畠山関連の御投稿特集
〜閲覧者様の御投稿〜

目次

  1. 『後奈良天皇宸記』の「濃州守護恵胤」について
  2. 能登畠山氏と近江国余呉荘との関係
  3. 能登土肥氏における一考察
  4. 畠山義綱の入道名の考察
  5. 畠山義綱が任命されたという「他国衆」という役職について
  6. 信州松本一族と「畠山実継」について
  7. 畠山家俊の婚戚について
  8. 玉尾(たまお)城は多茂(たもう)城だった
  9. 畠山記念館を発見
  10. 吉見氏のその後についての質問

「『後奈良天皇宸記』の「濃州守護恵胤」について」<情報提供者:mino阿弥様
 mino阿弥様から能登畠山氏につながる有益な情報を頂きました。ここでは、mino阿弥様との掲示板のやりとりから「濃州守護恵胤」について考察していきます。
mino阿弥様
 質問ですが「美濃十代守護土岐頼武は出家し恵胤と称した。恵胤は蘭麝待の切り取りを天皇に申請した。」
上記は、横山住雄氏説であり岐阜県史なども土岐頼武説を認知していますが、従来美濃九代守護土岐政房のあとの十代守護は土岐頼純、政頼、盛頼(同一人物)などとされ、土岐頼武説は近年(ここ十年ほどの)の横山説です。現状は土岐頼武が十代守護であり、土岐頼純は、その子供とされています。実は、土岐頼武という人物は不明であり、確証のあるものではないと考えています。しかし、先般、横山氏が講義の席上、濃州守護恵胤は、能州守護恵胤の誤りであったと訂正されたようです。詳細はわかりませんが能州畠山氏に、「恵胤」に相当する人物はおられたのでしょうか?
畠山義綱
 「恵胤」の情報をありがとうございます。他家の研究はなかなかうかがい知ることができないので、こういった情報は本当にありがたいです。
さて、「能州守護恵胤」ですが、こういう入道名の守護は能登畠山氏にはおりません。ただ、畠山義総(1491〜1545)が隠居名・悳胤(徳胤)といわれております。土岐頼武の年代と確かに同年代ですよね。能登畠山氏の入道名は「悳(徳)」がつく場合が多いので、「濃州守護恵胤」と書かれている名前が誤字がない有力な史料とすれば、美濃守護のことではないかと思います。ですが、「恵」を「悳」は似ているので、字の誤記とすれば能登守護説も十分考えられることであります。また、この「濃州守護恵胤」が蘭麝待を申請した1536年には義総もすでに入道しております。さらに「悳胤」(畠山義総)は能登でも磐石な基盤で、朝廷や幕府に接近していますので、蘭麝待の申請も有り得ると思います。私も何かの資料で「義総が蘭麝待を申請した」というのを見た気もしますが、はっきりしません。
「恵胤は蘭麝待の切り取りを天皇に申請した。」というのはどのような古文書に載っているのでしょうか。出典がわかればご教授ください。貴重な情報をありがとうございました。
mino阿弥様は土岐氏の事をかなり深くご存知の様子。私も斉藤道三に追いやられた土岐頼芸に興味があります。
mino阿弥様
 ご回答御礼。岐阜市史の編纂者が誤って能登畠山氏の史料を使用した可能性があり、なおかつ「徳胤」(悳胤)を「恵胤」と読み誤ったのではないかと考えられます。また、「恵胤」に対応する守護土岐頼武が作り上げられたのではないかと推察され二重三重にもわたる錯誤であろうと考えられます。守護のような地位の人物の名前に「武」という字を使用するかどうか疑問です?
 土岐頼武は、自分自身の地位も危ういような状況で、天皇に蘭麝待の切り取り申請をし、なおかつ切り取ったなどということは到底考えられません。ご指摘のように「悳」を「恵」と読誤り、すべてが間違ってきたのではないかと思います。「悳胤」とは、まったく気がつきませんでした。ご教示、ありがとうございました。土岐氏研究については「美濃源氏フォーラム」というHPがありますので、今後ともよろしくお願いします。追伸、資料は「後奈良天皇宸記」天文5年6月20日条(岐阜市史資料編666頁)です。
畠山義綱
 私もmino阿弥様の意見に賛成でございます。土岐頼武のことはよく存じませんが、おっしゃるとおりの不安定な地位なら蘭麝待を拝領するなど到底叶わぬことだと思われます。畠山氏側としても義総の出家が1536年とわかることができて、収穫のあるものです。あとは、原文である「後奈良天皇宸記」にはなんと名前が書かれているかどうかですね。機会を得て見てみたいと思います。
mino阿弥様
 「徳胤」=「悳胤」
また、「徳」をくずす場合、「彳」をはぶく場合があるそうで「恵」に酷似しています。この推論を確実なものにするには、ご指摘の通り「後奈良天皇宸記」の原本を確認する必要があります。
 「後奈良天皇宸記」天文五年六月二十日条にある濃州守護恵胤は、「続史料大成」などによれば蘭麝待切り取りのお礼として海産物を進上しています。美濃という海に接していない山国ではありえないことです。また、美濃守護土岐氏の法名で「胤」を使用している人は、見られません。
 従って、この「宸記」の記述は、能州守護悳胤のことを誤記したものと考えられます。天文五年七月一日には、土岐頼武の弟とされる土岐頼芸が美濃守の勅許を得たと「宸記」に書かれています。土岐頼武は、蘭麝待切り取りどころか、自分自身が守護の地位を実力で追われた状況です。能州のことを、音読みで濃州と書き誤ったのではないかと考えられます。ご参考まで。
畠山義綱
 能登は半島ゆえ、海産物の進上はよくありました。しかも、北陸の海に面しているため、鰤や海鼠腸など海産物の種類にも特徴があったようです。どのような海産物を進上したかはわかりませんでしょうか…?
mino阿弥様
後奈良天皇宸記
「続史料大成」「岐阜市史」より

