたとすれば、その他に食料・資材などは多くは積めない。そうであるならば、度々湊に寄港して船の食料や日常品の補給などを行わねばならない。すると湊町は補給のための商店が栄えることになり、それに伴い商業や工業も発展していくのである。これらの要因が重なり松波城下町は発展していたのである。具体的に松波城下町の発展を知らせる資料として下記のような記録がある。

「天文22(1553)年調、3代畠山義遠時代」松波城下町の家数
重臣 侍分 兵子 百姓 町人
職人
外局
垣内
合計
11軒 168軒 23軒 346軒 103軒 42軒 693軒
三宅邦吉『能登畠山史要』凸版印刷株式会社.1942年 より

 1553(天文22)年の3代当主・義遠時代の松波城下町の家屋数は、合計693軒にものぼるとされ、なかでも鍛治町は刀鍛冶、御用商人、御用職人、重臣等の住居があり、もっとも栄えていたと言われる。鍛冶町においては、「多喜尾川の船便を利用」したとあることから、やはり日本海交通の港として栄えていたことが窺われる。しかし、松波の古文書は1577(天正5)年の上杉謙信の能登侵攻によりほとんど焼失したと言われ、このデータも江戸時代に書かれたものであるから、完全に中世の松波を再現しているとは言い難い。
 城下町の文化は発掘調査からも伺える。松波城跡から発掘された室町庭園の発掘調査からの枯山水遺構は、長さ5cm前後の平らな小石を4000個以上並べ、途中に大型の石19個も配置されるほどの規模であり、且つその庭園の意匠は非常にめずらしいものであり、さらに枯山水の付近から小さな草庵風の礎石建物跡(礎石の範囲が東西8.5m、南北8.3mで礎石12基)や天目茶碗等が発掘されているなど、茶道的な庭園を形作っていたと考えられている。ということは、この庭園を見ながら武将たちが茶道たしなんだり、式三献などの儀式を行ったと考えられ、それに付随して城下町に食事などを作って運ぶ商家の存在があるはずである。また、日常的に(一度や二度ではなくという意味)茶道や儀式が行われたとすれば、茶道の道具や天目茶碗の用意などもすべてが能登の中心である七尾から運んで来たとは言い難く、それを提供する商家の存在が上記「町人・職人103軒」に含まれていたのではないかと推測できる。このように、松波城は城内だけ単独で高い文化水準を誇ったのではなく、その周辺も含めて文化水準が高かったと考えられる。庭園造営前にも建物などの遺構が存在し、松波城の実態が徐々に明らかになっている。
 発掘調査は2010(平成22)年度調査で、いったん終了されたが、さらに文献調査が行われ『松波城跡庭園跡−平成18〜22年度発掘調査報告書−』(2011年、能登町教育委員会発行)が刊行された。この報告書によると、庭園の存在した時期は15世紀後半以降とされ、その廃絶は16世紀後半とされる。自主廃棄される積極的理由がないことから、おそらく時期的にみても上杉謙信の能登侵攻によって廃絶したと考えられるという。枯山水跡の整備保存は、2018(平成30)年度までには松波城址公園の全体整備とともに完了する予定という。
 能登町松波の国名勝である「旧松波城庭園」で能登町教育委員会が行った発掘調査で、庭園の築造年代が80年ほど遡る可能性があることが2021(令和3)年にわかった。庭園の周辺に同時期に作られたと見られる土師器などの土器に加え、瀬戸焼・越前焼などの陶器が発掘調査で出土し、その形状から15世紀前半のものである可能性があると言う。すると、周辺の建物群や庭園も15世紀前半に築造が始まっていたと考えられると言う。また建物の近くでは、入口を示すと考えられる、石を敷き詰めた礫敷遺構も見つかっている。能登町教育委員会によると、武家庭園は応仁の乱以降に京都から広まり、戦国時代以前の庭園は少ないと言う。従来松波城の規模や庭園の文化水準から考えて、能登畠山氏の一族である松波氏のものであると考えられてきたが、室町期の遺構となると、室町幕府や将軍・足利家とつながりが強い京都の公家・日野家の影響であることが考えられる。
※2010(平成22)年度発掘調査について、詳しくは「民歴考」様の「松波城跡庭園跡 (平成22年度発掘調査の成果)」参照

