能登畠山家の治世下の逸話・伝説

  1. 七尾城にまつわる逸話〜白米伝説〜
  2. 天堂城落城にまつわる埋蔵金伝説
  3. 勢至様の伝説〜金蔵(輪島市)の全村焼き打ち〜
  4. 『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)にみえる中世能登の伝説

七尾城にまつわる逸話〜白米伝説〜

(1)能登に伝わる白米伝説
 1577(天正5)年、能登畠山家は上杉謙信の侵攻を受け、七尾城攻防戦が繰り広げられた。謙信の侵攻も2年目に入り、石動山城を築城し畠山家を兵糧攻めに入っていた。折しもその年9月 、七尾城中で疫病が発生し城主の畠山春王丸はじめ多くの城兵が死去していたときで ある。その謙信の七尾城攻めに白米伝説という逸話が残っている。
 謙信は堅固な七尾城を攻略するには水攻めしかないと考え、水源を断つ作戦に入った。しばらくして、もはや城中に水はないだろうと思って様子をみると三 の丸あたりになんと滝が見えたのである。こんなに水が豊富であればもはや攻めきれないと思い馬を引き返そうとした。その時、滝に群がる鳥をみた。そこで謙信は「水のかわりに、白米を流していたのだ。鳥が群がっているのは白米だから だ。」とこの作戦を見破り、七尾城を陥落させたのというのである。

(2)不合理な点 
 篭城にともなう白米伝説は全国各地にある。また、この伝説の反論として『戦国史事典』(桑田忠親監修)で「戦国時代には白米を常食としていなかったし 、かりに白米を流して滝にみせかけようとしても、多量の米が必要である。落城 の理由には食料が欠乏した例が多いので白米を水にみせかけて流したとは、とて も考えられない。後世の人達がつくった伝説である。」と述べている。どうやら 、素人が考えたただの伝説らしい。しかし、七尾城には、山城という観点を生か した篭城に適した条件がいくつも揃っている。ひとつは城が山全体を含む巨大な 複合城であり、狩りなどをすれば比較的食料補給ができたのではないかと考える 。また、七尾城には長続連が整備したといわれる水路があり比較的水の供給も苦 労しなかったと思われる。いずれにしてもこの逸話は事実とは違いそうである。このことからわかる事は、謙信が兵糧攻めで陣取っていたところは、七尾城全体が見渡せるような少し遠い位置にいたのではないかというくらいである。

参考文献
桑田忠親(編)『戦国史事典』秋田書店,1980年
七尾市観光協会『七尾市ものしりガイド観光100問百答』斎藤印刷出版,1987年

天堂城落城にまつわる蔵金伝説

(1)弘治の内乱と天堂城
 天堂城と言えば温井氏の居城であるが、義綱による温井紹春(総貞)暗殺事件があり、その直後、長続連に天堂城を攻められ開城した。温井氏はその後、弘治の内乱などで義綱に反抗するが、口能登でせき止められ反乱軍(温井・三宅連合軍)は徐々に衰退していった。この紹春暗殺事件が起こった直後に、残った温井家臣等が義綱の軍が天堂城まで攻め込む事を察知して、それまで貯めておいた軍資金を天堂城の敷地のどこかに隠したのだと言うのが、この天堂城埋蔵金伝説である。

(2)本当にあるのか埋蔵金
 この話しを聞いて、実際に埋蔵金が眠っているとの場所を実際に掘った人がいるらしいが、何も出なかったらしい。温井紹春はそれまで、畠山家家中での随一の実力者であり、独楽邸を建立したり三条西実隆と交流したりと資金力があるのは間違いない。しかし、だからといって、大名である畠山義総から受け継いだ莫大な遺産があると思われる義続にはかなわないと考えられるし、温井氏の軍資金がすべて天堂城に集中していたとも思えない。それなら、謙信の侵攻時の七尾城に埋蔵金話しがあった方がよっぽど信憑性があると思う。埋蔵金の話しが全くの嘘だとは言わないが、結局これも後世の人々が考えた逸話なのではないのか。


