戦国大名の家臣団組織はどのようになっていたかを示す文書はなかなか存在しない。しかもそれが史料的制約の多い守護大名ならなおさらである。ここでは、能登畠山家の家臣団とその家臣組織を、古文書史料や後に編纂された資料(軍記物類)などから、断片的であるが論じてみたい。 |
(1)守護と守護代
能登畠山の祖である初代畠山満慶は、当初将軍足利義満の逆鱗に触れた満家に代わって管領畠山家の家督を継承した人物であった。将軍義満の死後、家督を兄に返還し、その礼から兄から4ヶ国の分国のうち、能登一国を与えられて能登畠山氏が創設されたのである(詳しくは畠山家の出自・能登畠山家のおこり参照)。それゆえ、満慶と満家兄弟の連携は密で協力して幕閣に重きをなしていた。当然幕政に参加しているので、満慶も分国の能登に下ることはできず守護代として遊佐祐信(基光)を置いた(注1)。この祐信も在京していたため、小守護代(又守護代)として池田主計入道が能登に在国して実務にあたっていたようである。
室町時代の守護大名は原則在京することになっており、分国の実務は守護代があたっていた。これは能登畠山家も例外ではなく、大名が深く幕政に関わっていたことから当然のごとく守護代という役職が必要であったのである。ただ、この守護代という職は室町幕府の崩壊過程にあって下剋上の一端をなすに役になった。というのも、在京している大名に代わり在国して家臣を従えているのだから、国内の被官や国人を掌握することができるからである。これが、室町時代にしばしば下剋上をもたらした要因であった。
しかしこの守護代の下剋上は能登ではあてはまらなかった。従来在京であった能登畠山家が変わっていくのが、3代当主畠山義統の頃である。1467年に将軍家と管領畠山家の家督争いから始まった応仁の乱で荒廃した京都を見限って、義統は分国能登に帰国し、以後基本的に能登畠山氏は在国大名となったのである。この応仁の乱を契機として多くの大名は京都を離れたが、守護代にすでに権力を握られ帰国できずに、あるいはほとんどの権力を奪われた守護大名も多かった。だが、能登畠山家では帰国後も守護(大名)−守護代体制を維持しながら、大名権力の支配強化に勤めることに成功したのである(注2)。また歴代の守護はただ守護代家に政治を任せるだけでなく、守護代権力の弱体化も考えていたようである。例えば7代当主畠山義総は、守護代の権力を削減するため遊佐美作守家ではなく、庶家である遊佐豊後守家の者(「秀」を通字とする遊佐秀盛と[守護代:1515-1521頃]、遊佐秀頼)を守護代に据えたのである。その結果、中央の政治から退けられた遊佐美作守家の人物である遊佐美作守総光は、畠山家中政治を取り仕切ることなく、珠洲の自領の統制に力を注ぐことになったのである。
しかし、8代当主畠山義続が家督を継ぐと、再び遊佐美作守嫡家の人物が政治の表舞台に登場してくる。遊佐美作守続光である。続光は義総政権で義総に寵愛されて政治の表舞台に登場した温井総貞と権力争いを始め、畠山家中の双璧をなすにいたったのである。そして、総貞と続光の争いから能登畠山家の政治的内乱が始まるのである。さて、一旦没落したかに見えた遊佐美作守家が復活できたのは、やはりその守護代家という家柄に所以があるのかもしれない(注3)。ただ、この義続政権期の能登畠山混乱期に入ると、守護代という職は見られなくなる。これは、守護代遊佐嫡家の地位の低下と言うより、守護代の仕事を重臣たちの合議体制で大名権力を奪った畠山七人衆が代わりに行ったことが影響していると言えるのではないか。その後、義綱政権期では義綱専制体制(詳しくは畠山義綱特集参照)が現出したため守護代は確認できない。義綱が重臣たちに追放された永禄九年の政変以降では、やはり遊佐、長、温井らの重臣たちが年寄衆として強力な実権を握っていたため、やはり遊佐美作守家の守護代職は確認できない。
