「義綱亡命政府」の基礎的考察

 永禄九年の政変によって、9代当主であった義綱とその父徳祐らは長続連遊佐続光らに能登を追われた。そして、飯川光誠ら主な家臣を率いて義綱の妻の実家(=六角氏)である近江に逃れて再起を図った(能登御入国の乱)。1568(永禄11)年には実際に兵を率いて能登に入国するも敗れ、その後も執拗に入国工作は続けられた。

はじめに
 永禄九年の政変によって近江坂本に誕生したもうひとつの能登守護の政権=「義綱亡命政府」。この政権の動静については、能登畠山氏研究の第一人者である東四柳氏の「畠山義綱考」(注1)と宮本氏の「畠山義綱と医道伝授(一)」「畠山義綱と医道伝授(ニ)」(注2)に詳しい。がしかし前者は畠山義綱個人についての論文、後者は畠山義綱の医道に関する論文であるため、どちらも「義綱亡命政府」の性格を詳説しているとは言い難い。そこで、本稿では近江に誕生した「義綱亡命政府」の誕生した背景や性格を明かにしていきたいと思う。筆者自身歴史の専門家ではないので、主に東四柳氏の前掲書を中心に議論を進めることを御了承願いたい。

(1)「義綱亡命政府」誕生の背景
 義綱が能登を出奔せざるを得ない状況となったのは、筆者コンテンツ永禄九年の政変の基礎的考察に詳説しているので、そちらを参照していただきたい。簡潔に言うと、弘治の内乱以降畠山家では義綱専制が確立し、義綱は奉行人を中心として大名権力の回復を図った。その為、父徳祐と共に義綱派は長続連ら年寄衆に追放されたのである。
 追放された義綱が興した「義綱亡命政府」は旧義綱政権時代の側近、つまり義綱派を中心として成立していた(後述)。一方、義綱を追放して義綱の嫡子義慶を擁立して新たにスタートした義慶政権の中心人物は、長続連遊佐続光八代俊盛らで反義綱派である。長続連は義綱に比較的近い存在だったが、一乗院覚慶(足利義昭)に対する政策において2人の対立が深まった事をすでに述べた(永禄九年の政変の基礎的考察より)。即ち、「義綱亡命政府」の誕生の要因は義綱派対反義綱派の抗争であったのである。

 次ぎに「義綱亡命政府」が近江坂本に誕生した理由を探る。妻の実家である六角氏領国近江に逃げたという理由があるが、それだけでは無いであろう。それまでの反主流はほとんど加賀の本願寺の力を借りて能登の政権と対峙している。1547年におきた押水の合戦(畠山駿河)、1550(天文19)年におきた能登天文の内乱(遊佐続光)、1553(天文22)年におきた大槻・一宮の合戦(遊佐続光)、1555(弘治元)年〜1560(永禄3)年におきた弘治の内乱温井景隆ら)。これらはいずれも畠山政権に対峙する為、本願寺(加賀一向一揆)の力を借りて出兵している。しかし、義綱出奔の場合は本願寺を頼りとせず六角氏の下に逃れている。これは一体何を意味するのであろうか。能登御入国の乱(1568年)における本願寺の対応に対して東四柳氏は「本願寺顕如に入国に際する加賀門徒の援助を要請したのに対し、顕如の「惣是而他家之儀、助言事無之候」という拒絶行為を見たことは、当時顕如が、謙信と対抗する武田信玄と同盟関係にあった事情によろう。」(注3)と指摘する。つまり義綱出奔前も後義綱と謙信の仲は懇意であり、本願寺の援助が期待できなかった。故に六角氏を頼ったのであろう。このことは、土佐の一条兼定が家臣に追放された時、縁のある大友の戦力を借りて土佐に入国作戦を展開したのと似ている。一方「義綱亡命政府」とは反対に義慶政権は謙信と敵対することになったので、温井景隆を復帰させ、本願寺とのパイプを強めると同時に義綱方に味方しないよう腐心しているのがわかる。

