笠松但馬守特集

笠松但馬守イメージ絵
↑笠松但馬守イメージ像(畠山義綱画)

☆笠松 但馬守<かさまつ たじまのかみ>(生没年不詳)
 仮名平四郎・新介。実名不詳。但馬守。武勇に優れる者だったようで、弘治の内乱では義綱軍の同陣主飯川光誠の下、数々の戦功を挙げており、多くの充行状などを得たて畠山家中でも一目置かれる存在となった。永禄九年の政変ではいったんは義綱に属すものの義慶政権に寝返った。畠山家滅亡後は長連竜と行動を共にした。

但馬守政治活動ちぇっく!
 下記にあげた笠松文書における(古文書E)(古文書L)は、弘治の内乱の時に戦功を挙げたり馳走したために主君・義綱や同心主である飯川光誠から得た文書である。これによると、(古文書A)で「入城之儀」とあるので、七尾城に篭城中の義綱軍に加勢したことがわかる。これ以降笠松新介(後の但馬守)はめざましい活躍を挙げる。(古文書G)(古文書I)によると「用脚○○疋到来」と見え、新介が弘治の内乱で使用する戦費を調達していることがわかる。このような活躍と数々の戦功があり、諸役免除の恩賞を沙汰されたのであろう。
 ではそのように活躍を遂げた新介の地位はどのようなものであったのだろうか。(古文書E)・(古文書J)では馳走に対する感状の発給者が畠山義綱が笠松新介の同心主である飯川光誠に命じて発給させている形をとっている。しかし、これ以降の馳走を謝する発給文書の発行人を見ると、大名である畠山義綱本人から発給されていることに注目できる。これは新介のめざましい活躍により、一土豪である笠松氏が大名に直接感状を貰えるようになるほど地位が向上したと見ることができる。また、弘治の内乱が収束した永禄年間に発給された文書には、宛所が「笠松但馬守殿」と見え、義綱から但馬守の官途を与えられるなど相当の恩賞があったことは想像に難くない。
 弘治の内乱を経て義綱の大名専制が確立した1560(永禄3)年〜1566(永禄9)年の時期に発給されたと見られる(古文書M)では、義綱の政策を実行する奉行人に命じられているので、この平和な期間も義綱に従い活動していたと思われる。
 永禄九年の政変で、義綱・徳祐(義続)父子が追放されると、但馬守はいったんは義綱方に付いたようである。しかし、1567(永禄10)年と見られる遊佐続光長続連八代俊盛ら反義綱派で義慶政権の中枢にいる人物たち3人から被官屋敷などの領地を安堵されており(古文書O)、この時期に義慶方に寝返ったと見られる。3人の文書の末尾が「恐々謹言」で終わるなど丁寧な表現を心がけていることから、如何にこの3人が但馬守を認めていたかがわかる。東四柳史明氏も1568(永禄11)年において「義慶を擁立した年寄衆から当知行分と被官人屋敷の安堵をうけており、弘治・永禄の内乱を通して、その政治的地位を高めていた。」(注1)指摘している通りである。また、近江に逃れた「義綱亡命政府」からも誘われて一端は義綱方に付くなど但馬守は相当戦力として重要視されているようである(古文書P)(古文書Q)

但馬守出陣履歴ちぇっく!
 笠松文書に多くの発給文書の写しが残っているおかげで、押水の合戦七頭の乱や、弘治の内乱においての但馬守の合戦での活躍がわかる。(古文書A)によると押水の合戦で畠山駿河と渡りあい太刀打ちをして太刀疵(太刀での傷)を負うなど勇戦ぶりを発揮している。(古文書L)によると「沢野村百姓心替」とあり、義綱方についていた百姓が温井方に寝返っていることがわかる。そのような不利な状況の中でも但馬守は「無比類働、殊鑓疵五个所候」とある通り、比類無き働きをして鑓疵(槍傷)を五个所(5箇所)も負ったらしい。このように弘治の内乱では、義綱軍が当初は非常に不利であったがその中にあって勇敢に戦い戦功を挙げたのである。非常に武勇の高い武将であることがわかる。

(古文書A)飯川光誠書状写(笠松文書)<1547(天文16)年>
于端郡押水、(畠山)駿河殿一戦之刻分射、則駿河殿被渡相、太刀討、太刀疵被疵候。無比類御高名ニ候。弥向後御心懸肝要候。恐々謹言。
(天文十六年)
壬七月七日
 
 笠松新介殿
  御宿所
飯川主計助
 光誠(花押)
 
 
 
(古文書B)温井総貞書状写(笠松文書)<1550(天文19)年>
去廿六日於遊左馬之下口被討、可然矢無比類御働之由候、御高名之至無是非候、彌御馳走肝要候、恐々謹言。
(天文十九年ヵ)
十月廿九日
温井備中守
 総貞(花押影)
 笠松新介殿
  御宿所
 
