★その他の能登畠山嫡流家一門★
畠山義有<はたけやまよしあり>(?-1439頃) | |
治部少輔・阿波守。畠山義忠の嫡男で3代畠山義統の父。義有の妻は、賀茂別雷社の社家・竹内氏の出身(『地域社会の史料と人物』北國新聞社.2009年.P30より)。1433(永享5)年に法楽百首歌会を張行のを始め、男山八幡宮・北野天神社へ和歌百首の奉納を行なったり、自邸で歌会を催したりもした。父義忠の影響を受け文化に精通していたといえよう。しかし、大和方面の幕府の凶徒討伐軍に加わっている陣中で病死した。1439年頃の早すぎる死であった。この為、能登畠山家の畠山義忠の跡の家督は、義忠の孫である畠山義統に直接渡されたのである。 |
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↑畠山義有イメージ像(畠山義綱画) |
畠山義繁<はたけやまよししげ>(?-1533) | |
幼名次郎。畠山義総の嫡男で畠山義続の兄。「次郎」は能登畠山家の長男につける幼名である。初見は1512(永正9)年。「守光公記」によると、参議廣橋守光の幕府祇候に供奉した者の名前に「修理大夫(畠山義元)父子(畠山義総)等也、修理大夫孫者(義繁ヵ)御共衆一列也」とある。義総が1491(延徳3)年生まれなので、1512(永正9)年では22歳。子どもが生まれていい歳であり、普通に考えれば嫡男の義繁があてはまる。順当にいけば彼が家督を継ぐはずだったであろうが、1533(天文元)年6月5日に早世した。実名を持っているということは、青年に達して元服していたとみえる。さらに、興臨院の過去帳によると「花岳宗芳首座禅師 天文十五□□年七月 大用寺殿息女」とみえ、義繁が結婚し娘がいたことがわかる。義繁の早世により、早くから義続が家督後継者として認められた。興臨院の過去帳によると法名大用寺殿心月徳安大禅定門。 |
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↑畠山義繁イメージ像(畠山義綱画) |
☆畠山家の女性☆
六角義賢の娘(生没年不詳) | |
近江佐々木氏六角義賢の娘で、同盟関係強化のため天文年間後期に能登守護畠山義綱の正室となった。近江六角氏の史料『江源武鑑』では1555(弘治)元7月25日輿入れしたとしているが、同本の信憑性からその日程の再検討の必要がある。輿入れの際、六角義賢から楢崎石見守賢光を女佐の臣として遣わし、また様々な嫁入道具を贈ったと言われ、野洲郡戸田庄を化粧領に与えられたと言われる(『江源武鑑』より)。 |
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↑六角義賢の娘イメージ像(畠山義綱画) |
★松波畠山家★
★西谷内畠山家★
★その他の畠山家一門衆★
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