八代俊盛特集

八代俊盛イメージ像
↑八代俊盛イメージ像(畠山義綱画)

八代 俊盛<やしろ しゅんせい>(?〜1569)
 安芸守を称す。実名不詳。元々は能登畠山家の勢力下の越中氷見を拠点とする畠山の臣。 弘治の内乱の時、温井に領地を奪われ、椎名氏の下に逃れる。椎名氏から援助を得て義綱方への援軍として能登に入国し、温井軍を撃退する。その功から戦後は政権中枢に参画し新興の重臣となる。永禄九年の政変では重臣派と行動をともにし、義綱を追放。義慶政権では年寄衆にも列した。しかし、帰参した温井氏の台頭に危機感を覚え、1569年挙兵(鶏塚の合戦)したが、敗れて討死した。

俊盛政治活動ちぇっく!
 俊盛の文献初見は1557(弘治3)年である(文書A参照)。弘治の内乱において義綱方の援軍として椎名宮千代が派遣したのが八代俊盛である。しかし、同合戦が義綱方の勝利で終わっても、俊盛は越中に帰らず能登にとどまり義綱に重用されたようである。その後なぜか義綱を裏切って永禄九年の政変長続連遊佐続光らと共に首謀者の一人となって義綱及び義綱派家臣を追放している。では、何故、俊盛は能登に留まったのか?そして何故義綱を裏切ったのかをここで私なりに考察してみたい。

文書A「歴史古案 四 米沢市立図書館」
畠山義綱・同徳祐連署状写
為加勢八代安芸守(俊盛)渡海、神妙之至悦喜候、為礼儀差越使僧候、爰元調策之儀不可有由(油)断候、可被心安候、日限可為逗留之由雖令申、行半及其沙汰候者如何候間、分別頼入候、次今度相越候兵船共、五三日抑留候、俊盛(八代)一円不令納得候、達而申聞候、同心可令祝着候、委細揚首座申含候、猶遊佐美作守(続光)・長九郎左衛門(続連)・飯河若狭守(光誠)可申す候、謹言
(弘治三年)七月廿七日 (畠山)義綱
(畠山義続)徳祐 印判
椎名宮千代殿
一時援軍が抑留され来れなかったが、無事に着き椎名宮千代に対して謝意を示している。