 
(古文書C)飯川光誠書状写(笠松文書)<1550(天文19)年>
去廿九日於留守之首一戦之砌、被射能矢候、御高名之段、無比類候、彌向後御心懸肝要候、恐々謹言、
(天文十九年ヵ)
極(十二)月三日
飯川主計助
 光誠(花押影)
 笠松新介殿
  御宿所
 
 
(古文書D)飯川光誠書状写(笠松文書)<1550(天文19)年>
今度於大宮坊(鹿島郡石動山)、首壱被討捕候、御高名之至、無是非候、彌向後御心懸命肝要候、恐々謹言、
(天文十九年ヵ)
極(十二)月廿一日
飯川主計助
 光誠(花押影)
 笠松新介殿
  御宿所
 
 
(古文書E)飯川光誠書下写(笠松文書)<1556(弘治2)年>
今度入城之儀、一廉用ニ御立候、就夫千疋并五人扶持、如前々申談候、御取次之内より、全可有所納之状如件、
弘治二年
 二月廿八日 (飯川)光誠(花押)
  笠松新介殿へ
まいる
 
 
(古文書F)畠山義綱充行状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
今度於度々無比類働神妙候、就其(鳳至郡)諸橋山中一円申付候、全知行肝要候、謹言、
(弘治三年)
二月廿七日
(畠山)義綱(花押)
笠松新助殿
 
(古文書G)畠山義綱充行状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
用脚五百疋到来候、悦存候、就其(鳳至郡)櫛比之内徳田蔵人丞分宛行、永全可知行状如件、
弘治三年六月三日    (畠山)義綱(花押)
 笠松新介殿
 
(古文書H)畠山義綱安堵状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
就種々令馳走候、当知行(鳳至郡)諸橋中山〔山中〕恒例拾疋并雇銭、令免除候、永全可知行状如件、
弘治三年
 六月廿四日
   (畠山)義綱(花押)
  笠松新介殿
 
  (古文書I)畠山義綱充行状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
(鳳至郡)櫛比徳田蔵人丞分籠城中依申付、重而用脚千疋到来候、就其手前惣出銭役令免除候、永代無違乱宛行所如件、
(弘治三年)
九月朔日
   (畠山)義綱(花押)
 笠松新介殿
 
(古文書J)畠山義綱書状写(笠松文書)<1557(弘治3)年>
今度相破候砌、笠松新介早速馳走候。殊種々馳走共神妙候。相当之壱所可申付候。弥可忠功由可申聞候。謹言。
(弘治三年)
十月十日
(畠山)義綱(花押)
飯川若狭守(光誠)殿
 
 
(古文書K)畠山義綱充行状写(笠松文書)<1558(永禄元)年>
就備前三郎腰物之義、千五百疋到来、祝着候、然者(鳳至郡)諸橋山中百人夫・棟役一円免除候、并大石町屋敷七个所充行候、永代可被知行状如件、
永禄元年
 六月四日
   (畠山)義綱(花押)
  笠松新介殿
 
(古文書L)畠山義綱感状写(笠松文書)<年未詳>
去四月(鹿島郡)沢野村百姓心替候処、以馳走属本意候、無比類働、殊鑓疵五个所候、神妙之程、于今不始候、彌忠節簡(肝)要ニ候、猶飯川若狭守(光誠)可申候、謹言
永禄元年
 正月六日
   (畠山)義綱(花押)
  笠松新介殿
 
 
(古文書M)畠山義綱奉行人連署状写(笠松文書)<1562(永禄5)年>
(鹿島郡)石動山妙日坊御寄進依相違、以来即可再覆、御月宛内五拾疋被付、双方百疋、三月より十二月迄十貫文分、為定納被仰付候旨、執達如件、
永禄五年
 三月ニ日
   (井上)英教(花押)
(長)連理(花押)
  笠松但馬守殿
 
(古文書N)畠山義綱奉行任宛行状(笠松文書)<年次未詳>
 尚々高上屋敷前五个所之事候也。敷地之事高上屋敷一円ニ被充行候。前五間有之。他之違乱不之候者也。
(年次未詳)
 七月廿日
   井弥九
 英教(花押)
長参
 連理(花押)
  笠新(笠松新介)
 
(古文書O)遊佐続光等連署状写(笠松文書)<1567(永禄10)年>
当知行ニ个所并衣(被)官人屋敷等之事、如前々不可有相違候、然者早々御下専一候、尚高田方可有演説候、恐々謹言
(永禄十年ヵ)
 九月十一日
   八安(八代安芸守)俊盛(花押)
長対(長対馬守)続連(花押)
遊美(遊佐美作守)続連(花押)
  笠松但馬守殿
進之、
 
(古文書P)遊佐続光等連署状写(笠松文書)<1568(永禄11)年ヵ>
此度早速走参、馳走肝要候。前篇以来忠節可相捨段、不分候。尚飯川若狭守(光誠)可申候。謹言。
(永禄十一年ヵ)
 正月廿一日
   (畠山)
義綱(花押)
 笠松但馬守殿
 
