畠山義慶軍VS八代俊盛軍
畠山義慶軍 | 八代俊盛軍 | |
勝敗 | WIN | LOSE |
兵力 | 四千人以上 下の史料(B)より |
三千人程?(注1) |
主力 | 長続連 長綱連 温井景隆 三宅長盛 松波常重 松波義行(ヵ) 松波隠岐(ヵ) 杉山則直 山本与次郎 |
八代俊盛→自害 八代外記→自害 (八代肥後) (八代主水) |
●経過
ちぇっくぽいんと!
鶏塚の合戦を示した直接示した古文書は無い。そのほとんどは「長家家譜」などの軍記物に依拠している状態である。それらをここで紹介する。
−−。永禄十二年十一月畠山家八代安芸、同外記、義隆に相叛隠謀を企、先主義則を越中より迎へ能州鶏塚に屯し敵対す。 前年温井景隆、三宅長盛、綱連公を奉レ頼帰参之赦宥を請ふ。依之其旨屋形へ被レ達、即許容有レ之両人共帰参す。先知なればとて八代安芸之三千貫之領邑を温井に与へ、八代へは易田を与ふるに、安芸不レ応ニ其命一屋形に背、先君義則を迎へ鶏塚に兵士を催し聚て乱を起す。依レ之続連公及杉山則直、飯川義実七尾城を御守衛有レ之(中略)依レ之同晦日綱連公四千余之人数を率、孝恩寺様並温井備中景隆、三宅備後長盛、松波常陸義智、同丹羽、同隠岐(注2)等随兵たり。鶏塚へ押詰攻破らる。八代父子戦力尽、自殺す。一説、安芸病中故自殺し、外記は戦死す。安芸弟肥後、主水、義則と共に越中へ遁去。 |
永禄十一年温井景隆・三宅長盛、義隆ニ請テ復士ス(ニ士ノ七尾ヲ去、天文二十年ナリ)。此時先知ナレバトテ八代安藝ノ三千貫ノ采邑ヲ温井ニ与ヘ、八代ヘハ易田ヲ与ヘラル。 八代其命ニ応ゼズ、ニ士交々領地ヲ争フ。十二年、八代、義則ヲ越中ヨリ迎テ鶏塚ニ(七尾城山ノ辺リ)兵ヲ屯メ義隆ニ背ク。因テ十一月晦日長谷部綱連兵ヲ駆テ人数四千鶏塚ニ進ミ戦フ。八代父子戦力尽キ是ニ自殺ス。 一本ニ八代安藝ハ病中ユヘ自尽シ外記ハ戦死ス。安藝弟肥後、同主水、義則トモニ越中ヘ退ク。外記妻ハ長綱連ノ女荘士虎若ナル者ヲ取返サシム。后虎若、木島小助ト云、是ヨリ長ノ臣ニ列ス。 |
同(永禄)十二年 一 同國(能州)鶏塚城八代安藝守落城。越中ノ住人也。 |
同(永禄)十二年遂背義隆、召先主義則於越中、而築城鶏塚、而催促軍勢矣。於此九郎左衛門・杉山伯耆・孝恩寺其外義隆家臣温井・三宅等囲鶏塚之城而抜之。安藝自殺其親族皆出亡矣。 |
去晦日於二留雲首一最前責上、能矢仕、被二鑓疵一ヶ所矢手一ヶ所一、粉骨之働無二比類一、誠神妙之至候。弥可レ励二忠節一事専一候。恐々。
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これが、鶏塚の合戦を残す文献である。史料(A)〜(D)は後世に成立した軍記物であり、そのため疑問点も多い。まず、「義則」=畠山義綱だとすると、1568(永禄11)年の能登御入国の乱に続いて能登に入国を図ったことになる。ただ、1568年の能登入国際は、本願寺や上杉謙信、寺社勢力に義綱や徳祐(義綱の父)が協力要請や入国が近いことを報じているのに対して、1569(永禄12)年にはその史料は一切見当たらない。これは一体どういうことか。おそらく義綱勢力は1569年には能登入国策戦を展開して無いと考えられる。
「長家家譜」など後世軍記物資料では畠山義綱を史実より評価を落として自家(長家)の正当性をアピールして記載していることはすでに明らかにしている(詳しくは畠山義綱特集参照)。つまり、長家は主君を追放したという事実を隠すために、「義綱の素行が悪い」と記載しているのである。そこで、鶏塚の合戦において八代俊盛と義綱を関連させて記載しているのは、八代氏の反乱を義綱勢力と同一視させ、自勢力の合戦における正当性を表しているのではないかと私は推測する。それゆえ、事実は八代氏及びその周辺武将での挙兵であって、畠山義綱とは無関係なのではないのかと考えられる。
一方で坂下喜久治氏はその著書『七尾城と小丸山城』(北國新聞社出版局,2005年)で古文書(E)の年次を1569(永禄12)年と紹介し「畠山義胤(義綱)が再度能登入国計策を実行したことは、長九郎左衛門尉続連が郎党の山本与次郎に与えた次の軍忠感書で明らかである。」としている。しかし、この書状の年次が本当に1569(永禄12)年のものだとしても、この古文書は戦がその年にあったことを示すのみで、『長家家譜』などの軍記物史料を全面的に信用しなければ義綱の能登奪回計画と同一歩調を取って八代俊盛が挙兵したとは言い難い。
ただ、鶏塚の合戦の存在自体が無いものとするのは早計である。八代俊盛は、1567(永禄10)年に畠山の実力者として長続連や遊佐続光とともに連署状を発給している。しかし、1571(元亀2)年に上杉謙信から越中進出の報を受けた時、長綱連(続連子)、遊佐盛光(続光の子)、温井景隆、平尭知が宛名に見えるのに、八代俊盛あるいはその子外記の名が見えないことは、すでに没落または死去しているとみることが出来よう。いずれにしろ、温井の旧領を得ていた八代氏にとって、温井景隆の復帰は死活問題であったのであろう事から、この合戦の存在自体はおおよそ肯定されても良いのではないかと思う。
(注釈)
(注1)八代軍の兵力を三千人程とするのは、片岡樹裏人『七尾城の歴史』147頁「八代の兵力は不明であるが、少なくとも三千を下らなかったと考えられる。」としている。何を根拠に「三千」としたかは明示されていないが、参考の為ここに記した。
(注2)「義智」は「常重」の誤りだと考えられる。また、「丹羽」は松波丹波守、義行「隠岐」は畠山隠岐守義季とも思われる。
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