↑畠山義春イメージ像(畠山義綱画)
初名義春。政繁。仮名弥五郎。民部少輔。入道して宜順斎入庵。畠山義続の子で義綱の弟である。義春は畠山−上杉同盟の為の人質として越後に送られた。越後では謙信の命によって上条家の養嗣子となり「上条政繁」と改名する。しかし、上杉家の景勝・景虎の家督継承争い(いわゆる御館の乱)で景虎方につき敗北。その後、豊臣秀吉−徳川家康に仕え、畠山姓に復した。政繁の子は江戸幕府の高家となり畠山家の家名は存続した。 |
戦武堂様に「畠山義春(上条政繁)」の詳しい情報をご教授頂きました。そのメールを許可を得てアップします。
能登畠山家滅亡以後の事や畠山政繁の子孫のことも詳しく書いてありますのでぜひご覧下さい。
(以下戦武堂さん著作→以下転載絶対不可←)
畠山政繁(1545-1643)の軌跡
初名義春。弥五郎。民部少輔。宜順斎入庵と号す。母は不明。妻は長尾越前守政景の娘(上杉景勝の妹)。
天文二十二年(1553)、上杉氏の人質ととして越後に赴く。弘治二年(1556)、上杉謙信の養子となり上杉姓を称すが、元亀二年(1571)、上条定春の養嗣子となり上条姓を称し政繁と改名。以後、謙信に従い数々の戦功を挙げ、天正三年
(1575) の『上杉氏軍役帳』によれば軍役九十六人を負担し上杉一門四位に列す。同六年(1578)
、謙信が死去し、謙信の養子景勝と景虎の間で御家騒動(御館の乱)が起きると景勝側に属す。同十二年(1584)、景勝より信濃国川中島に領地を与えられ海津城に住す。のち景勝と信濃国内の統治を巡って対立。景勝の重臣直江兼続に讒言されたため、同十四年(1586)七月、越後国を出奔。京に赴き豊臣秀吉に訴えるが、秀吉に仲裁を命じられた石田三成が兼続と昵懇だったため叶わず、そのまま秀吉に仕える。同十五年(1587)十月二日、秀吉より河内国高安郡内に五百石を与えられ、同十八年(1590)九月二十五日、摂津国豊嶋郡内に三百石、文禄二年(1593)十一月三日に河内国交野郡内に七百石を加増される。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、小山で福島正則、加藤嘉明等との相談のうえ徳川家康の麾下に入る。のち家康の命で畠山姓に復す。関ヶ原の戦後、大坂城に入っていたようだが、片桐且元の大坂退城の際、行動をともにしたという。大阪の陣の際、家康より二条城に召され謙信流の軍法を言上したという。寛永二十年(1643)八月十三日、京において死去。享年九十九(一説に八十一)。法名奥松院殿入庵宗波(破とも)大居士。紫野大徳寺興臨院に葬られる。
畠山政繁の子孫
戦武堂さん有難うございました。上条政繁のことと、その子孫のことが良く分かります。「上条政繁」といえば「畠山義春」との別人説が今福匡氏の「戦国期上杉上条氏の実相」(『歴史研究』466号、2000年)という論文にて発表されました。今福氏によると、能登畠山家(義綱の次男)から来た「弥五郎義春」と「宜順政繁」は別人で、弥五郎義春は宜順政繁の陽氏になったとしている。今福氏は義春の生没年を(1563〜1643)とし、政繁の生没年を不詳としています。
Copyright:2006 by senbudo -All Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama