二本松義有特集

畠山義隆イメージ像
↑二本松義有イメージ像(畠山義綱画)

☆二本松 義有<にほんまつ よしあり>(生没年不詳) 義綱仮説・義隆(1556〜1576)
 9代当主畠山義綱の次男ヵ。能登畠山氏の一族ではあるが、二本松畠山家に養子となり「二本松伊賀守義有」と名乗った。。法名は幽徳院殿宗栄大禅定門(片岡樹裏人『七尾城の歴史』より)。

(1)「畠山義隆」の実在性は?
 「畠山義隆」の存在は、『長家家譜』など江戸時代まで存続した長家関連の資料では義綱の嫡男として数多く名前があがるものの、実際の義隆発給文書は1通も無い。それゆえ、最近の書物では義慶と同一人物としているところもあり、そもそも義隆の存在が疑問視されている謎多き人物である。同時期に活躍した能登畠山家の重臣「温井景隆」の名前から、義隆が従来の説通りに家督を継承したという説は疑わしい。というのも、普通は下図1のように、当主の名前の字を家臣が名前につける場合、名前の上につけるのが通例である。であるので、家臣が名前の下につけるのはこの上ない無礼となる。つまり、畠山義隆に「隆」の字がある限り、家臣が「景隆」という名前で存在するというのは本来あり得ないのである。であるので、通説通り畠山義隆が1574(天正2)年〜1576(天正4)年まで当主だったとすると、その間「景隆」は改名しなければならない。しかし、今のところ、温井景隆が名前を改名したという資料は見つからないので、1574年-1576年の間に「義隆」という当主はいなかったと推定される(注1)。さらに近年の研究成果で『興臨院月中須知簿』に於いて畠山義慶の没年が1576(天正4)年4月4日だということがわかった(詳細は畠山義慶特集参照)。となると畠山義慶の七尾城主であった期間は1566(永禄9)〜1576(天正4)年までの8年間であったことが確定し、畠山義隆が当主であったかもしれない期間はどんなに長くても1576(天正4)4月〜1577(天正5)9月までの1年強の期間でしかないのである。
 従来言われてきた義隆について、東四柳氏は「義慶が死んだ後、弟義隆がその跡を嗣いでいたとしても、兄と同様の次郎の仮名を名乗り、京都の公家の三条家から正室を迎えていたとは、松房までの能登畠山氏をめぐる政治状況や、時間的制約からは考え難いからである。」(注2)と指摘している。すなわち、「畠山義隆という人物は能登畠山家の当主を継承していない」事が確定されたのである。

(図1)
当主「○×」→家臣「×△」
(「×」が偏諱となる。

 では、「畠山義隆」は架空の人物なのであろうか。能登畠山研究の第一人者である東四柳史明氏は「義隆」について「父義綱らが出奔したのち、兄の次郎義慶が家督を相続すると、二本伊賀守と名乗ってそれを補佐した。」(注4)と記している。では畠山義慶を「義隆」は補佐し得たのだろうか。能登畠山関連の多くの書物で義慶は幼少で家督を継承とある(義綱仮説だと、1566年に義慶は12歳頃となる。)。その幼少で家督を継承した義慶の弟である「義隆」が、果たして義慶を補佐出来るのであろうか?普通に考えると補佐というのは、後見人という形で当主より年上のものがするのが普通である。しかし、義綱の実子であるならば、「義隆」は兄義慶より少なくとも1歳以上年下である(庶子と考えても、義慶の弟とすれば、義慶以下の年齢と考えるのが妥当であろう)。その場合、「義隆」は補佐等出来るはずないのである。となると、この「義慶の補佐」というものが事実と仮定するならば、義慶の家督就任当初の1566(永禄9)年ではなく、限りなく義慶の没年(1576年)に近い頃に「補佐になった可能性」ならばあり得るのかもしれない。
 七尾城が落城した後、上杉関連の書物に「畠山義隆」の妻を、北条景広の妻としたとあることから(注3)、「畠山義隆」という人物がいたと思われるが、東四柳氏の前掲論文によると「隆」と「慶」の崩し字は似ているため、書写の段階で写し間違えたと指摘している。すなわち、「義隆」という人物は存在せず、畠山春王丸も義隆の子ではなく、畠山義慶の子と考えられる。長家関連の軍記物史料によると「畠山義隆」という人物の死去時期は、1576(天正4)年2月4日若くして急死とた書かれている。急死した理由の仮説としては暗殺説がある(暗殺説については何故義慶、義隆は暗殺されたのか参照)。一方で「二本松伊賀守義有」の死去時期は、謙信が能登に侵攻した七尾城攻防戦において疫病によって病死したとされている。では、「畠山義隆」という人物は全くの架空の人物であるのか。それとも「二本松伊賀守義有」なのかということを次項で検証したい。