天文五年六月廿日
去年濃州守護恵胤出家也、蘭者待名香、所望之由、以甘露寺大納言申、雖為秘蔵給之、
祝著之由申、雷鳴一雨如何、御禮美物鴈五、蛸一折(ハリタコ)、煎梅鼠(イリコノ)一折
二十荷代千疋進上、

天文五年七月一日
土木(岐)源頼藝美濃守事申、勅許

イリコの後の字が読めなかったのですが?
海鼠(なまこ)?でしょうか?
ご参考まで。
畠山義綱
 出典を教えてくださりありがとうございます。
原文でも「濃州守護恵胤」となっているのですね。鴈(雁)は北陸や東北の鳥ですし、蛸は能登でもかなり取れます。私も「梅鼠」は海鼠(なまこ)だと思うのですが、ずいぶんこの史料は字に間違えがありますね…。ますます濃州守護恵胤=能州守護義総説が強まった気がしますが…。

まとめに代えて(畠山義綱)
 畠山義総の権力は磐石であり、幕府や朝廷との交渉は盛んでした。私も朝廷から蘭麝待を拝領したという記事を見たことがあったのですが、他の資料には一切でていなかったので、本当かどうかわかりませんでした。しかし、mino阿弥様のおかげでその謎も解くことができました。ありがとうございました!