(2)「義綱亡命政府」の性格
 「義綱亡命政府」は本願寺の力を仰ぐ事が出来ず、近江坂本に基盤を持つ事になる。義綱が同地に基盤を置いた理由は、義綱の妻の実家である近江六角氏に援助を請う為に加えて、自らの正当性を主張する為に中央政権と交渉し、さらには自らの後援者を京都で多角的に探すことにあった(注4)。権力基盤はなんといっても六角氏の後援であるが、それだけではなく多くの家臣が能登から付き従って来たし、能登国内には多くの潜在的義綱支持派がいたことも上げられよう(注5)。また、能登畠山家の京都の出先期間とも言える栗棘庵(寺社)が義慶政権への接近に並行して、「義綱亡命政府」へも多少援助をしていたことが知られる。その内容は「義綱に五○○文、飯川光誠に一○○文、熊木続兼にニ○○文」(注6)贈呈している。金額はかなり少ないが、栗棘庵が義綱の存在を無視できないものであると判断したからであろう。
 それから、義綱は亡命してから早々病気にかかっている。その病気を治す際に、過去に将軍の軍医であり、且つ当時政治道義における超一流の人物曲直瀬道三と出会った。道三の義綱関連の活動は医道の伝授のみならず、義綱の為の政治活動まで及ぶ。

古文書(A)「曲直瀬文書」(『小乗覚自養録』紙背文書)
公方様(足利義昭)御入洛之儀、織田尾張守(信長)以馳走早速被御本意候段、珍重誠天下名誉候、就其為礼儀上使僧候、仍江南北并京都・南方様子、以 一書注進可悦入候、将亦近日候煩候、次小児之方之儀、此手日記之趣、写到来候者、可祝着候、偏頼入候、委細富来小次郎(胤盛)可申候、恐々謹言、
 十月廿六日  (畠山)義胤(花押)
  (曲直瀬)道三入道殿
花押以外の( )は筆者追加
古文書(B)「曲直瀬文書」(『小乗覚自養録』紙背文書)
入国之儀、織田弾正忠(信長)江為上富来小次郎候、於其許、万端馳走可祝着候、猶(富来)胤盛可申候、恐々謹言、
 卯月十四日  (畠山)義胤(花押)
  (曲直瀬)道三入道殿
花押以外の( )は筆者追加

 (A)(B)これらから1568(永禄11)年、織田信長が足利義昭を連れて入京した時、道三を通じて義昭・信長に義綱(義胤)は側近の富来胤盛を派遣して接近していることがわかる(注8)。これは何を意味するのだろうか。ただ単に義綱の入国工作支援の為だけの接近ではないと思う。それは、「義綱亡命政府」の存在意義そのものであったのではないかということである。つまり、「義綱亡命政府」はこちらが本物の能登守護であるという正当性を売りにすることで、カリスマ性を高めていたのではなかろうかと推測するのである。殊に実質的に権力基盤が無いに等しい「義綱亡命政府」では、権威が最大の武器となる。それゆえ新将軍となる義昭に、自分を認めてもらうことが必要だったのであろう。さらには、当時「将軍のような伝統的上位権威者と結び、一定の称号を授与されてこれを身にまとっていなければ「軽々しい」と難じられる社会状況」(山田康弘「戦国期における将軍と大名」『歴史学研究772号,2003年』)にあって、義慶政権に揺さぶりをかける目的もあったのであろう。
 それに対し、義慶政権側の対足利義昭交渉は知られない。しかし、その代わり、1571(元亀2)年の義慶の修理大夫受領と1573(天正元)年4月の一宮気多大社の摂社白山・若宮両社の造営(注9)が中央政権との関係を解く鍵になる。修理大夫の官職はもともと能登畠山氏歴代当主の官職であり、朝廷からその地位を認められたと言う事になる。また、翌々年の気多社造営もこの事業は1562年畠山義綱が朝廷の正親町天皇に勅許を得て実行したものであり、それを再び実行したという事は、義慶政権と朝廷との少なからぬ仲を感じさせる。義慶政権はあえて義綱政権と連続した政策を採る事によって「義綱亡命政府」の正当性を揺るがせ牽制したのではなかろうか。室町幕府と提携を模索する「義綱亡命政府」に対して能登の義慶政権はより上位権威者である朝廷と連携することによってその正当性を確立しようとしていたのである。
 「義綱亡命政府」は、能登奪回戦で「いつか能登に復帰する!」という意欲を基に意気高揚に繋げていたことは想像に難くない。それが、能登御入国の乱での初戦の勝利に繋がり、口能登の大半を占拠するに至った理由であろう。しかし、意欲も最大の見せ場である能登御入国の乱の敗退によって徐々に失われたのである(注10)