とにもかくにも、能登畠山家では守護代家である遊佐美作守家は大きな影響力を与えたということができよう。
(2)重臣組織の伝承
畠山満慶が能登一国守護に任命され、1408(応永15)年に能登畠山氏が創設されると、満慶は畿内から管領畠山氏の譜代家臣である遊佐を始め、三宅・神保氏・平・佐脇・誉田らを能登に派遣した。その一方で、天野や温井などの能登在地の国人を被官にするなど積極的な支配体制を構築していった。
後記に編纂された資料によると、これらの家臣をこう分類している。天野氏、松波氏、河野氏、神保氏、三宅氏、笠松氏、土田氏、徳田氏、誉田氏を御屋形衆(おやかたしゅう)と呼び、古くから畠山氏と親近の家柄で別名じっこん衆とも呼ばれている。また、畠山八臣と呼ばれる家柄があり、そのうち遊佐氏、神保氏、平氏、本田氏を「畠山四臣」と呼びぶ。また、温井氏、三宅氏、甲斐庄氏、伊丹氏を「畠山四家」と呼ぶ。「畠山四臣」は譜代由緒の家柄で、「畠山四家」は家柄は古いが後に衰えた家か、新参で知行一千貫以上の重臣の家を指すと言い、主君を補佐し政治の実務にあたる「執事」という職はこの「畠山八臣」から選ばれたという。
確かに「甲斐庄駿河守家政」という人物が畠山義忠の「執事」になったと長家家譜などは伝えているが、政治の実務にあたっているはずの家政の発給文書は一枚も発見されていない。また、家柄は古いが後に衰えた家とする「畠山四家」のうち、温井氏には温井景隆が、三宅氏には三宅長盛が晩年の畠山家でも活躍が知られており(詳しくは畠山義慶特集参照)「後に衰えた家」とは言い難いのではないか。やはりこれは、江戸時代前田藩家臣として残った長家などが後世に書いた創作と言えるのではないかと思う。
(3)畠山七人衆
能登畠山氏の政治体制は基本的に守護−守護代体制に依っていたことはすでに前述した。しかし、8代当主畠山義続が家督を相続すると、前当主義総に寵愛された温井総貞と義総に疎まれ抑圧されていた守護代嫡家の遊佐続光が台頭し双璧をなした。この二人は権力争いを展開し、その結果能登国内は激しい内乱状態となった。その混乱を解決すべく生み出された体制がこの「畠山七人衆」であった。これは、重臣たちの合議体制によって国政を運営するものであり、これによって重臣間(特に総貞と続光)の争いを収め、大名の権力を奪うという効力をもっていた。これによって、能登畠山家の大名権力は奪われたのである。ただ、七人衆は1552(天文21)年〜1554(天文23)年までの第一期(第1次七人衆期)と、同年から1555(弘治元)年までの第二期(第2次七人衆期)に区別され、それぞれ構成員もその存在意義も異なっている。
しかし、その七人衆体制も温井氏・三宅氏を能登から追放し、それらの反乱である弘治の内乱を鎮圧することに成功した畠山義綱による義綱専制体制によって終焉するのである(詳しくは畠山七人衆体制と権力闘争を参照)。
第1次七人衆(1552-1554)
温井総貞、長続連、三宅総広、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円、遊佐続光
重臣間の争いを収めるために生まれた七人衆。遊佐続光と温井総貞と外様ではあるが、強力な軍事力を有する長続連の3人が実力を持っていた。
第2次七人衆(1554-1555)
長続連、三宅総広、遊佐宗円、三宅綱賢、温井続宗、飯川光誠、神保総誠
総貞と続光の権力争いで起こった大槻一宮の合戦で、続光が敗退した為、総貞の主導で欠員を補充したものである。総貞自身は権力集中の批判を避けるため入道して紹春となったが、実権は依然として温井紹春(総貞)が握っており、事実上「総貞専制体制」と言える。
(4)天正期の能登畠山家臣団と気多大社の交名