「能登畠山氏と近江国余呉荘との関係」<情報提供者:武藤舜秀様(「戦国を楽しむ」管理人)
 畠山義綱永禄九年の政変で重臣たちに能登を追放されると近江国に逃れた。また、義綱が1593(文禄2)年に没した地も近江国余呉荘であると言われ、能登畠山と近江国や近江国余呉荘とは縁がある。義綱の母の実家が近江佐々木六角氏であるが縁とも言われるが、実はもっと近江国余呉荘と能登畠山氏は深い縁があったのである。ここでは、近江国の歴史に詳しい武藤舜秀様と私のメールや掲示板などのやり取りとりから検討していきたい。
畠山義綱
そういえば、ちょっと余呉のことで新しい発見が。
実は能登畠山氏は、京都の中継基地として余呉に畠山邸を設けていたみたいで、4代当主・畠山義元は家督を継ぐ頃までその地にいたようです(もっと も父と不仲だったためとも言われていますが)。それでネットで検索してみたら、畠山家家臣の平光知という人物も余呉に邸宅があったようで、意外と能登畠山 と余呉は義綱の最期だけでなく深い繋がりがあるようで…。何かご存知のことがあればご教授ください。
武藤舜秀様
 意外な事実ですね。 実は、佐々成政とも、成政の祖先は俗説では余語庄出身といわれていますし、余語氏という一族が成政の家臣だったとも言われています。
 町の図書室へ行ってきたのですが、能登畠山氏の手がかりになりそうなのが今の所見当たりません。 ですが、それで引きがる様な私ではないですよ(笑) 六角氏関係の資料を借りてきましたし、東大で「余呉荘」を研究しているグループがあったので畠山関係で何か手がかりになりそうなものをメールで問い合わせました。
 しかし、こう考えてみると、義綱公の妻は六角義賢の娘ですから、いくら江北とはいえ、六角氏の残党もいますのでその者に保護された可能性もありますし、元々畠山氏と佐々木氏が仲良ければ荘園のひとつ掠め取って畠山氏に提供したのかもしれませんね。
畠山義綱
 余呉荘と畠山氏の関連ありました!
 1480(文明12)年に能登に下向して歌会を催した招月庵正広の「松下集」からの出典でした。それによると「八日、舟出して、十日、江州餘呉庄 と云所に舟よりあかりて、平新左衛門尉光知所にて一續ありしに」とあり、平光知の邸があったことがわかります。さらにその記述に続いて「十三日、左馬助 (畠山)義元家にて一座ありし中に」とあり、その僅かな期間からして義元の邸も余呉荘にあったということになります。(畠山義元特集にアップしました。)
 武藤様もご指摘のように六角氏と畠山氏の関係を考えたとき、近江に最期に居たということは自然なのですが、なぜ「余呉」なのかということは私はたんなる偶然かな、と考えていました。しかし!このように、余呉荘と能登畠山氏の関係が出てきたということなれば、義綱の最期も偶然余呉浦に居たのではな く、必然的にそこにいた可能性が出てきたわけです。やはり燃えますね〜(笑)
> 六角氏関係の資料を借りてきましたし、東大で「余呉荘」を研究しているグループがあったので畠山関係で何か手がかりになりそうなものをメールで問い合わせました。
すごい楽しみです!余呉と畠山家との関係は、引いては畠山家と六角家との関係、さらに言えばそれが畠山家と幕府との交渉に繋がるわけです。考えを解く鍵がどこにあるか…ちょっと楽しみです。
> しかし、こう考えてみると、義綱公の妻は六角義賢の娘ですから、いくら江北とはいえ、六角氏の残党もいますのでその者に保護された可能性もありますし、元々畠山氏と佐々木氏が仲良ければ荘園のひとつ掠め取って畠山氏に提供したのかもしれませんね。
そうなんですよ。最後の義綱発給文書が1574(天正4)年なのですが、一説には1589年(天正17)年に豊臣秀吉が切妻造りの四脚門で随所に 趣向を凝らした桃山建築特徴をあらわす伏見城の門を義綱に与えたとも言われており、そのような伝承が残るからには、ある程度の生活を基盤を有していないと できない話で、ますます武藤様のお考えが現実味を帯びてきます。
武藤舜秀様
昔の資料ですが、今日、とても興味のある資料を県立図書館で借りてきました。
「駿台史学」第62号 1984年7月の中に「中世後期の名と村落−近江国伊香郡余呉庄丹生郷を中心として−」宮島敬一氏著で、その中に「永享7年には、地蔵院は、畠山満則が余呉庄拝領の時、丹生菅並両村を惣庄に混ぜて横領したことを訴えている」とあるので、畠山家が余呉庄の地頭に任じられていたことは事実のようです。ただ、この記述の後にこうあります。「応永末・永享期に、京極氏にかわって能登守護畠山満則が地頭職を得たことがあるが(地蔵文書)、一時的なものと考えられる。(以下略)」とあるし、後に京極氏は北近江3郡の分国守護にもなっているのでこの地頭職がどこまで続いていたかになりますね。
畠山義綱
石川県やその大名(畠山と冨樫)に関わる古文書を活字化している『加能史料』の永享7年をあたりましたが、武藤様のおっしゃっている余呉壮の文書はみあたりませんでした。ということは、武藤様!ひょっとすると能登畠山的な大発見かもしれませんよ!ますます、宮島敬一氏がどの一次史料をみて論文を書いたのか調べてみる必要がありそうですね。武藤様、その論文には一次史料の出典は書いてありませんか?
武藤舜秀様
資料については「地蔵文書」とも、「地蔵院文書」とも言われております。ただ資料が少ないので私も滋賀県立図書館でいろいろ調べております。また見つけ次第ご報告致したく思います。畠山満則(が載っている論文)の項のスキャン画像を(メールの添付ファイルで)お送りいたします。一度ご照覧あれ。それと、我が小谷の寺に畠山家の位牌を発見!由来はわかりませんが、近くに佐々木氏の家紋の位牌もあることからやはり余呉と畠山、佐々木とどこかで接点があるのでは?小谷には佐々木ならぬ、笹木姓の苗字が多いです。
畠山義綱
 この論文(宮島敬一氏「中世後期の名と村落−近江国伊香郡余呉庄丹生郷を中心として−」)を見ますと、近江のことは詳しくないので内容までは詳しくわからないのですが、1423(応永30)年の時点で「畠山満則(満慶)が殺害事件に関与した」とあります。この殺害事件に関与するというのは、基本的に守護大権の大犯三ヶ条の「殺害人の捜索逮捕」にあたるのではないかと思います。したがって、畠山家の支配が一時的であるにせよ、名目だけに非ず、しっかりと行っていると考えられます。
 また、この論文の注釈(7)には、近江井口日吉神社文書とあります。日吉神社といえば、能楽で有名な日吉大夫が能登を訪れてそこで演じるなど深いつながりがあったされています。もし、この応永年間から日吉神社とのつながりがあるとすれば…。思いは膨らむばかりです!
まとめに代えて(畠山義綱)
 武藤様が発見された、能登畠山氏と余呉荘との関係は私的に大発見でした。幕府や朝廷との折衝、京都五山との関係など対中央関係も近江国余呉荘との関連があったのかもしれません。いずれにしろ、能登畠山家と近江国余呉荘との関係が1423(応永30)年を上限として、下限が義綱が没した1593(文禄2)年のおよそ150年もの長きことを考えるともっと注視して今後とも調べていきたいと思います。武藤様ありがとうございました!

★参考コンテンツ<能登畠山氏と余呉庄の関係

「能登土肥氏における一考察」<情報提供者:土肥美作守政繁様(「土肥氏一族と城郭」管理人)
 能登土肥氏いわゆる土肥但馬守親真が越中土肥氏の出身であることは周知の通りである。しかし、それを裏付ける史料が乏しく全貌は解明されていなかった。ところがこの度、土肥親真が越中土肥氏の出身であると裏付ける研究成果がまとまり、昨年刊行の『新上市町誌』(1)に記載された。
それは、上杉謙信が天正5年に作成されたとされる『上杉家家中名字尽』を基に解明されている。その史料には越中の事実上の統治者である河田長親、鰺坂長実らの次に土肥親真の名が見え一人おいて斉藤・神保ら越中国人衆が列挙されている。このことは土肥親真が越中国人衆を代表する立場に位置づけられるとされ、また土肥親真が越中土肥氏の出身であることを示す根拠として文明から永禄期の二人の人物を挙げている。一人は文明年間に芦峅寺に田地を寄進したとされる土肥将真、二人目は永禄6年に麻生谷(高岡市)に所領が与えられたとされる(2)土肥次郎左衛門景真である。なお、景真は土肥筑前知行分である氷見の耳浦河尻代官職の違乱停止を勝興寺に依頼している。(下記史料参照)
態令啓札候。仍同名筑前知行分、耳浦河尻代官職之儀、有子細、先年鞍川兵衛尉、
一代申合相済候之処、去年月廻之時分、長沢相語郡内百姓等、理不尽之仕合、不能分別候。
依之、筑前存分、旧冬数篇、太瀬若狭守殿へ申入候之条、不相紛之様於被加尊言者、可
為本懐候。委曲酒井隼助可申分候趣、可得御意候。恐惶謹言。
     土肥次郎左衛門
         景真(花押)(3)