(2)「義隆」は「二本松伊賀守義有」なのか?
  『長家家譜』などの二次資料では、畠山義綱の子どもを嫡子「義隆」、次男にして庶子の「二本松伊賀守義有」としている。そこで従来の研究では、嫡子とされている「義隆」を義慶に置き換え、「義有」を義隆と置き換えて研究が進められてきた。

 義隆は二本松畠山家(奥州二本松家)に養子となったとも言われ、東四柳史明氏は「奥州二本松の畠山一族で、能登に来住していたものの名跡を継いだものであろうか。」(注5)としている。とすると、1517(永正14)年に二本松畠山氏の血筋で能登の来住して邸宅を持っていた畠山貴維の養子になったのであろうか。1573(天正元)年の「気多大社宮司旦那衆交名」に畠山家の一族庶流とおもわれる「二本松」の名が有ることからも(古文書B)その可能性はある。この名前の順位がそのまま家柄地位順だとすると、最初に能登畠山家当主で、その次に二本松殿となっている。畠山将監は西谷内畠山氏の家柄で、その地位は応仁の乱を記述した「応仁記」でも明かである。「山名同心ノ人々ニハ、吉良左京大夫義勝、斯波左兵衛義廉、畠山右衛門佐義就、同左衛門佐義統、同宮内大輔教国、同左馬助政栄(以下略)」この中で、将監の祖父・政栄(家俊の父)は宮内大輔教国の次ぎに列する地位である。教国は義忠の弟で、いわば能登畠山家の嫡流である。それだけの地位に西谷内畠山氏が列しているのである。となると、[気多社壇那衆交名]で西谷内畠山氏の人物である将監の前にいるという二本松殿と言う人物は、畠山家の血筋と言われる松波畠山家か、能登畠山家嫡流と考えるのが妥当であろう(注6)。となると、『長家家譜』などで出てくる「二本松伊賀守義有」が比定できる。それゆえ、義隆がこの「二本松殿」ではないのかと推測するのである。仮に従来の説である「二本松伊賀守」が畠山義慶を補佐するとなると、気多大社造営の際の「気多大社宮司旦那衆交名」に一門衆の立場で「二本松殿」と名を連ねているので、すでにこの頃には補佐を担い国政を義慶と共に担当していたのかもしれない。

 一方で「二本松」という人物に関して気になる(古文書A)がある。この文書を見ると、発給文書が飯川宗玄(飯川光誠が入道した)となっており、「御屋形様」(=畠山義綱)と「御隠居様」(=畠山義続)という人物が登場している事からも、「義綱亡命政府」による発給文書であることは間違いない。この文書では羽咋郡にある永光寺が畠山義綱に米3袋、畠山義続に米2袋、飯川宗玄に米1袋を支援しているのであるが、もう一人「二本松殿」という人物にも米を1袋送っている。ということはこの「二本松殿」は「義綱亡命政府」の味方とみることができる。しかし、(古文書A)義慶政権の2番手とされる人物が「義綱亡命政府」に与しているのだろうか。そもそも、この(古文書A)(古文書B)の「二本松殿」が別人である可能性もある。しかし、永光寺は能登にある寺でありほぼ同時期(1ヶ月差)の人物を同名で文書に記すだろうか。

