遊佐盛光特集

遊佐盛光
↑遊佐盛光イメージ像(畠山義綱画)

☆遊佐 盛光<ゆさ もりみつ>(?〜1582)
 初名綱光。四郎右衛門尉と称す。仮名孫太郎。続光の子。義綱・義慶・義隆・春王丸に仕える。始め義綱の偏諱を受けて「綱光」と名乗ったが、永禄九年の基礎的考察で義綱が追放されると、「盛光」と名乗った。1570(元亀元)年には父に替わって年寄衆となる。1577(天正5)年の謙信の能登侵攻では父と共に謙信に内応し、七尾城を開城したが、その後、謙信を裏切り織田信長に服しようとしたが、親を殺された長連龍の恨みから織田軍に討伐され、逐電したが許されず1582(天正10)年斬首されたと言われる。

盛光政治活動ちぇっく!
 綱光時代(1566年まで)の発給文書は知られなく綱光(盛光)がどのような行動をとったのかわからない。ただ、『長家家譜』などの長家軍記物資料によると続光の息子“義房”(盛光のことヵ)が1556(弘治2)年、父続光の謀略を諌めて畠山家へ復帰を果たしたとされる。しかし、長家資料は後世連龍らの子孫が書いたものに拠っており、連龍の父続連を続光に殺された遊佐家について、客観的な記述をするはずがない。それゆえ、盛光が続光を諌めたというのも全くの創作かもしれない。
 一方時代が下って、盛光が父・遊佐続光より家督を譲られたのが1570(元亀元)年、義慶政権の年寄衆に長綱連温井景隆・平尭知と共に任じられた時である。また、盛光の発給文書の初見は1572(元亀3)年の下記の文書Aである。また、盛光が年寄衆となったのは、文書B、文書Cなどで畠山家の上杉外交を担っている点からも確認できる。では家督を譲られた盛光は、遊佐家(美作守家)の中心として活動していたのだろうか。答えは否である。というのは、文書Aで盛光が親しくしている上杉家の河田長親は、1572(元亀3)年の美作守(続光)から河田長弥宛の文書をみると、長親からの年始の遣い謝しているので、むしろ父・続光との関係から盛光と河田長親も親しくなったと言える。また、その手紙において続光は、謙信の越中出馬を依頼しているので、遊佐家(畠山家)の重要な外交を続光が扱っていると言える。すなわち、盛光の年寄衆就任後も続光は活発に活動をしているのである。また、盛光が発給文書で「四郎右衛門尉」と名乗り「美作守」は相変わらず続光が名乗っていることにも注目したい。普通家の頭領は国司の官途を称するのが常である。長家においては「九郎左衛門」というのが頭領を示すが、綱連は1572(元亀3)年の段階で名乗っているので、長家の(形式的かもしれないが)中心人物となっていることが知られる。しかし、盛光には遊佐家の家督を譲られたというのは、換見出来る限り「年寄衆連署状」に名前を連ねていることくらいしかない。
 また、その後も盛光は常に父とともに行動している。『長家家譜』によると1576年(天正4)からの上杉謙信の能登侵攻で七尾城篭城の際は父と同じ木落口を守備している。また、長続連長綱連の殺害も父と行動の及んだものと見られる。さらには、1577(天正5)年9月の七尾城落城後の翌月、七尾城代となった上杉臣・鯵坂長實は能登の国政を担当するにあたり庶民に遵守すべき制札を掲げたが遊佐続光との連名であり盛光の名は出てこない。ここにも上杉方が誰が遊佐家の実力者かわかっていたと思われる。1578(天正6)年の文書に謙信から遊佐登松丸への海鼠腸(このわた)の謝礼状が届くが、この登松丸を坂下喜久次氏は著書『七尾城と小丸山城』で遊佐盛光の次男・十松であろうとしている。ここでも盛光の名はでていない。ただ、1579(天正9)年の京都興臨院へ当てた書状は盛光の名で送られている。興臨院への交渉は遊佐家を代表したものと思われ、この時は盛光が実力を有していたのかもしれない。

