勝山城(勝山城址)
読み仮名 | かつやまじょう |
別名 | なし |
所在地 | 鹿島郡中能登町芹川 |
形式 | 山城 |
築城者 | 温井続宗ヵ |
築城年 | 弘治年間ヵ |
遺構 | 堀切、土塁など |
歴代城主 | 畠山氏→畠山晴俊→神保氏 |
交通 | JR二宮駅より車で20分 |
勝山城は全長800mに達する能登でも大きな規模の城である。『日本城郭大系』(新人物往来社)拠ると築城は1584(天正12)年とあるが、勝山城の初見は弘治年間である。畠山義綱に対して反乱を起こした温井続宗ら温井・三宅軍は加賀一向一揆の力を得て能登に侵攻した(弘治の内乱)。この内乱で口能登を占拠したに温井方(反乱軍)は、羽咋と七尾さらには荒山峠を挟んだ七尾と氷見に通ずる交通の要所である勝山を拠点としたものである(東四柳氏は「勝山城体制」と呼称している)。そのことから、勝山城は1555(弘治元)年〜1556(弘治2)年頃に温井方の中心人物・温井続宗が築城したとも考えられる。 この勝山城の縄張りは 、佐伯氏が著した「能州勝山城址について」(『石川考古学研究会々誌』41号)という論文で、この城が非常に特殊な郭配置をしていることを指摘している。すなわち、1番大きな主郭に対して大きな堀切を隔てた独立性の高い別の郭(仮に第2郭と称する)が存在しているのである。さらにこの第2郭には小郭群が備えられ家臣団が臨時に居住したのではないかと指摘する。このような配置では主郭に対して、第2郭に対する影響力は小さくなる。これはすなわち、主郭に温井方の傀儡大将である畠山晴俊が、そして、第2郭に温井方の実質大将である温井続宗が陣したのではないかと佐伯氏が指摘するものである。非常に興味深い知見である。また、この勝山城は北側の防備が甘く南側からの戦闘を想定して防御施設を配置しているので、 氷見からの攻撃に備えて作ったのではないかと推測している。とすれば、温井方は氷見・湯山城にいる義綱方・八代俊盛を警戒していいたのだろうか。実際、温井方は1557年6月俊盛が篭もる湯山城を陥落させている。 現在、勝山城跡はまったくといってよいほど整備されていない。中能登町の観光パンフレットには荒山城(近年綺麗に整備された)は掲載されているが、勝山城は載っていないくらいである。したがって本当に一部の城郭研究者が訪れるのみとなっている。わずかに町の設置した看板が立つが、勝山城に入ろうとしても、草が生い茂っているのと、切り立った崖で無理である。ぜひ、早期の整備と発掘調査を望みたい。 |
↑勝山城址付近の芹川交差点を富山側に曲がり2本目の角を右折すると勝山城につく。 |
↑勝山城周辺図。口能登と氷見への交通の要所である。 |
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↑城域のすぐ北側に家が建つ。 |
↑家と城の間に入ると、墓がある。勝山城域には険しくて登れそうもない。 |
↑看板の南側も切り立った崖が続く。堅固な勝山城。 |
↑城域のすぐ近くには川が流れる。流通に使ったものか。 |
↑看板の南側崖。 |
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