天堂城(天堂城址)
<輪島市指定史跡>


天堂城址01
(写真:天堂城址散策道の看板(注1)

読み仮名 てんどうじょう
別名
所在地 輪島市別所谷町
形式 山城
築城者 温井俊宗ヵ
築城年 文明初年頃ヵ
遺構 本丸跡、土塁、空掘、石垣、櫓跡等
歴代城主 温井氏
交通 ふらっと訪夢輪島駅から車で25分ほど。
  
 天堂城は、畠山家の重臣である温井氏の本城である。しかし、温井氏統治時代の文献史料がほとんどなく、天堂城はさほど注目されていなかった。ところが、郷土史家の池端氏が伝承などから、天堂城跡をくまなく探し、石垣などを発見し、その規模がかなりのものであることを裏付け、その存在が注目されたのである。
 室町時代初期の頃の輪島地域は、将軍の奉公衆である長氏が領していたが、文明年間以後は温井氏の名前が古文書にでてくるようになる。それゆえ、天堂城の築城年代は郷土史家の高井勝己氏がその著書『天堂城跡』で「文明初年頃ではないか」としている。
 温井氏は総貞の代に畠山義総の下で頭角を現し、義続政権で実権を握った。しかし、大名権力の回復を図った義綱に弘治元(1555)年暗殺されたと言うが、暗殺されたという良質な史料は今のところ無い。しかし、総貞が没してから温井氏は義綱と対立したようで、温井軍は総崩れ状態で天堂城を長氏に攻められ戦わずして城を明渡している。天堂城の廃城時期はここに求められると高井氏は指摘している。なお、長氏に攻められた際、天堂城には温井氏の臣が金品を隠したとされ、埋蔵金伝説が伝わるが、実物は見つかっていない。
 現在の天堂城は、高井勝己氏など郷土史家によって遺構が見つかっている。城跡へ入るには、道路側に立てられている天堂城案内板より少し輪島市街地方面に戻ってから入らなければならない(詳しくは下の入口の写真参照)。輪島市によって遺構の案内板が建てられているが、大まかなもので現物の遺構がどこにあるかわかりにくい。探索にいくなら縄張りなどが書いてある本をもっていくことをおすすめする。また、城跡は車ではかなり入りにくい道なのでできれば徒歩で登りたい。
 天堂城は輪島市街地がある大屋湊から車で25分くらいかかる地に存在する。それだけ離れたところに天堂城が構えられた理由は、室町初期に見られる居館(平時)と防御拠点(有事に緊急避難する拠点)との分離ゆえであろう。天堂城は典型的な山城であり、温井氏が防御しやすいことを念頭に築城したものである。しかし、天堂城の周りに結構な数の寺社(跡含む)があることから、畠山支配の安定した時期より温井氏も徐々に経済的支配に目を向けていったと考えられる。また、天堂城の近くには川がありそこに湊が存在したらしいので、海の輪島港とも結構密接に連携がとれたのではないかと想像する。つまり、天堂城及び城下町と輪島港は別々に発展してきて、時代が下ったあと、温井氏の支配が及んだのではないかと推定できる。
 また、天堂城の南に出城として温井氏が築いたとされる輪島市三井町渡合に姫ヶ城(渡合城)がある。2010(平成22)年に輪島市がその再整備の方針を示し、現在城山には案内板や「能登三井姫ヶ城 城山会」の看板が立っている。

<★☆★天堂城址その他の写真★☆★>
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天堂城址02
↑かなり広大な城域である
天堂城址03
↑城跡へ入る入口の道。
天堂城址04
↑首切畑付近で最初の案内板(注2)
天堂城址05
↑木戸元、右門への分岐(注3)
天堂城址06
↑殿様屋敷分岐(注4)
天堂城址07
↑空掘があちこにある
天堂城址08
↑兵庫屋敷付近(注5)
天堂城址09
↑兵庫屋敷付近の森

(注釈)
(注1)「輪島市指定史跡 一廓 昭和32年8月13日指定 この城跡は、輪島市街地から西南約7km地点にある犬伏山(標高333.6m)の中腹一帯に残っている。東西約1km、南北約2kmの範囲に築かれていた山城で、奥能登地域では最大規模を誇っている。城跡登山口から進入すると、「木戸口」となり、左側に鐘付堂跡、右側に櫓台が残っている。首切り畑をすぎると「木戸元」があり、城門となる土塁が残る。道の分岐点から空掘を渡ると、城の中心となる「殿様屋敷」地内となり、銭蔵や庭園の跡が残る。空掘の長さは、西から南側にかけて約400m、西から北側にかけて約300mで、幅は上辺25m、底辺6m、深さ10mである。殿様屋敷の西側に兵庫坂があり「兵庫屋敷」へと通じている。東側に物見櫓建てられていた高台(標高224m)がある。高台からは、七尾城山や石動山を遠望することができる。また、各所に平坦地が見られるが家臣の屋敷跡である。さらに、石垣の形跡が多数見られることから守護大名クラスの居城に相当する。築城は、室町時代の能登守護畠山義統の執事温井備中守俊宗が北辺の守りのため築いたとも伝えられている。温井氏が輪島の領主として文献で初見となるのは、南北朝時代の至徳2年(1385)のことである。その後、俊宗−孝宗−総貞−続宗−景隆と嗣ぐが、天正10年(1582)織田信長が本能寺にて横死したことで、能登奪回の野望に燃え石動山衆徒と組み前田利家と戦って破れて滅亡した。」と書かれている。
(注2)上から「木戸の口」「鐘付堂跡」「屋敷跡」「首切り畑」と書かれている。
(注3)「木戸元(右門)」と書かれている。
(注4)上から「空掘跡」「園山」「殿様屋敷跡」「石垣跡」と書かれている。
(注5)上から「兵庫屋敷跡・兵庫坂」「本丸跡」と書かれている。

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