(文書A)『歴史古案』
其御表于今御居陣之由、弥被御本意之由尤候。珍重候。
仍先度者、御馬一疋鹿毛被送下候。過分至極、致秘蔵繁置候。
忝存候。就中雖見立、具足一両腹当惣糸糸□(威ヵ)進上候。
然之様可御披露候。恐々謹言。
(元亀三年) 遊佐四郎右衛門尉 
九月五日 盛光
河田豊前守(長親)殿
河田長親から馬一匹を贈られたのを謝して具足両を贈った文書。

(文書B)『歴史古案』
越賀表之儀啓上候処、尊書拝見忝奉存候。
猶重而可申上候間、宜御取成候。恐々謹言。
温井備中守
景隆
(天正三年) 長九郎左衛門
 極月十五日 綱連
平賀守
高(尭)知
三宅備後守
長盛
遊佐四郎右衛門
盛光
河田豊前守(長親)殿
5人が河田長親に謙信への取り成しを依頼した文書。

(文書C)『歴史古案』
熊令啓入候。先以于今御在陣之由、御太儀令存候。
将復越府より御出馬之儀如何、末相知候哉、今程御被出候者御本意眼前ニ候。
拙者式別而先手仕、御馳走可申上候。此旨越江可仰上候。恐々謹言。
(天正四年) 温井備中守
二 月廿日 景隆
平加賀守
高(尭)知
遊佐四郎右衛門
盛光
長九郎左衛門
綱連
色部惣四郎(長真)殿
斉藤下野守(朝信)殿
岩井民部少殿
小倉伊勢守殿
五十公野権右衛門殿
 年寄衆4人が謙信の重臣らに、上杉勢の出馬を促し、先手を約束した文書。

盛光出陣履歴ちぇっく!
 1576年(天正4)からの上杉謙信の能登侵攻七尾城篭城の際は父と同じ木落口を守備していた。1577年3月謙信の一旦帰国で能登勢は攻勢にでて長綱連が能登の諸城を奪還している(穴水城のみ苦戦)。この攻勢合戦時に遊佐や温井などの諸将は知られていない。無論『長家家譜』の長家資料なので綱連の活躍は割り引いて考えなければならないが、もし、能登諸城奪回戦に続光・盛光らが参加しなかったとすると、謙信との内応のため出陣しなかったのであろうか。
 上杉謙信が1578年に死去すると続連・盛光らは上杉軍に反旗を翻し鯵坂長實を能登から追放し、七尾城を占拠し織田に服することにしたが、父・続連を殺害された長連龍は続光・盛光父子らを許さず合戦を起こした。連龍軍と続光軍は1580(天正8)年6月羽咋郡で合戦となり(菱脇の合戦)、敗北したと言われる。盛光も父・続光同様合戦上手ではなかったのかもしれない。

盛光外交政策ちぇっく!
 盛光の外交は基本的に父・続光の方針によっていた。すなわち、上杉家臣の河田長親への接近も続光との関係が基本であった。父が上杉家と親しい関係であったので、当然盛光も親上杉派であった。 
 しかし、続光・盛光父子と温井氏(景隆)・三宅氏(長盛)・平氏(尭知)らはその後1578年に謙信が死去すると、上杉軍に反旗を翻し鯵坂長實を能登から追放し、七尾城を占拠し織田に服することにした。しかし、父・続連を殺害された長連龍は続光・盛光父子らを許さず1580(天正8)年6月羽咋郡で合戦となる(菱脇の合戦)。これに敗北した遊佐氏らは1581(天正9)年3月織田信長の軍勢が能登に入部すると、合戦の責任を恐れて逐電する。しかし、鳳至郡小石村の狂言師翁新五郎宅に潜んでいた所を父子(続光・盛光)共に発見され、斬首された。盛光は常に続光と行動を共にし、共に戦国の露と消えたのであった。

参考文献
須藤儀門『室町武士遊佐氏の研究』業文社.1993年
片岡樹裏人『七尾城の歴史』1968年
坂下喜久次『七尾城と小丸山城』北國新聞社出版局,2005年
(共著)『戦国大名家臣団事典』新人物往来社.1986年
ETC・・・・

義綱公式見解「父と常に共に行動した2世。」

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