大槻・一宮の合戦
[1553年]

畠山義綱軍VS遊佐続光軍

●原因
 能登天文の内乱後和解して畠山七人衆を作ることで一端は有力家臣遊佐続光温井紹春(総貞)の争いは収まったかに見えた。しかし、両雄並び立たずというべきか、両者の対立は日増しに大きくなり、周りを自派に取り込もうと両派は色々な工作を行った。そこでついに対立も頂点を極め、1553(天文22)年7月に続光とその支持グループがは一端加賀に出奔した(古文書A)。そして加賀の一向一揆を味方に引き入れ権力奪取のため挙兵し、能登に進行するのである(古文書C)。この戦いは、両軍併せて兵力が1万人以上の大合戦となった。『長家家譜』などによると、続光は畠山家に対する謀反人と描かれ、下剋上と解されている。しかし、この頃の大名権力はかなり畠山七人衆によって落ちているので、実際は紹春との権力争いと位置づけられよう。その中で、総貞側に前当主である徳祐(畠山義続)が参戦しているのをみると、家臣同士の争いに上位権力者として調停できずに、合戦の一方に勢力に巻き込まれてしまう大名権力の脆弱さを感じることができる。この事から、当時の畠山家を牛耳っていたものが総貞であることがよくわかる徴証であろう。
 この合戦は『長家家譜』などの資料によって1554(天文23)年に起こったと解されることが多かったが、畠山七人衆や紹春の古文書(古文書B・C)などは1553(天文22)年にこの合戦を知らせるので、この合戦は同年に起こったと解される。
 畠山義綱軍   遊佐続光軍 
勝敗 WIN LOSE
兵力 約六千人 約五千人
支援者    河内遊佐宗家
総大将 畠山徳祐(義続) 畠山駿河息(※1)
主力 温井紹春(総貞)
長続連
土肥親真
畠山将監
遊佐宗円
遊佐続光
遊佐秀頼→生捕り
伊丹総堅→戦死
伊丹続堅→戦死
加治中務丞→生捕り
後藤備前→戦死
丸山出雲守→戦死
河野続秀→戦死
大槻一宮の合戦ルート
 

●経過

●合戦の影響
 合戦で勝利をした温井紹春は同時に、遊佐続光との権力闘争にも勝利したこととなる。そのため、同合戦後はさらに畠山家を牛耳ることになる。紹春はこの後に年寄衆(畠山七人衆)から引退するが、これは権力集中への批判を逸らすためか、実際は引退後も裏で畠山七人衆の実権を握っている。その後、温井紹春の専横は日に日に増し、ついには1555(弘治元)年に義綱が紹春を暗殺して起こる弘治の内乱が勃発する。

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合戦に関わる古文書をここに掲載する

(古文書A)『天文日記』天文22年12月11日の条
一、従能登徳祐、就今度彼国左右方へ自加州不可合力之由申付之段、祝着之儀書札、香合金糸、・盆一枚来、使飯河越後守也、(下間)頼資披露、虎皮雖出之、直書にも添状にも無之間不請取、
  一、従七人衆以前衆にて無之も、今度ハ加えたる也、就右之儀、太刀吉用、・馬代弐千疋
一、又従七人衆、就予先度(本願寺証如)所身本復、金三枚京目、来、
一、従温井備中入道(紹春)為音信、索麺一箱、・雪魚、来、
一、又小童へ布袋樽来
一、従温井兵庫助(続宗)、備中子也、初而太刀・馬代五百疋来、
七人衆の欠員補充をするということは、この合戦の前に遊佐続光が能登を出奔していることがわかる。