この3人はいずれも「真」を通字(2)としており、土肥氏の1つの系統として捉えられ親真が越中土肥氏の出身であることを示していると同書は結論づけ、さらに室町から戦国時代への時代の推移とともに当初新川郡西部を所領としていた土肥氏が高岡市や氷見市にも所領を有し、そのことが土肥親真の能登末森城への進出につながったのではないか。と興味深い記述で結んでいる。
この研究成果は今後の土肥氏の研究の指針となるだけでなく、土肥氏が畠山氏はもちろん上杉氏にも信任が厚かったと判断でき、注目に値する成果である。

〈参考文献〉
(1)新上市町誌
(2)富山県史中世V
(3)富山県史中世史料編

「畠山義綱の入道名の考察」<情報提供者:足利義輝様、道澪様>
 畠山悳榮義綱公について浅学ながら、ふと考えてみました。
 悳榮公は永祿十一年(1568)に義胤と改名したとありますが、この『胤』はどこから出てきたのかと思っていましたが、悳榮公の祖父悳胤義總公が『胤』の字を使っていました。
 つまり、能登奪還に失敗した悳榮公は、祖父悳胤公の入道名を使う事で、「能登奪還」と「諦めて入道する」二つの気持ちが入り混じっていたのではないかと思われます。しかし、元龜三年にもとの義綱に戻り、再び能登奪還を進めたということは、後者の「入道」の意味がより強かったのではないかと思いました。
畠山義綱
 「そうですね〜。1568年の義綱の敗退は義綱派にとって本当に痛い敗戦となりました。当然義綱も「この期を逃せば、奪還は…」と考えていたでしょうし、初戦の勝利にも関わらず、敗退したショックは計り知れない物があります。ですので、改名したというのも素直に受け入れる事ができます。“祖父悳胤義總公”との「胤」の字の繋がりは考えもしませんでしたが、その可能性は大いにあると思います。実際、義綱の花押は義総のそれにかなり近い形でしたし、京都興臨院の造営も義総を意識したものです。ですので、改名に関しても多いにその可能性があります。新しい知見。よく考察してみる必要がありますね。有難うございます!」