 ここでまったく別の視点から1つの推論を述べる。『長家家譜』などの二次資料では「畠山義則」なる能登畠山家の当主が嫡子の「畠山義隆」を廃し、庶子の「二本松義有」に家督を継がせようとしたから「畠山義則」を追放したという記述がある。これを永禄九年の政変に当てはめると「畠山義則」=畠山義綱、「畠山義隆」=畠山義慶、「二本松義有」=畠山義隆とも比定できる。この2次資料における畠山義隆=庶子説を取り入れたとすると、畠山義綱は「義隆」が庶子であったことから「二本松」の養子したのではなかろうか。もし「義隆」が庶子であったとすると、庶兄であった可能性もある。そのため家督を継承せず、嫡子である畠山義慶が家督を継いだのかもしれない(注7)。そうであるとすれば、畠山義慶の補佐役となった年齢問題も、名前を「二本松」と改名したことも、(古文書B)に於ける家中の2番手に位置することも合致する。(古文書A)との矛盾は、1566(永禄9)年の当初は「義綱亡命政府」に味方したが、1573(天正元)年4月において義慶方に「能州太守・補佐」という地位を元に復帰したとも想起できる。しかし、以上のことは全く文書的裏付けがなく推論の域を出ないので、後考を待ちたいと思う。

(古文書A)永光寺文書
御屋形(畠山義綱)様江爲御音信八木三袋、御隠居(畠山義続)様江弐袋御進献候、
則遂披露候、遠路別而御祝著趣、被成御書候、御出張(能登国)刻、御寺内・御寺領等、
聊無意義様可被仰出趣、相心得可申入旨候、就中二本松殿江壹袋御進献、
是又申理候、御祝著趣被成御一札候、猶得其意可申入由候、
次拙者江壹袋被懸御意候、御懇意之段恐悦至極候、委細御使僧江申入候條、
不能詳候、恐々謹言、
(元亀四年ヵ)三月六日 飯川若狭入道(光誠)宗玄(花押)
(羽咋郡)永光寺 侍者禅師
1573(天正元)3月 
(古文書B)「気多社壇那衆交名」(気多大宮司家文書)
「天正元年大宮司宿祢旦那衆」
能登衆
畠山修理大夫(義慶)殿
二本松殿 同将監殿
治部大夫殿 弥太郎殿
(以下略)
1573(天正元)4月

義綱仮見解「義隆は存在せず。二本松義有という畠山一族であった。」

(注釈)

(注1)偶然当主の名前の一字と家臣の名前の下の字が一致しても、名前は変えないということがあったのかもしれない。当主の名前を家臣が名前の下につけていたと言う事例をご存知の方は、ぜひ私にご教授頂きたい。
(注2)東四柳史明「能登畠山氏滅亡の周辺」『加能史料会報』32号,2021年
(注3)『加能女人系 上』北国新聞社.1971年
(注4)(注2)論文より
(注5)
(共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
(注6)足利義純より続く畠山嫡家である奥州二本松畠山家の人物が、わざわざ能登まで来たとも考えられなくも無い。しかし、河内畠山氏と能登畠山氏との交流はかなり知られているのに対し、二本松畠山氏との交流は全く見られないので、資料上の「二本松殿」が二本松畠山氏の人物だとは積極的に考える事が出来ない。しかし、この事は「二本松伊賀守義有」の関係と矛盾する。何故全く交流も見られない二本松畠山氏に、能登畠山家から養子に行かせたのか、そして、養子に行かせたのにどうして「義有」を能登に留まらせたのか。これは資料上の制約もあり、新たな資料発見とともに後考を待ちたい。
(注7)庶子の嫡男が当主を継承できなかったのは、慶致の嫡男(庶子)九郎が家督を継承できず義総が継いだ例がある。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会.1968年
東四柳史明(他共著)『戦国大名系譜人名事典西国編』新人物往来社.1986年
米原正義(他共著)『七尾市史通史編』七尾市.1974年
『加能女人系 上』北国新聞社.1971年
東四柳史明「能登畠山氏滅亡の周辺」『加能史料会報』32号,2021年

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