(古文書Q)遊佐続光等連署状写(笠松文書)<1568(永禄11)年ヵ>
此度早速被走参、御馳走肝要之旨、被御書候。前々御忠節可相捨義如何、前後御分別此時候。相心得可申之由候。恐々謹言。
(永禄十一年ヵ)
 正月廿一日
   (飯川)
光誠(花押)
 笠松但馬守殿
  御宿所 
 
(古文書R)長連竜書状写(温故足徴)<1581(天正9)年>
今度者金子弐枚御馳走令祝着候。就レ其井田中村之内斎藤新五郎知行方、米銭共ニ四拾貫文之分、永代相渡申候間可御知行候。若彼地於相違者、以他所相当則相渡可申者也。仍證文如件。
天正九年
 八月十七日
  
(長)連竜(花押)
 笠松但馬守殿
 
 
 

但馬守系譜関係ちぇっく!
 笠松但馬守の系譜図は実はよくわかっていない。『戦国人名事典コンパクト版』には、「新介某の息子」としか書かれていないが、片岡樹裏人著『七尾城の歴史』では「即ち飯川氏から御屋形衆笠松氏の跡を継いだものである」や「飯川半隠斉が飯川若狭の討死を、その子笠松平四郎に宛てた」という記述から、飯川氏の出自である事が知られている。この飯川若狭守は飯川光誠の父だと思われるので(詳しくは飯川光誠特集参照)光誠が但馬守の兄弟となる。押水の合戦七頭の乱弘治の内乱において但馬守は光誠を同心主とする軍団に属していることから、光誠が兄、但馬守が弟と考えることもできる。
 しかし、片岡氏は同書で「飯川半隠斉が飯川若狭の討死を、その子笠松平四郎に宛てた」と主張しているのは、1531(亨禄4)年と思われる飯川宗春の笠松平氏郎宛の書状は「御親父若狭守一所御討死之儀、且者感悦、且者御心元」という内容から解釈していると見られるが、これを見る限りには笠松平四郎の父は、飯川若狭守とは解釈するには難しいものがある。この古文書からわかるのは、笠松平四郎の御親父と飯川若狭守が一緒に討死したということでだけである。すなわち、片岡氏の「飯川半隠斉が飯川若狭の討死を、その子笠松平四郎に宛てた」とする解釈は誤りであろう。とすると何に依拠したのかわからないが「即ち飯川氏から御屋形衆笠松氏の跡を継いだものである」という記述の信憑性もわからなくなってくる。
 ではいったい笠松氏というのはどのように能登畠山氏と関わってくるのであろうか。考えるてがかりのひとつとして、能登畠山氏の被官として登場する笠松氏はこの但馬守以外は知られていないという事実がある。また、近世史料のひとつに『能登志徴』というものがあるが、その「笠松但馬居跡」の項に笠松氏と畠山家の関わりについてこのように書かれている。「元祖但馬。越前国吉田郡志比庄笠松の城主にて、朝倉家の幕下也。永正・大永之比、為一揆彼城戦死す。其子新介能登国に来り、畠山式部大輔義憲に随心し、享禄四年十月朝倉宗滴加賀国退治発向之時、畠山諸勢と共に討出、飯川若狭等と共に加賀国津幡にて討死す。其子但馬。若名平四郎又新介と称す。」(注2)とする資料がある。これによると、ここで取り上げた笠松但馬守新介の父・新介の時に越前(注3)から能登畠山家に来たこととなっている。近世に成立した史料の中では、笠松氏は畠山家の「御屋形衆(おやかたしゅう)」のひとつであり、古くから畠山氏と親近の家柄で別名じっこん衆とも呼ばれるとしているが、一次資料の古文書にも、近世史料にも能登畠山時代前半に笠松氏の名がでないことから、おおよそこの記述を信用しても良いのではないかと思う。
 では飯川氏と笠松氏との関係は、どんなつながりがあったのであろうか。飯川光誠特集は笠松但馬守の同心主であったが、これはおそらく1531(享禄4)年の加賀津幡の合戦でも同じ関係にあったのではないだろうか。すなわち、この合戦で討死した笠松平四郎(後の但馬守)の父・新介の同心主が飯川若狭守であり、若狭守の同陣が敗北したからこそ、若狭守と新介は一緒に討死したのではなかろうか。

(注釈)
(注1)(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社.1981年
(注2)『石川県中世城館跡調査報告書U(能登T)』(石川県教育委員会,2004年)P.138より
(注3)越前朝倉氏に「笠松平次郎」という人物が16世紀初頭にいる。笠松但馬守とその父の仮名も「平四郎」であり、「次」と「四」の違いで、越前笠松氏と同系統の可能性もある。しかし、仮名は似ているものも多くあるので、単なる推測は危険かもしれない。

参考文献
(共著)『戦国大名家臣団事典西国編』新人物往来社,1981年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会.1968年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
東四柳史明「能登弘治の内乱の基礎的考察」『国史学』122号.1984年
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