(古文書B)「雑録追加十一」石川県立図書館蔵
畠山義綱年寄衆連署奉書(天文22年12月)
 越能の侍中 下間氏への状
急度以飛脚申上候、当国牢人去十日出張之趣、先度申上候キ、仍此間大槻と申地ニ陣取、従城下(七尾)三里相隔候、然所ニ一昨日廿七日、自此方及断候処、敵悪所を取■相働候間、取懸及一戦、遊佐弾正左衛門尉・加治中務丞、其外雑兵三百人討捕、遊佐美作守(続光)田鶴浜と申地に陣取、彼地へ従当城四里程相隔、翌日廿八日遊佐加州被退候所を、自此方一宮と申地迄追懸、当国牢人・河内衆従加州被立候故、都合弐千余人討捕、早速得本意、大慶此事候、首之注文以別紙申上候、遊佐落所于今不相聞候、遊佐豊後入道(秀頼)・平左衛門六郎此方生捕申候、爰元如此被成候段、併連々御入魂故と、各忝存候、此等之趣、可然様ニ御披露所仰候、恐々謹言、
  (天文二十二年)
極月廿八日
飯川若狭守光城(誠)
温井兵庫助続宗
長九郎左衛門尉続連
三宅筑前守綱(総)広
三宅彦次郎綱堅
遊佐信濃入道宗円
神保宗左衛門尉総城(誠)
下間左衛門大夫(頼資)殿
 或日、天文十弐(廿ヵ)遊佐続光逆乱之節之事と相見へ申由、
本願寺に第二次七人衆が大槻・一宮の合戦を報告した書状
※■は文字不明瞭


(古文書C)「栗棘庵文書」京都大学総合博物館蔵
温井紹春(総貞)書状
 
  「 (封紙ウワ書)温井備中守入道
栗棘庵貴報 紹春」
将又御寺領之儀、堅下総守(温井光宗)ニ申付候、然共乱已来、一向不相調候由申候、尚以無疎略急度可申付候、
就爰元之儀、態被差越御飛脚候、御懇之儀畏入存候、仍此方牢人(遊佐続光)、旧冬極月十日出張仕に付而、従河内遊佐源五・安見紀兵衛、為合力遊佐美罷立候、従加州も六・七千罷立候、敵田鶴浜・大槻申所陣取候、自城際者四・五里相隔候、然処旧冬廿七日兵庫(温井続宗)為番手相働候之条、取懸及一戦、即時切崩、駿河息・遊佐弾正左衛門・同右近・同大夫・加治中務丞・後藤備前・加州之者、其外雑兵四百余人討捕、翌日廿八日遊美田鶴浜を令自落、加州へ罷退候之処ヲ、自此方一宮申地迄追懸、遊佐孫四郎・同孫八郎・同五郎兵衛・千手院・伊丹宗右衛門(続堅)・丸山出雲・同丹後・河野藤兵衛・其外河内衆遊佐源五・安見紀兵衛・加州之者、都合四千余人討捕、其外討捨、追日於所々討留候儀不知数候、遊佐豊後入道(秀頼)・平左衛門六郎者、此方へ生捕候、随而京都南方辺之儀、近日者無異儀候者、珍重存候、相替儀候者、乍恐可被仰下候、委曲御飛脚可被申候条、不能審候、恐々謹言、
(天文二十三年ヵ)
二月十四日
(温井)紹春(花押)
栗棘庵(東福寺)
参 貴報
栗棘庵に温井紹春が大槻・一宮の合戦を報告した書状
※第二次七人衆が本願寺に報告した内容と相違がある。

●エピソード
 『長家家譜』には、この合戦においてこのようなエピソードが記されている。大槻(末広野)の合戦において畠山軍は一時3・4町後退した。その時、徳祐も危険を避け、在江方面へ向かった。その中で敵に見つからないために民家の繁った椿に身を隠し危うく難を逃れたという。このようなエピソードは長家が畠山家の無能さをアピールするため後年創作された可能性もある。後考を待ちたい。

(注釈)
(※1) 「畠山義綱考」(東四柳史明著)では、同合戦に「駿河子息」が含まれ、遊佐続光がこの戦いの総大将に畠山駿河入道の子息を擁立したとのある。(古文書C)を見ると、12月27日に討ち取りした人物の名の先頭に「駿河息」(畠山駿河入道子息)とある。一方で(古文書B)には「駿河息」の記載がない。これは、実質的に遊佐続光が権力を握っており、畠山駿河入道子息は担がれた総大将であると思われる。あるいは、畠山一族からも自分に賛成する者がいるという正当性のために味方にされただけなのかもしれない。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会,1968年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号,1972年
『歴史の道調査報告書第四集 能登街道U』石川県教育委員会,1997年
川名俊「戦国期能登畠山氏と本願寺・一向一揆」『地方史研究』402号,2019年
他・・・

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