畠山義慶政権は、1573(天正元)年に気多大社の摂社若宮神社を造営し完成させた。それゆえ、家臣団から志納料などの寄付が寄せられそれをまとめられた「天正元年大宮司宿祢旦那衆」が作られたのである。最初に出てくる畠山義慶などの人物は、社務奉行である寺岡紹経の名前があることから、気多社造営に関わった人物と考えられる。義慶の弟と言われる畠山義隆と思われる「二本松義有」が登場したり、西谷内畠山氏の人物である畠山将監がいたりするのが興味深い。
さて、次の「面々次第」は気多社に寄付をした面々であると思われる。ここで多額の寄付をした者を拾ってみると「遊佐美作守殿」(続光)が300、「三宅小三郎(宗隆)殿」が600、「長対馬守(続連)殿」が300、「温井備中守(景隆)殿」が1000が挙げられる。この遊佐、三宅、長、温井らは、義慶政権の中心人物であり寄付金も多額になったであろうことが推測される。また、「遊佐美作守殿」の寄付金の額を見ると、「他内百」という記述が見られる。これは「遊佐美作守家」の身内の人物で他に100寄付したということであろうことが推測でき、そうであれば、ここに記載されている面々はそれぞれ独立した家柄を持っていることになる。その考えに拠ると、遊佐氏については、嫡家である「遊佐美作守家」の他に「遊佐信濃守家」「遊佐左馬頭家」「遊佐豊後家」の3家の庶流家の存在がわかるのである。
文書に出てくる人物の官途から、この文書が作られたのは天文年間(義総か義続政権期)とする考え方もある。その考えに従えば、遊佐信濃守は「宗円」。温井備中守は「総貞」などと人物を時代に応じてあてはめることができる。しかし、確固たる証拠があるわけではない。また、義続政権期とすれば畠山義続は修理大夫の官途には見えないという点、義総政権期とすれば長続連が畠山家中に見えるはずがないという問題点もある。現状では、素直に「天正元年」と解釈する方がスムーズではなかろうか。
(前欠) 能登衆 畠山修理大夫(義慶)殿 二本松(義有)殿 同将監殿 治部大夫殿 弥太郎殿 [不明] [不明] 同刑部少殿 吉見三郎殿 同七郎殿 西方殿 野間殿 寺岡(紹経)殿 面々次第 遊佐美作守殿 三百 他内百 神保宗左衛門尉殿 百 三宅備後守(長盛)殿 五十 遊佐信濃守殿 七十 伊丹宗右衛門尉殿 五十 平賀々守(尭知)殿 百五十 誉田遠江守殿 五十 三宅筑前守殿 五十 神保周防守殿 五十 三宅小三郎(宗隆)殿 六百 長対馬守(続連)殿 三百 温井備中守(景隆)殿 千 飯河若狭守殿 弐百 遊佐左馬頭殿 丗 隠岐豊前殿 七十 佐脇源左衛門尉殿 七十 松波常陸(義親)殿 弥郡丹後殿 丗 飯河左京殿 同肥前殿 三宅丹波守殿 五郎ゑもん殿 此三人 三十 同弾正殿 佐脇美濃守殿 徳田佐渡(秀章)殿 万行殿 圓山殿 小嶋殿 太田殿 武部殿 豊田殿 遊佐豊後殿 柳川殿 同十郎左衛門尉殿 土田殿 天野石見殿 深野殿 加治殿 高津殿 温井下総殿 同山城殿 下々有レ之 同五郎左衛門尉殿 同藤八郎殿 長名字 飯河名字 |
(5)家臣の家柄と出自
(注釈)
(注1)以後、基本的に遊佐美作守家が能登守護代嫡家の家柄として能登に影響を及ぼすことになる。また、祐信の実名は「基光」であり、この美作守家はその通字を「光」とした。
(注2)能登で守護代による下剋上が起こらなかった要因として考えられるのは、能登の治世を守護代に丸投げをしていたのではなく、色々と細かい指示を守護代に与えて分国に影響力を及ぼしていたという理由もあろう(詳しくは畠山満慶特集参照)。
(注3)或いは全くの推論の域を出ないが、父義総に寵愛を受けた温井総貞を牽制する為に義続が続光を抜擢したのかもしれない。
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