鶏塚の合戦
[1569年]

畠山義慶軍VS八代俊盛軍

●原因
 弘治の内乱で義綱軍の主力となり、義綱の信任を得て反乱軍温井氏の旧領を与えられた八代俊盛永禄九年の政変長続連遊佐続光とともに実力者となった身であったが、義慶政権において温井景隆が帰参を許されると、温井氏は旧領を回復を企て、八代の畠山家中での地位は一挙に危うくなった。その為、1569(永禄12)年11月に鶏塚において挙兵した。形の上では義慶政権に対する謀反ではあるが、長続連遊佐続光温井景隆等の政策に反発した重臣同士の権力闘争での挙兵であると言える。
畠山義慶軍 八代俊盛軍
勝敗 WIN LOSE
兵力 四千人以上
下の史料(B)より
三千人程?(注1)
主力 長続連
長綱連
温井景隆
三宅長盛
松波常重
松波義行(ヵ)
松波隠岐(ヵ)
杉山則直
山本与次郎
八代俊盛→自害
八代外記→自害
(八代肥後)
(八代主水)

●経過    

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 鶏塚の合戦を示した直接示した古文書は無い。そのほとんどは「長家家譜」などの軍記物に依拠している状態である。それらをここで紹介する。

史料(A)「長家家譜第二巻抄録」
−−。永禄十二年十一月畠山家八代安芸、同外記、義隆に相叛隠謀を企、先主義則を越中より迎へ能州鶏塚に屯し敵対す。
 前年温井景隆、三宅長盛、綱連公を奉頼帰参之赦宥を請ふ。依之其旨屋形へ被達、即許容有之両人共帰参す。先知なればとて八代安芸之三千貫之領邑を温井に与へ、八代へは易田を与ふるに、安芸不其命屋形に背、先君義則を迎へ鶏塚に兵士を催し聚て乱を起す。依之続連公及杉山則直、飯川義実七尾城を御守衛有之(中略)依之同晦日綱連公四千余之人数を率、孝恩寺様並温井備中景隆、三宅備後長盛、松波常陸義智、同丹羽、同隠岐(注2)等随兵たり。鶏塚へ押詰攻破らる。八代父子戦力尽、自殺す。一説、安芸病中故自殺し、外記は戦死す。安芸弟肥後、主水、義則と共に越中へ遁去。
(注2)は筆者注

史料(B)「長臣大系図一五・木島平兵衛」
 永禄十一年温井景隆・三宅長盛、義隆ニ請テ復士ス(ニ士ノ七尾ヲ去、天文二十年ナリ)。此時先知ナレバトテ八代安藝ノ三千貫ノ采邑ヲ温井ニ与ヘ、八代ヘハ易田ヲ与ヘラル。
 八代其命ニ応ゼズ、ニ士交々領地ヲ争フ。十二年、八代、義則ヲ越中ヨリ迎テ鶏塚ニ(七尾城山ノ辺リ)兵ヲ屯メ義隆ニ背ク。因テ十一月晦日長谷部綱連兵ヲ駆テ人数四千鶏塚ニ進ミ戦フ。八代父子戦力尽キ是ニ自殺ス。
 一本ニ八代安藝ハ病中ユヘ自尽シ外記ハ戦死ス。安藝弟肥後、同主水、義則トモニ越中ヘ退ク。外記妻ハ長綱連ノ女荘士虎若ナル者ヲ取返サシム。后虎若、木島小助ト云、是ヨリ長ノ臣ニ列ス。

史料(C)「如菴様御合戦場之事」
同(永禄)十二年
一 同國(能州)鶏塚城八代安藝守落城。越中ノ住人也。
 
史料(D)「長續連並如庵事跡」
 同(永禄)十二年遂背義隆、召先主義則於越中、而築城鶏塚、而催促軍勢矣。於此九郎左衛門・杉山伯耆・孝恩寺其外義隆家臣温井・三宅等囲鶏塚之城而抜之。安藝自殺其親族皆出亡矣。

古文書(E)長続連軍忠感書 「山本文書」
去晦日於留雲首最前責上、能矢仕、被鑓疵一ヶ所矢手一ヶ所、粉骨之働無比類、誠神妙之至候。弥可忠節事専一候。恐々。
(永禄十二年) 十二月五日  長九郎左衛門尉
 山本与次郎殿   続連(花押)