「畠山義綱が任命されたという「他国衆」という役職について」<情報提供者:足利義輝様、ふーむ様>
 『戦国史事典』(桑田忠親編.秋田書店.1980年)256頁に「永録三年頃に至り、重臣層を押さえ義綱専制色を強め、修理大夫に任じられ、幕府から「他国衆」に列し能登守護としての地位を固め、永禄五年、一宮気多社の遷宮を行った。」と書いてあるが、一体畠山義綱が任じられた「他国衆」とはどんな役職なのか?中世史に詳しい足利義輝様、ふーむ様を交えて検討してみた(引用文は「七尾城掲示板」からの抜粋で足利義輝様・ふーむ様引用承諾済)。
足利義輝様
 他国衆?う〜む。これはどうにも判りませんね。畠山氏は三管の一なのでこれより下の位置付けはないと思うのですが、もしかすると一門衆の次に位置するいわゆる「内衆」の意味合いが強いのでないかと思います(細川両家記)。細川政元政権時代の上原元秀がそれです。ちょっと外れるかも知れませんが、奉公衆と御相伴衆の間の位置かと。何にしてもこれは調べ直す必要がありますね。永禄四年、義綱殿との年始の朝貢にこれを輔任していると言うことは、義輝が上杉輝虎と同様、それだけ能登畠山氏の勢力に期待していたんだろうと思います。何と言ってもこの時期、斯波は織田に滅ぼされ、細川は晴元が三好長慶の軍門に降り、河内畠山は見る影無し・・・。義輝は新興勢力であっても実力者であれば積極的にそれらを認知する度量を見せていますが、やはり幕府創始以来生き残った三管中最も近くにいる能登畠山を頼りに思ったのかも知れません。その意味で関東管領上杉輝虎、豊後守護大友義鎮、近江半国守護六角承禎等々、鎌倉以来の名門を引き立ててきたのは、己が名門意識に則った幕府再興の信念だったのでしょう。
畠山義綱
>もしかすると一門衆の次に位置するいわゆる「内衆」の意味合いが強いのでないかと思います
能登畠山家がそんな高官でよいのでしょうか?能登畠山家は庶流なれど御相伴衆に任命される家柄でした。ですが本家の河内畠山家を超えた役職にこの「義綱ごとき」がなってしまうと恐れ多い気がします。私は「他国衆」とは「外様衆」のことかな?なんて勝手に思ったりもしました。確か御相伴衆より低い役職ですよね。
>幕府創始以来生き残った三管中最も近くにいる能登畠山を頼りに思ったのかも知れません。
公方様から私如きにもったいなきお言葉!恐悦至極に存知まする!足利義満が細川・斯波の管領家に足利一門の畠山基国を贔屓して三管領にさせたような配慮が公方(義輝)様−私(義綱)の間にあったのでしょうか?いやでも、それは義綱贔屓観ですね…。
足利義輝様
 自分なりにちょっと視点を変えて考えてみました。修理殿が仰った「外様衆」を基軸に調べてみたところ、安芸毛利氏に似たような区分けがありました。毛利元就が覇権を握った頃の毛利家は基本的には在地国人衆の寄合のため元就はその統制のために、かの「傘連判状」をもって「衆議」の形を取ったとしています(池上裕子著 日本の歴史13 戦国の群像)。ただその中にあっても「一門衆」「譜代衆」「外様衆」「国衆」に厳然と家臣団が分けられており、年始の挨拶にも序列があったそうです。これを基に幕府を睥睨してみますと能登畠山氏は庶流ではあってもいわゆる「一門」に当たると思います。現に四代将軍義持危篤の際、三宝院満済、管領畠山満家、斯波義淳、細川満元等が寄った正長元年の宿老会議に能登守護畠山満則が参画しています。例の「籤引き将軍」誕生のきっかけとなった極めて重要な会議です。幕府方針は衆議を旨とした政策決定ですがその実は「権門による衆議」であり、即ち能登畠山氏は重要な幕府決定機関に身を置く家であることが判ります。翻って義輝在京時の永禄年間を見てみますと、勢力を維持していた権門は強いて言えば近江六角義賢が残っているくらいで既に畿内には存在していません。永禄元年の合戦で既に奉公衆は壊滅しており、いざこざはあっても最後まで頼みとした細川晴元は永禄六年に死去しています。義綱殿が年始の貢物を行った永禄四年は、この晴元が三好長慶にまさに降伏した年で更に加えれば政敵であった三好義興を御相伴衆に任じた年です。ために、義輝は最後の清和源氏の流れを汲み独自の領国支配権を持った能登畠山義綱の軍事力を上杉輝虎と共に期待をかけたのは想像に難くないと思います。これはあくまでも身共の推測ですが「他国衆」とは軍事力に期待した「守護奉公衆」だったのかも知れないと考えます。永禄五年に義輝は毛利隆元を周防・長門・安芸守護に任じ同時に元就・隆元父子を御相伴衆に任じていますがそれ以上の手当をしておりません。義輝は意外に高度な情報網を持っていたので、当時の毛利の強大さを知っていたはずです。大友と毛利の調停もその一環でしょう。
いや、以上は身共の荒唐無稽な一考察なので、歴史的意味合いは無いものと思し召されますよう・・・。ただ、当時の政情を鑑みながら繙いていくと、色々な事実や考察が生まれてきます。歴史というのは面白いですね。
ふーむ様
 畠山義綱が永禄期に「他国衆」に任命された、という話題をみて、思い当たることがあったので(^^)
『戦国史事典』の出典が明らかでないので何ともいえないのですが、「永禄六年諸役人附」という史料に、義輝・義昭期の奉公衆五番・奉行衆・相伴衆など幕臣が列挙されています(今谷明さんが、どっかの本で若干ふれていたような気がします)。その末尾に、「外様衆・大名在国衆」として「畠山修理大夫(割注:能登国之守護)義継」とあります(群書類従本は誤植が多いので、義継は義綱の誤りとみられます)。他のメンバーは、摂津晴門・細川六郎(昭元?)、畠山秋政(高政ないしは昭高=初名秋高の誤植か?)、山名次郎義祐・赤松次郎(たぶん山名と赤松の名に混乱がある)、一色左近大夫(義道?)武田孫八元次(元明の誤植)・佐々木承禎など。
 この名簿、上記のとおり実名に混乱がある点、史料としての信憑性は検討の余地ありですが、「他国衆」との関連が気になります。名簿には毛利元就・尼子義久・大友宗麟・伊東義祐のほか、三吉隆亮(備後国人)なども入っており、「「他国衆」とは軍事力に期待した「守護奉公衆」だったのかも知れない」という義輝さんの見解が実態に近いのかも知れません。
畠山義綱
>公方様(足利義輝様)
>推測ですが「他国衆」とは軍事力に期待した「守護奉公衆」だったのかも知れないと考えます。
なるほど!私の考えとも合致します。ただ、なぜ御相伴衆に任じなかったのか気になります。15世紀初頭には御相伴衆に任じていたので、家格的には「御相伴衆」に任じてもいいのではとも思うのですが(もっとも戦国期の御相伴衆は三好長慶が任じられているので、家格も関係なくなっているのですが…)、ひょっとしたら献金の量の都合で「御相伴衆」にできなかったのでは?とも考えました。三好や毛利の献金に対して、内乱終了直後の能登畠山家はそれほど金額を出せたとは思えません。それゆえ、御相伴衆よりワンランクさげたのかなとも勝手に思いました。
>ふーむ様
>「永禄六年諸役人附」という史料に、義輝・義昭期の奉公衆五番・奉行衆・相伴衆など幕臣が列挙されています。
すごい!そんな史料があったのですね。
>「外様衆 大名在国衆」として「畠山修理大夫(割注:能登国之守護)義継」(群書類従本は誤植が多いので、義継は義綱の誤りとみられます)
畠山義続はすでに入道していますし、二本松の畠山義継とは時代的に差がありますし、これが事実とすれば「畠山義綱」と推測できそうですね。しかも、私が睨んでいた「外様衆」とは!
>名簿には毛利元就・尼子義久・大友宗麟・伊東義祐のほか、三吉隆亮(備後国人)なども入っており
上記の人物達は「外様衆」に入っていたのでしょうか?それとも他の役職でしょうか?いずれにしろ、興味深い史料ですね。だいぶ実名に混乱があるようですが、いつ頃の成立の書物でしょうか?とにもかくにも私にとってはすごい情報です。本当に有難うございました。
足利義輝様
献金量と幕府の対応がどれほどの因果を持っていたのかは良くは知りませんが、少なくとも朝廷のよる献金量に応じた官位濫発ほどではなかったと思います。相伴衆を眺めるには、当時朝廷が献金目当てに濫発した左京太夫と修理太夫と比べると良いかと思います。前者の左京太夫は元々侍所頭人が受ける役職でしたが、永正十四年に守護識でもない伊達稙宗が任官されてから他の大名達がそれこそ「伊達ごとき」とばかりに朝廷に斡旋を求め(要は金を積んで)方々に「左京太夫」が現れ出しました。北条氏綱が任官されたのはその典型でしょう。そのため幕府はやむなく伊達稙宗を「陸奥守護識」に任じ体裁を保っています。が、それからはもう滅茶苦茶で、その後主に東国の岩城、大宝寺などの在地土豪が任じられる始末・・・。修理太夫にしても同じで、彼の畠山満則が任官されるほどの高い官職でしたが、後に尼子晴久や三好長慶等の守護代上がりが任じられるに及び、更には永禄七年、肥後の田舎大名相良義陽も修理太夫。こちらは何故か西国大名に多く見られます。しかしこれにはさすがに九州の雄大友義鎮が怒り、親幕府派であった義鎮は義輝に「相良如きと同じ官位とは何事也」と抗議しています。官途は朝廷が司るものなので義輝に抗議すること自体筋違いなのですが、このとき義輝は「先例起きてしまったものは是非もなし(ある意味笑)」と義鎮に弁明の書状を出しています(以上今谷明著「戦国大名と天皇」)。要は当時朝廷が献金目当てに見境なく濫発した官位と大名家格とのバランスが完全に崩れ、その収拾に将軍が苦慮していることの現れだと思います。結局の所、畠山義綱殿の年賀があった永禄四年は元々三管四識家に認められていた左京太夫・修理太夫だけでも日本全国相当数の寒門大名が存在していた訳で、朝廷による官位のインフレはその極であったろうと考えられます。そんな守護代上がりの三好、出自不明の松永弾正が相伴衆に任ぜざるを得なかった時(それ以前に美濃斉藤義龍も相伴衆に列す)に、歴とした能登守護畠山氏を同格の相伴衆に任じることには相当の抵抗を義輝が感じたことは容易に想像できます。つまりは相伴衆も既にインフレ状態にあったと言え、それを上回る役職は管領くらい(関東管領は上杉輝虎)。が、管領も既に実利を伴わないので、より実効的な軍事側近グループ「奉公衆」の再編を目指したのが実のところではないのかと・・・。従って身共は相伴衆、いわんや幕府識の外様衆よりはずっと上の識と思うのですが如何でしょう?
畠山義綱
>公方様(足利義輝様)
確かに家格的に三好などが任じられるような「御相伴衆」では義綱は納得いきませんよね。他に義輝公と親しい大名でなんらかの役職についた、というのは御存知ありませぬか?考えるヒントになると思うのですが。「他国衆」という役職に他の大名の名前も挙がっていたら考察の決定打になるのですが…。しかし、気になるのは「永禄六年諸役人附」。やはり「他国衆」=「外様衆」と思わせるような記述が…。それにしても、「他国衆」の役職本格的に検討して見る価値がありそうですね。一度、「永禄六年諸役人附」の記述など見てみたいものです。活字化されていませんかね。
ふーむ様
>畠山義綱様
> 「永禄六年諸役人附」だいぶ実名に混乱があるようですが、いつ頃の成立の書物でしょうか?
残念ながら、作者・成立年は不明です。冒頭に「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚 永禄六年五月日」とありますが、後半に足利義昭の奉公衆が含まれておりますので、この時点で現在みられるかたちに整えられたわけではありません。水戸の彰考館文庫に「光源院殿諸役付」の名で天和二年(1682)正月に書写された写本が残っているようです。ですから、少なくとも江戸初期までに原本が成立していることだけは確かです。活字本は『群書類従』(何巻か忘れた(^^;)
 既に何度か学術論文で取り上げられて検討され、前半部に義輝の奉公衆(永禄六年正月〜翌年二月のメンバー)、後半部に義昭の奉公衆(永禄九年八月〜翌年十月のメンバー)が列挙されていることが確認され、室町幕府最末期の幕臣を知る上で重宝されています。「明智光秀が幕臣だった」という論拠としてよく引用される史料でもあります。
 ただ、、、問題の「外様衆 大名在国衆」の部分は後付けなのか、列挙された大名に時期的なばらつきがみられ、先に指摘した人名の乱れもあり、慎重な検討が必要だと思います。それに、どこまでが外様衆で、どこまでが大名在国衆なのか(またはイコールなのか)、判断に苦しむ列挙のされ方です。なので、
> 上記の人物達は「外様衆」に入っていたのでしょうか?それとも他の役職でしょうか?
との質問には、答えられない状態です(^^;Aただし、御相伴衆については名前の肩の部分にその旨注記されています。
 史料的に評価の定まっている前半部とは異なり、末尾の部分はこのようにちょっぴり不安定な要素があります。それでもあえて、ここで紹介させて頂いたのは、「他国衆」なる格式が今のところ幕府関係の史料にも全くみえず、(『中世武家儀礼の研究』をみても載っていない…)たぶん『戦国史事典』著者がこの「永禄六年〜」を参着してそんな言葉を作っちゃったんじゃないかな〜(^^;と思い、カキコさせて頂いた次第です。
畠山義綱
三楽堂様の御教示により「永禄六年諸役人附」は『群書類従』29巻雑に掲載されていることがわかりました。今後は「他国衆」の記述を「永禄六年諸役人附」などを基に検討していきたいと思います。足利義輝様、ふーむ様、貴重な情報や御意見有難うございました!