(3)「義綱亡命政府」の権力の中枢
 まず、「義綱亡命政府」の中枢メンバーから考えていきたい。義綱・徳祐が側近を通じて織田信長などに接近したのは(A)(B)などの文書からわかるので、政権の政策に義綱・徳祐らが実質的にも参加していたのが読み取れる。又、義綱能登奪回計戦における道三への戦況報告を義綱自ら行っている事を考えると、政権のトップは義綱であろうと推測できる。次ぎに家臣の地位をみてみよう。1568(永禄11)年1月、笠松但馬守に「義綱亡命政府」への来附を求めた義綱の書状に飯川光誠が副状を添えていること、1573(元亀3)年の正月に以前義綱に謀反の嫌疑をかけられ越後に出奔した飯川肥前守ら飯川一族を「義綱亡命政府」に加えられた事は、少なくとも飯川光誠が義綱の側にいたからではなかろうか。よって、飯川光誠を義綱を補佐する役目であったと推測する。
 その他のメンバーでは、足利義昭・織田信長との折衝をした富来胤盛である。胤盛の「胤」は義胤(義綱から改名)の偏諱だと思われる。大事な交渉役や「胤」の字の拝領など政権内でそれなりの地位があったのであろう。また、旧義綱政権で本願寺との交渉役であった神保周防守は能登御入国の乱で主力の馬廻衆として活躍している。このことからも政権内での地位が伺われる。

古文書(C)「義綱亡命政府」奉行人書状(『筒井文書』)
棟並半分一日人夫、従大沢村拾五人六月一日ヨリ八日迄十弐人九日ヨリ十六日迄、以上廿七人為御定夫詰之旨、依仰配符(畠山義胤)如件、
南志見
 元亀弐年 (南志見) 光連
五月十七日 秀堅(花押)
宗 (花押)
人足日之下へ 実安(花押)
相渡者也 光家(花押)
続親(花押)
(佐脇) 綱盛(花押)
 弥郡殿

また旧義綱政権で奉行人を務めた佐脇綱盛も重要な構成メンバーであったらしい。綱盛は寺社などの招誘工作を担当していたらしい。その他にも、弥郡氏に人夫の負担を命じるとき、連署に名を連ねている(C)。しかし、その綱盛も後に「義綱亡命政府」を離反する。
 まとめると「義綱亡命政府」の組織は、義綱がトップ。旧年寄衆の飯川光誠が補佐。旧奉行人らの佐脇綱盛らが政策を実行することとなり、これは義綱が能登を追放される前の義綱政権の陣容と合致する。すなわち、「義綱亡命政府」は旧義綱政権の組織を継承したものであると言える。とすると、(C)の文書は「義綱亡命政府」の奉行人であろうか。

(4)晩年の「義綱亡命政府」
 「義綱亡命政府」の最大の目的は能登御入国の乱を遂行し、義慶派を駆逐し能登へ帰る事である。しかし、1568年の能登御入国の乱敗退により、帰国の望みが薄れると徐々に家臣が離反して行った。笠松但馬守は、一旦は「義綱亡命政府」に味方したものの敗退を気に1568(永禄11)年9月に離反する。その後、佐脇綱盛も離反して義慶政権の奉行人となっている。離反した時期はわからないが、(C)の文書が1571(元亀2)年に発給されているので、その頃はまだ「義綱亡命政府」にいたことがわかる。1573(元亀4)年、義綱方家臣・木田左京亮が飯川肥前守等3人に「義綱亡命政府」に帰参するよう働きかけたところ、一旦は誓いの使者が義綱の下にやってきたが当人達はなかなか義綱の下に来住しなかった。飯川肥前守らの来附は越中一向一揆の斡旋により「帰参」が実現し解決するが、これを表して東四柳氏は「義胤陣営の統率力の低下には、衰亡著しいものがある。」(注9)と指摘している。

 その衰亡する理由として、(D)が考えられる。この文書には湯山城の攻略という言葉も出ている。湯山城は富山の氷見にあり、八代氏の拠点となっていたと考えられる。1569(永禄12)年に鶏塚の合戦で挙兵した八代俊盛との義綱政権への関連もうかがえる。しかし、この古文書は上杉謙信が七尾城方(畠山義慶方)に宛てた文書であるが、「可懇意心中ニ候間、同意肝心候。」とあり、上杉方から義慶方への接近がうかがわれる文書である。上杉謙信にとって畠山義綱は能登に復帰する可能性が極めて低くなった利用価値の低い人物と思われたのではなかろうか。過去の能登を追われた反主流派勢力は、加賀の本願寺勢力に頼るか、越後の上杉勢力に頼るかであった。「義綱亡命政府」にとってこの両者から見捨てられたという状況はかなりの痛手になったと思われる。
 