 長家関連の史料によると義綱は「新参武士の八代安芸寵を過し・・・」とあって新参者の俊盛を寵愛したとしている。俊盛と義綱の繋がりは古文書上では弘治の内乱時からである。同合戦において畠山家は、加賀一向衆の援軍を得た温井軍に対して戦力的にかなり劣っていた。そこで、義綱は外交面で戦況を好転させようと画策し、越後の長尾景虎(上杉謙信)と同盟して援軍を派遣してもらったり、七尾城を改修し補強したり、本願寺に対して温井への合力を停止するよう働きかけたりと精力的に動いていた。そのなかで、義綱にとって1558(永禄元)年に椎名氏から来た八代俊盛の援軍は、頼もしく映ったに違いない。しかし、俊盛は本当に椎名宮千代の援軍としてただ能登に派遣されて来たのだろうか。
 越中八代氏は湯山城を中心とした越中氷見の本拠とする国人である。実はその湯山城は16世紀初頭に能登畠山家が越中永正の乱を契機として築城した城なのである。湯山城は越中守護である河内畠山家に対立する守護代神保慶宗を討つ為に前線基地として築いた城であったが、他にも七尾と湯山(氷見)は地理的に近いこともあって戦略的に重要な位置にあって能登畠山家としてはどうしても氷見を政治的に安定させたかった(つまり能登畠山家の敵対勢力に氷見を取られたくなかった)という政治的・経済的・軍事的理由もあったのである。それゆえ、越中永正の乱(1519年〜1520年)以降能登畠山家は越中国氷見地方を実効支配したのである(詳しくは能登畠山家の氷見支配参照)。となると当然俊盛は“能登畠山家の家臣として湯山城を領していた”と考えられる。
 では、弘治の内乱において椎名宮千代の援軍として能登に派遣されたのはなぜか。詳しくは能登畠山家の氷見支配で述べているのでここでは簡単に述べる。弘治の内乱の最中の1557年、勝山城に本拠を置いた反乱軍(畠山晴俊ら)に湯山城を攻略され、そこで一時椎名氏の下に逃れた(注1)。そこで富山湾を渡って海路七尾城に入城することにし、椎名氏の援助を得たのではなかろうか。そしてこの椎名氏の援助がもとで、後世に誤伝され、俊盛は椎名氏の被官で援軍に来たと言う誤ったイメージが定着してしまったのではなかろうか。
 義綱の外交努力や七尾城に入城した俊盛のおかげで、戦況は義綱軍の有利となった。この頃の義綱は笠松但馬守を始め戦後の戦功を保証する証書を数々発給している。そして俊盛の奮戦もあり、弘治の内乱は義綱軍の勝利で終結した。史料では、戦後義綱は俊盛に温井の旧領を与えたとされている。温井家が揃って出奔しその土地が義綱の直轄領になっていたことから、旧領の一部を与えたのであろう。さて、この合戦のあと、俊盛は越中氷見に戻らず七尾城に居り義綱政権の中枢入りすることとなった。おそらく、先の合戦での戦功を認められての政権中枢参画だと思われる。しかし、俊盛は同じ政権中枢の長続連には“軍記物上においては”嫌われたようである。それは長家関連資料で、続連が「八代俊盛なる人物を義綱が寵愛し・・・」として俊盛を引き合いに義綱の無能を説く資料からである。この事は、義綱の無能を説くだけでなく、俊盛の能力自体も否定しているように受け取れる。しかし、永禄九年の政変(1566年)では俊盛と続連らは共謀して義綱を追放し、政変後はともに義慶政権の中枢に位置していることから、この出来事における長家文献の信憑性は低い。おそらくこの長家の史料は、続連と敵対していた義綱を批判する材料のため事実を歪曲して記述されたものであろう。であるから、少なくとも義綱も俊盛も長家の史料に書かれる程実際は無能ではなかったのであろう。
 義綱政権・義慶政権で中枢入りした俊盛は、温井氏の役割を継承し家中で高い役割を担った。主な行動としては、温井総貞等が行っていた栗棘庵への外交折衝などが挙げられる(注2)。また、俊盛の嫡子・外記は長綱連の娘・玉を妻とした(注3)。能登畠山家の重臣は複雑に婚姻関係を結びお互いの身分を保証しあっていたようであるが、その一環に八代氏も加わった事になる。なので、当然この婚姻も俊盛が「畠山重臣と縁戚関係を結ぶことにより、一族の地位安定を図ったもの」(注4)であろう。
 次ぎに永禄九年の政変(1566年)にて義綱を裏切った要因について考えてみる。まず、俊盛が同政変の後、義慶政権下で年寄衆に就任するというその地位を高めていることに注目したい。これは、反義綱派(重臣派)のクーデターに対する根回し工作であると考えられる。俊盛は弘治の内乱において義綱に実力を認めてもらい、政権中枢入りしたわけであるから、その頃の義綱と俊盛との関係が悪かったとは考えられない。また、永禄九年の政変におけるまで、義綱と俊盛が反目するような積極的な要素が見当たらない為、現在の所俊盛が反義綱派としてクーデターに参加した理由は、変後の地位を約束されたからとしか考えられない。そう考えると、妙に俊盛の1569年の挙兵が納得行く。温井景隆の畠山家帰参によって俊盛の立場は微妙に揺らぎ始めた。景隆としては当然弘治の内乱以前の旧領回復を目標にしていたであろう。となると温井の旧領を領している俊盛とは関係が緊張するのは必然である。景隆帰参後、どんどん家中で勢力を盛り返していく温井派に、俊盛は不安を覚え、1569年11月に能登鶏塚で挙兵(鶏塚の合戦)するのである。結局、義慶方に敗れ俊盛は討ち取られた。短期間で政権中枢まで上り詰めた俊盛ではあったが、結局中枢にいられたのは僅かな期間であった。この後、嫡家当主を失った八代氏は没落していくことになる。