「信州松本一族と「畠山実継」について」<情報提供者:本山一城様、七尾市常福寺承諾済>
(下記の文は、本山一城殿「信州松本一族」の「能登・越中国へ移った一族」を転載させて頂きました。本山殿、転載の許可を頂きまして誠に有難うございました。)
 北陸松本氏の記録は「西光寺由緒」等に残されたものが古い。すなわち、文安7年(1450)能登国守護・畠山義統の家老・松本忠成の次男忠元が、出家して七尾に常通寺を開基したというものである。彼は文明2年(1470)、岌誉(ぎゅうよ)と号して七尾の名刹西光寺の6代目住職となり、羽咋(はくい)郡富来(とぎ)町に隠居寺(同名の西光寺)を開基して、翌年に没した。浄土宗の名僧である。これは少なくとも、それ以前に松本一族が能登国に根を張った証明となろう。七尾市内には松本町という名も残っている。さらに、上野国の松本丹後守が、畠山氏発祥地の武蔵国男禽郡に明善寺を開基していたり、同族林氏が畠山氏の替紋・輪違紋を使っていたり、能登国畠山氏との関連を臭わせるものは多々ある。
(中略)
 この松本氏は信濃国松本を発祥とし、丹後国竹野郡中館を経て能登国七尾へ移住したと伝える。松本実継(1566-1618)の時、国主畠山氏の姓を許されて畠山実継と名乗った。松本実継の生まれた年、畠山家は家臣らのクーデターにより当主義綱は近江国へ亡命し、天正5年(1577)に七尾城は上杉謙信の攻撃を受けて落城。この時、実継は11歳であり、どういう行動をとったのかはっきりしない。とにかく畠山氏滅亡後、新たな領主・前田家の山廻役人(3人扶持)となってなんとか家名を存続している。この間の委細も伝わらない。それでも生没年と法名は系図にしっかり記録されているので、恐らく位牌だけはしっかり持ち伝えていたのだと思われる。
 5代長三郎(1659-1726)の時、越中国下新川郡へ移住、松本姓に復す。7代長太郎の次男・定太郎は七尾へ、三男誠太郎は江戸に移住した。8代目長左衛門の時に帰農し、12代長三郎の時、高100石、10町歩の地主となって明治を迎えた。
 家紋の「丸に三追柏」は松本長三郎が松本姓に復した時に制定したもので替紋として「丸に三追梶葉」がある。柏葉の筋は本家筋は5本、分家は3本とする。
畠山義綱
 「むぉお!また新たな畠山一族が(笑)ただ「畠山氏の姓を許されて」というところが気になりますね。掲示板によくいらっしゃってくださる能州奉行殿(畠山城)殿のご指摘もあった気付いたのですが、推測を交えてお話致しますと、「畠山実継」の名前は、18世紀後半に成立した富田景周の『越登賀三州志』の「故墟巻之四」西谷項にでてくる「畠山家継」に名前が似ています。「実」と「家」という文字も似ているので、ひょっとすると畠山実継が西谷内畠山家に養子に入ったのか、それとも『越登賀三州志』が、畠山実継の存在を、西谷内畠山氏の存在と混同したためか?ということになりますね(西谷内畠山氏についてはこちらを参照)。
 後者だったら大変!美濃晃順氏は『越登賀三州志』の「畠山家継」の記載において、西谷内城に畠山氏が居たと仮定しているわけで、その証拠が崩れ去ることにもなります。前者とすれば、これまた1つの推論が成り立ちます。その推論とは、西谷内畠山氏の人物とされる畠山将監は、永禄九年の政変で畠山義綱が追放されると、義綱に呼応して能登を離れ、越後上杉氏の下に逃れます。ですので、能登の西谷内畠山氏は1566年以降はいないことになります(現在のところ、将監の父畠山家俊に将監以外の子は知られていない)。ですので、反義綱派(遊佐続光・長続連ら)が西谷内畠山氏の後継ぎとして、畠山実継を養子に向かわせた、という推論です。まあ、憶測だけで突っ走っているので、全く的外れかもしれませんが(苦笑)