 晩年の「義綱亡命政府」の状況を東四柳史明氏は飯川一族を中心に小勢力を擁し、永光寺も密かに援助を送り、越中の一揆に頼る状況であるとしている。まさに細々と営業を続けている状況である。しかし、将軍権力が崩壊し権威を頼る事も出来ず、能登周囲の勢力との協力が絶望的な上、近江六角氏の崩壊、前述のように朝廷も義慶方に近い存在となれば、「義綱亡命政府」の構成員のモチベーションは地に落ちているも同然である。おそらくこの頃でも「義綱亡命政府」にいる人々のほとんどは、義綱個人との信頼関係で付き従っているのか、義慶方に復帰することが叶わない人たちで構成されていたのではなかろうか。1574(天正4)年に能登国羽咋郡押水覚乗坊(光専寺)充の文書を最後に、義綱の消息が知られなくなる。おそらく、「義綱亡命政府」が実質的に解体し、義綱の公式的な行動もほとんど無くなった為であろう。

 (D)「歴史古案」
申越、神保色々被歎候間、不図出馬、十七日神通越河、十九三日之内敵地悉落居、内々守山・湯山可落処六同(道)寺断而水増故、于今不候。於時宣者可心安候。被入心飛脚早々喜悦候。可懇意心中ニ候間、同意肝心候。恐々謹言。
  三月二十日(元亀二年)   謙信
  温井兵庫助(景隆)殿
  長九郎左衛門(綱連)殿
  平新左衛門(尭知)殿
  遊佐孫太郎(盛光)殿
謙信が越中に進出した事を畠山重臣に知らせた文書。

むすびに
 これまで、義綱個人の立場、能登御入国の乱で間接的に「義綱亡命政府」について語られていたが、「義綱亡命政府」が将軍権力や朝廷などの伝統的上位権威者の権威や周囲の軍事力に依存していた事。同政府の組織は基本的に旧義綱政権を継承した内容であった事。等同政府における政治的・組織的性格を多少明かにすることが出来た。しかし、曲直瀬道三や義昭・信長との関係について等、まだ全体的に大雑把な把握しかしていない感は否めない。今後、より深く掘り下げて「義綱亡命政府」の考察を試みたいと思う。

(注釈)
(注1)
東四柳史明「畠山義綱考-能登畠山氏末期の領国制-」(『国史学』88号.1972年)
(注2)
宮本義己「畠山義綱と医道伝授(一)」「畠山義綱と医道伝授(ニ)」(『日本医史学雑誌』18巻,19巻,1972.1973)
(注3)
(注1)論文
(注4)
山田康弘氏は論文の中で「内部造反者はこのような京都を本拠地としていれば、物品の流通を通じてもたらされる全国規模の豊富な情報をいち早く入手し、連携する大名をより多角的に探索することが可能となった」ということからも、義綱=内部造反者(義慶政権に対峙すると言う意味で)と考えれば、その基盤を近畿に置いた理由が納得できる。つまり、六角氏の援助を最大限受け、且つ京都に程近い位置で他勢力との連携を模索するためには、六角氏の本拠地近江坂本が最適と義綱は判断したのであろう。義綱が本願寺に合力を拒否されたのであれば最良の判断であろう。
(注5)
東四柳史明「畠山義綱考」35頁、「義綱の入国を支援する能登での在地勢力の存在を知らせる。」
(注6)
東四柳史明「戦国期の能登畠山氏と五山叢林搭頭」(『北陸史学』26号.1977年)
(注6)さらに義綱は、足利義昭との交渉だけでなく、織田信長と連携し自らの後援をしてもらうことに、もうひとつの目的があったのであろう。
(注8)筆者コンテンツ畠山義慶特集参照
(注9)能登御入国の乱に関しては筆者コンテンツ能登御入国の乱参照。
(注10)(注1)論文

参考文献
高井勝己『能登奥郡の山城』(自費出版).1997年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号,1972年
東四柳史明「戦国期の能登畠山氏と五山巖林の台頭」『北陸史学』26号.1977年
宮本義己「畠山義綱と医道伝授(上)」『日本医史学雑誌』18巻.1972年
宮本義己「畠山義綱と医道伝授(下)」」『日本医史学雑誌』19巻.1973年
『輪島市史 資料編』輪島市.1974年
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義綱公式見解「義綱亡命政府は伝統的権威者の権威頼みであった。」

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