俊盛出陣履歴ちぇっく!
 1555年に始まった弘治の内乱は、短期間で反乱軍(畠山晴俊ら)に口能登を占領されてしまうが、湯山城(氷見)は1557年6月頃まで陥落しなかった。しかも、湯山城の目と鼻の先、勝山城に反乱軍が本拠を構えていたにも関わらず、2年間も湯山城を守り通したのであるからたいしたものである。また、湯山城を反乱軍に追われて退却する時も、反乱軍に囲まれている陸路を無理に通ろうとせず、椎名氏の援軍を得て海路七尾城に向かうと言うのもかなりの好判断と言えるであろう。しかし、その俊盛も1568(永禄11)年の合戦では芳しい結果を残せなかった。義綱が能登奪還を目指して進行した能登御入国の)において、俊盛は義慶方として神明の地を守備していた。しかし、あっさりと義綱軍に撃破され進行を許した。その後、同合戦で義慶方が苦境に立たされ、帰参した温井氏への依存が高まり景隆の台頭が始まると、俊盛の立場は揺らぎ始めた。翌1569(永禄12)年11月に能登鶏塚にて挙兵(鶏塚の合戦)した俊盛は、義慶方の長続連らに討ち取られて戦死した。この挙兵の際、俊盛の嫡子外記(妻は長綱連の娘)も一緒に挙兵し討死し、俊盛の一族は越後へ逃亡したらしい。
 その後の八代氏一族は、系譜関係はわからないが、1576(天正4)年の上杉謙信の能登侵略の時、畠山家方武将として「八代因幡」の名がみえる。このことから八代氏は政権中枢からは没落したが、完全に畠山家を追われたわけではないことがわかる。また、俊盛の弟の肥後守・越中守(主水ヵ)が畠山滅亡した後の1580(天正8)年には能登に復帰し(注5)、織田信長と連携した長連竜の軍勢と戦った。しかし、菱脇合戦に敗れて両兄弟とも戦死した。

ちぇっくぽいんと!
 『戦国大名家臣団西国編』(該当部分東四柳史明氏著)によると、「俊盛」の読み仮名は「しゅんせい」であり、実名不詳とある。筆者は初め「としもり」と読んでいたが、俊盛発給の文書の注釈にも「八代安芸入道」と記されていることから、俊盛が入道名であることがわかる。

むすびに
 八代俊盛は能登畠山家の家臣ではあるが、越中氷見の国人ゆえ本来畠山の国政には関与できない家柄である。しかし、弘治の内乱を契機に好判断で成り上がり、ついには義綱政権で政権の中枢入りをしたのである。その地位を維持する為に、温井の役割を俊盛が替わって行ったり、重臣間の婚姻を推進して一族の地位の安定を目指すなど保守的な行動が見える。また、自らの権力維持のため、政権中枢入りをさせてくれた義綱を、永禄九年の政変において、反義綱派に人事目当てで簡単に擦り寄ってしまうなど、その保身行動の意欲はすさまじい。しかし、結局の所、あまりに早く温井氏が能登畠山家に帰参してしまうので、十分に家中で実力を蓄えられるまま、家中で温井氏と対立する事になり、すぐに衰退してしまうのである。結局成り上がりに要した期間も僅かだったが、中枢にいた期間も僅かでポスト温井の地位を築けなかった。

(注釈)
(注1)俊盛が反乱軍(畠山晴俊ら)に湯山城を追われて七尾城へ逃げられなかった理由はなにか。俊盛が氷見から七尾城へ行くには荒山峠を通らなければならず、そこには反乱軍が本拠を置き、とても突破できる状態ではなかった。その為、海路七尾城を目指すこととし、越中椎名氏の援助を受け七尾城に入城したのではないか。湯山城が陥落したのが1557年6月頃。椎名の援助を得て海路七尾城に渡ったのが同年7月頃。この間僅か1ヶ月足らずで俊盛は迅速に行動したと言えよう。俊盛がとった行動はまさに次善の策と言える。
(注2)栗棘庵は京都五山の東福寺塔頭であるが、能登鳳至郡志津良荘に同庵領があったことから温井氏を通して畠山家の京都外交出先機関として外交を扶助していたようである。
(注3)俊盛の嫡子・外記が長綱連の娘・玉を妻としたことでも、『長家家譜』などの「長続連が八代俊盛を嫌っていた説」が否定できよう。
(注4)氷見市立博物館(編)『戦国・氷見』氷見市立博物館,1999年より
(注5)「山田六郎五郎集書」より

義綱公式見解「成り上がりでポスト温井になれなかった人。」

参考文献
大野究(他)『氷見の山城』氷見市教育委員会.2001年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会,1968年
(共著)『戦国大名家臣団事典』新人物往来社,1981年
氷見市史編さん委員会『氷見市史資料編一』1998年
氷見市立博物館(編)『戦国・氷見-国人たちの足跡-』ひふみ印刷社.1999年
児島清文「湯山城(森寺城)私考」『富山史壇』66号
横沢信生「越中八代氏附屋代師国」『富山史壇』117号,1995年
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