勢至様の伝説〜金蔵(輪島市)の全村焼き打ち〜

(1)全村焼き打ちをしたのは「上杉謙信」?それとも「畠山義総」?
 輪島市町野庄金蔵の地は、中世には千石在所で勢至様(勢至菩薩)の佛供田となっていた。それゆえ、勢至様を守る事を主とし、領主に年貢を納める事は無かったと言う。しかし、1577(天正5)年に上杉謙信が能登に侵攻すると、年貢を納めない金蔵に対し、「勢至菩薩を改めるから本陣に持参せよ」と命じて圧力をかけた。金蔵の領民は、拒否すれば禄高没収、さりとて勢至様は渡せないというジレンマに悩んだ結果、「在所に勢至様を御座らぬ」と返答した。それに怒った謙信は、金蔵寺住職を打ち首にした上、金蔵全村を焼き打ちしたという。
 能登に侵攻した謙信がいかに恐ろしかったかを伝える伝説であるが、郷土史家の井池光夫氏が指摘するように、不合理な点がある。それは、『町野村史』に、「大永七年ノ大火ニ於テ金蔵全字、兵燹ニ罹リ残ラズ消失ス」とある事である。大永7年といえば、1527年の頃であり、畠山義総の治世である。はたして、全村焼き打ちをしたのは、上杉謙信であろうか、それとも畠山義総であろうか。

(2)義総の荘園横領について
 ここに中世の金蔵を知るに重要な資料がある。足利義晴の将軍御内書である。

[御内書案」
分国能州町野庄事、大永七年以来無其沙汰云々、早可 進納儀可肝要、猶(大館)常興可申候也
 (天文五年)五月廿四日   (足利義晴)在判
 畠山修理大夫入道(義総)殿

 1527年以来年貢進納が無いと荘園領主の大館常興が将軍に畠山義総への催促を依頼したのであろう。つまりこれをみると、能登守護である畠山義総が町野庄(輪島市)の大館常興の荘園を横領している事が知られるのである。中世の町野庄は金蔵が中心であったという。それゆえこの時、おそらく義総の支配は、金蔵まで及んだに違いないと思われる(注1)。さて、注目すべきは義総が町野庄に実力を及ぼしたその時期である。御内書にも「大永七年以来」と書かれている。町野庄金蔵が焼き打ちされた年次と一致するのである。つまり、今まで年貢を納めなかった金蔵を実力行使(=全村焼き打ち)で支配したのに加え、町野庄自体を義総が横領したのではなかろうかと推測する。とすれば、やはり全村焼き打ちの犯人は「畠山義総」であろうと思われる。

 現在、金蔵では、この全村焼き打ちをしのび先人を供養するための、万灯会「一粒のともしび」(金蔵学校主催)を行っている。2002年では8月16日の夜に5000個の灯火が灯された(詳しくは「畠山関連NEWS」の平成14年8月22日更新を参照)。

(注釈)
(注1)義総は家督を継ぐと、遊佐嫡家を守護代から退けて安定した治世を作り上げた。それには、守護請の横領などで財源を確保していったことなどが理由の1つとして挙げられる。

参考文献
井池光夫「伝説から金蔵千石在所を思考」『能登の文化財』第31輯
『町野村誌』
輪島市史編纂専門委員会『輪島市史 資料編第三巻』1974年

『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)にみえる中世能登の伝説
(情報提供:畝源三郎様

(1)勝山城に関する伝説
 昔、(鹿島町)徳前の東馬場生まれの若者を奉公人として抱え、勝山の城跡へ遣わしたところ、白髪の老人が忽然として現われ「その方はここに来るべきものにあらず、早く帰れと厳しく叱責するので、奉公人は畏れ戦き一目散に逃げ帰ってきた。しかし、若者はその日から病を患い4、5日で死んでしまった。これは勝山城の戦いの際に、東馬場のある者が敵方に内通し城の模様を伝えた為、遂に城が陥落したという怨念の祟りであるといわれる。その後東馬場生まれの者は、同城跡へ誰一人として立ち寄る者がいないと言う。

(2)城山(七尾城跡)に関する伝説
 畠山氏の居城であった城山(七尾城跡)には、五月雨の降り注ぐ夜、斬りあう太刀の音、或いは弓弦の響き、甲冑の揺らぐ音が聞こえると言う。城と運命を共にして亡くなった将士の怨みによるものと言われ、武士で登山する者があれば、晴れた日も遂に雷雨となり、盛夏でも霰(あられ)を降らすと言い伝えられる。

(3)「牛裂の石」の伝説
 上杉勢は、石動山に一宿して、その夜未明頃から、ひた押しに一挙に七尾城を屠るような勢いであったが、畠山勢は夢にもそのようには考えていなかった。この時、石動山の幼児の中に梅丸というものがおった。七尾塗師町神明屋の次男で当年12歳になっていた。上杉方の計略を聞いて、何とかしてこれを味方に知らせようとして、夜中を冒して城山に注進した。明けがた山伝いに石動山へ帰る途中、図らずも上杉方に見つかり(七尾市の)多根(城山と石動山の間の山中にある)で牛裂きの刑(二頭の牛に片足ずつ縄で結び、二頭とも反対方向に走らせ、受刑者の体を裂くという残虐刑)に処せられたと言う。多根街道には、「牛裂の石」と云う石があり、今も梅丸の哀れを物語っている。


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