松波城内・枯山水庭園跡
↑松波城内・枯山水庭園跡
松波城枯山水庭園発掘
↑発掘調査中の枯山水庭園
写真は民有『歴史文化』資産の保存活用を考える会のご提供

8.上杉謙信の能登侵攻と松波城
 1577(天正5)年7月、能登畠山氏の本城・七尾城が上杉謙信に再び包囲されたとの報を受けると、6代当主松波義親は手勢を率いて七尾城の救援に向かった。しかし、多勢に無勢、遊佐続光が謙信に内応し七尾城が開城されると多くの武将が謙信に降伏する中、松波義親、神保周防長親、河野肥前、熊木兵部らは密かに七尾城を脱出して松波城に引き返して再起を図った。『戦国合戦大事典(三)』によると「城に入った義親は、さっそく城の諸将を集めて、『謙信に能登を踏みにじられて、そのままだまって見逃すことはできない。畠山一門の名誉にかけ、城を死守して断固戦う。やがて、長連竜も信長の援軍をつれてやってくるかもしれない。』と覚悟のほどを述べて、城兵を激励して篭城を命じた。」と書かれている。その他にも、義親は珠洲の各地域で一揆の協力体制を確立し、上杉軍と対抗しようと試みた。
 しかし、準備が整わないうちに上杉軍の侵攻が始まり、一揆軍も蹴散らされ、同年9月23日、謙信の武将・長沢光国にあっという間に松波城は包囲された。松波城兵は300人足らず、長沢の部隊は1000人に近かったという。翌24日、長沢軍のほら貝によって戦闘が開始され、義親は神保長頼、河野肥前、熊木兵部などの手勢をもって討って出た。しかし、城兵は散々に敗れ神保周防・熊木兵部は大手門近くで討ち死にし、義親自身も深手を負い、城に戻って自害した。河野肥前は包囲を抜け出し自領の堀松に脱出しようとしたが、追っ手に殺されてしまった。やがて、松波城も兵火で灰になり松波畠山氏の時代は終わりを告げたのである。能登畠山家と運命を共にしたのであった。ちなみに義親の妻子は越後にいたため難を逃れた。
 今までは江戸期に造られた軍紀物でしか、松波城の戦いを知る術がなかったが、2010年に行われた松波城枯山水庭園の発掘調査でその一端が考古学的見地から見えようとしている。すなわち、16世紀前半に作られた庭園と礎石建物が火災により消失している。さらに、16世紀後半には人為的に埋め戻された痕跡がみえる。ということは、松波城の戦い以降、占領を行った上杉氏が城の破却を行ったと推定できるのである。

9.松波畠山家のその後
 義親が戦死したため、長男連親と次男義重は長連龍に仕えた。連親は長姓を名乗り(おそらく連龍に姓と"連"の字を与えられたのでしょう)、義重が松波姓を称した。義親の子供たちは越後で母とともに暮らしていたため(理由は不明)助かった。後に長連龍に随身し、長与六左衛門連親と名乗った。弟義重(義直とも)も長氏に仕え、松波氏の子孫は長氏に代々仕えた(『加能郷土辞彙』より)。また余談ではあるが、七尾城史資料館を建設した畠山一清氏は松波畠山氏の末裔である。

☆参考資料

松波義親←6代松波義親の肖像画
(内浦町万福寺蔵)

(注釈)
(注1)松波城は海岸の近くの丘の先にあり目の前に松波川があるなど、なかなか堅固な城であったらしい。
(注2)日野氏は室町幕府の足利将軍家と婚姻関係を結び徐々に幕府内でも権力を持っていった。足利義政の室である日野富子はその典型的な例である。
(注3)その本庄氏の中で上洛して日野氏に仕え、足利将軍家に取り入り能登の守護職を得たのが本庄宗成である。
(注4)実際、16世紀の半ばには遊佐総光が若山庄の掌握を行う動きが活発化する。
(注5)能登では戦国期を通じてもなお貫高制は確立されておらず、「貫高」という表記については、前出の「松波畠山氏の所領3800貫」と合わせて再考される余地がある。
(注6)実際、1577(天正5)年の謙信の能登侵攻の時、船で奥能登から攻めたとされ、まさに七尾城の支城的役割を担っていた。

参考文献
三宅邦吉『能登畠山史要』凸版印刷株式会社、1942年
亀田康範(他共著)『日本の名族』新人物往来社、1989年
坂下喜久次「松波城址と松波義親」『七つ尾』第25号、2006年
『松波と畠山家』松波城址保存会
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