「畠山家俊の姻戚について」<情報提供者:前田様>
 卑文脈の藤原氏、室町貴族の観修寺家の記述中、観修寺政顕の女子について、「大隈守源家俊妾 統種母」と書かれています。時代と官途を考えると、これだけでも能登の「畠山家俊」との関係を考えますが、政顕は大永2(1522)年に賀州井家荘で卒し、その子(女子の兄弟)尚顕は享禄4(1531)年に能州で出家したと有ります。この「大隈守家俊」は「畠山家俊」の事だと思います。観修寺氏が京都の騒乱に追われて地方へ移ったその先が、能登畠山家の所だったのでしょう。その娘が、畠山家のトップクラスの重臣に嫁すのは不自然では無いだろうと考えます。子どもの名前が、畠山義統から貰ったと思われる名前であることも傍証でしょう。
 上記記事は、『国史大系本』尊卑文脈第二篇(吉川弘文館)の、81ページに載っています。また、子どもについての記述は無いのですが、同様の記事が系図纂要にも見られます。なお、分脈には女子の妹は「畠山陸奥守妾」とあり、また別の女子が白山長吏に嫁したと思われる記述があります。尚顕の孫娘は「畠山三郎の妻」ともあります。観修寺家は加賀・能登に深い関係がある事が想像されます。
 「畠山大隈守家俊の妻」が「観修寺政顕の娘」であることは間違いないと思います正妻かどうかは何とも言えませんが、文脈の記事では、その女子と尚顕は母が同じとの記述があり、そう考えると正妻になった可能性も高いと考えられます。
 統種母の記述をどこまで信じるかですが(纂要には無いですし)、文脈の編纂された時期を考えると(付載ではありません)、判断は保留しても参考情報として持っておく価値は有るのではないでしょうか。
畠山義綱
「おお!貴重な情報を有難うございます。畠山家俊の家系は、能登の畠山でも西谷内畠山の家系で、京都にもその祖先が赴いている事もあり、京都の勢力との交流の歴史もあったのではないかと思います。その点で、この婚戚も不自然ではありません。うーむ西谷内畠山氏は奥が深い!前田殿貴重な情報有難うございました。」

