畠山義忠特集

畠山義忠イメージ像
↑畠山義忠イメージ像(畠山義綱画)

☆畠山 義忠<はたけやま よしただ>(1390〜1463)
 能登守護・七尾城主。左馬助・阿波守・修理大夫。御相伴衆。入道して堅良。畠山満慶の嫡男。 満慶の死去をうけて1432(永亨4)年能登畠山家を継ぐ。幕政の中枢に位置するほどの実力者であったが、嫡子義有が病死するなど不幸が続き1455(康正元)年には嫡孫義統に家督を譲った。幕府の月次和歌会に頻繁に列席するほどの文化人。

義忠支配体制ちぇっく!


守護:畠山義忠(在京)
守護代:遊佐忠光(能登在国)


 第2代当主となった義忠も初代当主・畠山満慶と同様に京都に在住し幕閣の中枢に位置する不在守護であった。そのため遊佐祐信の嫡子・遊佐忠光を守護代に任命し、実質的な義忠政権の能登国政を行っていたしていた。不在守護でありながら、畠山氏は着実に能登の国人を大名の被官としていった。満慶・義忠の時代に被官となったものは羽咋郡の得田・天野。鳳至郡の弥郡・筒井などの諸氏がいた。また、畠山宗家の分国である隣国・越中の阿努荘の代官に遊佐忠光が就任し 、同領内で義忠の守護請が行われている。これは、河内・紀伊の分国経営に力を入れているおり越中の分国経営が手薄になりがちな畠山宗家と能登畠山家が協調して越中の経営を行っていたと富田正弘氏は指摘する(注1)

義忠政治活動ちぇっく!
 1423(応永30)年に足利義持夫妻と息子・義量が管領・畠山満家邸に臨んだ時に、父畠山満慶と共に義忠も供奉して外交デビューしたのが義忠の初見である。父満慶が文盲なため文芸に疎いという理由からか、1428(正長元)年8月に幕府月次和歌会に参会してから頻繁に同会に参加していた。さらに1429(永享元)年、義忠は後の6代将軍・足利義宣(後の義教)の元服の際に父満慶に代わって理髪役を努めるなど、家督継承前に早くも幕閣の中枢と関わりを深くしていた。
 義忠は当主を継いだ2年後の1434(永亨6)年には御相伴衆に列したとされる。この例からわかるように、満慶から義忠に家督継承後も能登畠山家の地位は衰えなかったようだ。これは、管領畠山徳本(持国)とも懇意であり、南都伝奏の万里小路時房とも親密な関係があった。また、時房の義忠宛文書には他の大名より丁寧な書き方で記していた。その理由は能登畠山家が足利 一門であるという理由である(注1論文より)。しかし、単にそれだけの理由ではないはずである。能登畠山家は畠山一門でも庶家であり、普通に見れば格下である。しかし、能登畠山家家は庶家とはいえ、幕府の中枢に位置する。畠山国清の家柄再興という意味合いの「匠作家」と呼ばれた事は、ただの庶家ではないという意味の現れである。また、時房は何度か義忠に対し、将軍家や管領家などへの仲介や口入などを頼んでいる。これは、義忠が管領・畠山持国との深い関係があったことや、幕閣で中枢をなした三宝院満済とも頻繁に交流したり、8代将軍・足利義政の建築普請にも積極的に関わるなどから、かなり幕政の中枢に位置したのも理由の1つである。

 また、義忠は能登の分国経営にも余念がなかった。義忠は分国能登では荘園領の守護請(守護が税の徴収代行をすること)をかなり進めており、その代官に自らの被官をあてている。その中で幕府御料所の守護請も行っているが、年貢の未進を重ねるなど押領などを頻繁に行っており、守護家の収益強化を積極的に図っていたようだ。一方で義忠は永光寺(羽咋市)や総持寺(輪島市)などの寺領の保護した事例がよくみられ、自らの信仰を領国にも浸透させようとしていたとみられる。さらに、一説には韓国・中国と密貿易を始めとも言われ、領国基盤の強化には余念がない。在京守護としては義忠は守護代の遊佐忠光に内意を伝達しており、忠光もその意向をよく捉えて動くなど、領国経営システムもまた安定したと言えよう。

 義忠が1441(嘉吉元)年頃から1444(文安元)年頃に剃髪し入道した。畠山宗家の徳本方(義就流)と政久方(政長流)の内紛では、それまで一貫して畠山持国(徳本)を支援していたため、義就流についた。そのため京都の義忠邸が放火されるなど、内紛に巻き込まれていった。そして、1455(康正元)年に嫡孫の義統に家督を譲 って自らは後見人となり隠居した。その後は京都郊外(大原)で隠遁し、1463(寛正4)年死去した。 

義忠文化芸能ちぇっく!
 能登畠山家を創設した畠山満慶は字が読めなかったとも言われ、その政治的な華々しさに比べ、文芸的実績は皆無だった。そこで実質能登畠山氏の文芸の祖と言えるのがこの義忠である。義忠は京都歌壇のパトロンであり、特に正徹(1381〜1459)との交流は多岐にわたる。義忠は和歌を好み、1428(正長元)年8月に幕府月次和歌会に初参会してから幕府の和歌会には必ず列席し、公家の日記などの古文書に見える義忠の参会実績は枚挙に暇がないほどである。自邸でも度々当代一流の文化人などそうそうたるメンバーを集めて和歌の会を催した。義忠が交流した雅友として正徹、尭孝など一流の文化人が知られる。このことからも義忠が早歌の名手であったことが伺える。他にも蹴鞠、松囃、猿楽などの芸能にも精通し幕閣の守護大名のなかでも風雅の士として名が高かった。しかし、何故か連歌の功績がない。義忠の和歌は、『続郡書類部』和歌部に「畠山匠作亭詩歌」という詩歌集が載っていて、その中に畠山修理大夫堅良の詩歌が載せられている。下記にその和歌を抜粋する。富田正弘氏(注1論文より)はこの詩に「領国能登の冬の情景を思い浮かべて詠んだもの」と評している。さらにこの文芸は、義忠の能力を高めただけに非ず、義忠に多方面との交流した実績をもたらし、それが幕閣の中枢に位置した一因とも言えよう。
 ちなみに、小川剛生氏の「冷泉為広と能登畠山氏」(『加能史料会報』第20号,2009年)によると和歌Bで、「同年齢であったことを述懐して、先に没した雅世を悼む。雅世は明徳元年(1390)生であるから、従来未詳とされていた義忠の成年・享年も明らかになる。」と指摘している。

和歌A
野も山もみなうつもるゝ雪の中しるしはかりの杉の村立
畠山修理大夫(賢良)

和歌B 1453(享徳2)年 雅世一周忌品経和歌 の2首
うたかたひも なかき命と きくからに なをたのみある 法のことのは

としなみは おなしみきはを たちわかれ いつちゆきけむ 和歌の浦人

義綱公式見解「文化にかなり精通した文人大名である。」

(注釈)
(注1)富田正弘著「『建内記』にみえる能登守護畠山義忠」(『加賀・能登歴史の窓』所収)

参考文献
小川剛生氏の「冷泉為広と能登畠山氏」『加能史料会報』第20号,2009年
東四柳史明『戦国大名系譜人名事典』新人物往来社.1986年
加能史料編纂委員会『加賀・能登歴史の窓』青史出版,1999年

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