これが、鶏塚の合戦を残す文献である。史料(A)〜(D)は後世に成立した軍記物であり、そのため疑問点も多い。まず、「義則」=畠山義綱だとすると、1568(永禄11)年の能登御入国の乱に続いて能登に入国を図ったことになる。ただ、1568年の能登入国際は、本願寺や上杉謙信、寺社勢力に義綱や徳祐(義綱の父)が協力要請や入国が近いことを報じているのに対して、1569(永禄12)年にはその史料は一切見当たらない。これは一体どういうことか。おそらく義綱勢力は1569年には能登入国策戦を展開して無いと考えられる。
 「長家家譜」など後世軍記物資料では畠山義綱を史実より評価を落として自家(長家)の正当性をアピールして記載していることはすでに明らかにしている(詳しくは畠山義綱特集参照)。つまり、長家は主君を追放したという事実を隠すために、「義綱の素行が悪い」と記載しているのである。そこで、鶏塚の合戦において八代俊盛と義綱を関連させて記載しているのは、八代氏の反乱を義綱勢力と同一視させ、自勢力の合戦における正当性を表しているのではないかと私は推測する。それゆえ、事実は八代氏及びその周辺武将での挙兵であって、畠山義綱とは無関係なのではないのかと考えられる。
 一方で坂下喜久治氏はその著書『七尾城と小丸山城』(北國新聞社出版局,2005年)で古文書(E)の年次を1569(永禄12)年と紹介し「畠山義胤(義綱)が再度能登入国計策を実行したことは、長九郎左衛門尉続連が郎党の山本与次郎に与えた次の軍忠感書で明らかである。」としている。しかし、この書状の年次が本当に1569(永禄12)年のものだとしても、この古文書は戦がその年にあったことを示すのみで、『長家家譜』などの軍記物史料を全面的に信用しなければ義綱の能登奪回計画と同一歩調を取って八代俊盛が挙兵したとは言い難い。
 ただ、鶏塚の合戦の存在自体が無いものとするのは早計である。八代俊盛は、1567(永禄10)年に畠山の実力者として長続連遊佐続光とともに連署状を発給している。しかし、1571(元亀2)年に上杉謙信から越中進出の報を受けた時、長綱連(続連子)、遊佐盛光(続光の子)、温井景隆、平尭知が宛名に見えるのに、八代俊盛あるいはその子外記の名が見えないことは、すでに没落または死去しているとみることが出来よう。いずれにしろ、温井の旧領を得ていた八代氏にとって、温井景隆の復帰は死活問題であったのであろう事から、この合戦の存在自体はおおよそ肯定されても良いのではないかと思う。

●合戦の影響
 永禄九年の政変後の義慶政権では、同政変での実行者、長続連遊佐続光八代俊盛等が家中の実権を握っていた。しかし、畠山義綱能登御入国の乱の当初の勢いに押されて、弘治の内乱で本願寺など協力関係を築き、義綱方に本願寺勢力が合力しない下地を作った事になる温井氏(温井景隆)の地位が相対的に高まった(詳しくは畠山家晩年における政治体制の一考察参照)。それによって、八代氏の地位が低下し、俊盛・外記父子は反乱を起こし、失脚したのである。その後、義慶政権は長続連遊佐続光温井景隆の三大派閥によって支配されるようになるのである。

(注釈)
(注1)八代軍の兵力を三千人程とするのは、片岡樹裏人『七尾城の歴史』147頁「八代の兵力は不明であるが、少なくとも三千を下らなかったと考えられる。」としている。何を根拠に「三千」としたかは明示されていないが、参考の為ここに記した。
(注2)「義智」は「常重」の誤りだと考えられる。また、「丹羽」は松波丹波守、義行「隠岐」は畠山隠岐守義季とも思われる。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城歴史刊行会,1968年
氷見市立博物館(編)『戦国・氷見』氷見市立博物館,1999年
横澤信生「越中八代氏附屋代師国」『富山史壇』117号,1995年
etc・・・。

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