「玉尾(たまお)城は多茂(たもう)城だった!」<情報提供者:畝源三郎様>
畝源三郎殿
 地元の北國新聞(今日付)をみていたら、またまた畠山氏それも殿 (畠山義綱)に関わる記事でしたので、これこそ殿に御注進しなければとまた参上しました。
<以下新聞記事から>
  山城研究家の南龍雄(石川県志賀町)さんと(石川県)内浦町不動寺公民館長で同町文化保護審議委員の坂下久次さん両人が、9月4日までに、これまで(石川県)鹿島町にあるとされながら、所在不明となっていた戦国期の玉尾城が、同町の武部、徳前、二宮にまたがり南北朝期に創築された多茂城跡(武部城山)であるとし、調査結果をまとめた。両人は、同じ戦国期に設けられたとされる槻木(つきのき)城についても、同城跡の西尾根に造られたとしている。玉尾城は、永禄11(1568)年5月に七尾城を追われた能登国守護畠山義綱が能登復帰を果たすために攻略した城であり、七尾城を中心とする能登の戦国期の変遷を知る上で、重要な意味を持つとされている。畠山義綱が永禄11年、京都の医師・曲直瀬道三に記した手紙の中で、玉尾城の攻略について記述しているが、所在地については不明であった。南さんと坂下さんは、玉尾と多茂の両城の発音が類似している点に着目し、平成8年から3年がかりで地元住民への聞き取りや文献などの資料を調査し、両城が同一であることを突き止めた。
  南さんは併せて、多茂城の遺構などを記したり見取り図となる「縄張り図」も完成させた。「縄張り図」によると、多根城は標高約315mに位置し、縦約1010m、横約1335mで、規模は県内でも有数の大きさ。篭城、戦闘用の山城で、谷筋に隠し砦、山麓に館や居城を配した3段構えの大城郭であることが判明した。 南さんと坂下さんは玉尾城と槻木城の新説が今後の能登の戦国時代の研究に役立てば幸いである」と話し、今後、文献としてまとめる予定にしている。
<以上本日北國新聞朝刊より>
畠山義綱
ぬおお〜!そうだったのか!これでまた畠山研究がはかどりますねえ。能登御入国の乱の地理的研究でもしてみようかな・・・畝源三郎殿ありがとうございました!

「畠山記念館を発見」<情報提供者:匿名希望>
 かつて、薩摩藩島津重豪が隠棲した故園の中にあり、文化元年には園内の勝景に題して、亀岡十勝の詩碑がたてられました。維新後は、伯爵寺島宗則の有に帰し、明治十三年、天皇の行幸を仰いで、天覧能が催されました。その後荒廃、昭和の初め分割譲渡されようとしましたが、畠山即扇は、由緒あるこの土地が消滅するのを惜しみ、一括購入して、奈良般若寺の遺構を移し、般若苑と名づけ私邸としました。今は、都内有数の料亭として営業していますが、隣接した土地に畠山記念館を同園内に建てられました。そして、畠山一清は、能登国主畠山氏の後裔で、加賀金沢に生まれ、日本趣味に造詣深く、能楽や茶の湯を嗜み、五十年に渡って収集した故美術品を展示している記念館。と言ったものでした。園内には、とても静かで、いくつかの本格的茶室が設けられていて、中は見れませんでしたがGWの観覧日には是非見に行きたいと思う所でした。(本館の展示は見ることができました。)
畠山義綱
有益な情報をありがとうございました。

「吉見氏のその後についての質問」<質問者:きしもと様>
きしもとさん
「残っている史料(幕末ですが)によると、吉見三郎詮頼という人(略)。その親が足利義満に能登の守護を罷免されて以来、乙が崎に隠れ住んでいたとあるんですが、こういう話はありうるんでしょうか?」
畠山義綱
「吉見氏が他に守護を任されていない点から見ても、能登に残った可能性は十分あると考えられます。また、吉見氏は能登国内の体制を十分固められないまま罷免されたので隠れ住むということも納得できます。また、私が持っている資料の中の(すぐ出せる状況になかったりする)能登畠山氏が行なった社寺の造営に関する書において、畠山家の家臣として吉見氏の名前が載っていました。また、その本ではこの「吉見」氏は前守護である(正確には前々守護)吉見氏の末裔である。という書物がありました。能登に吉見氏がいた可能性は大ですね。」

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