↑畠山晴俊イメージ像(畠山義綱画)
仮名は四郎。能登畠山氏の一族であるが系譜関係は不明。畠山駿河の子ともいわれる。 温井総貞を畠山義綱が殺害し、義綱に対する反乱として起こした弘治の内乱では、温井続宗に担がれ総大将となる。 反乱軍は弘治の内乱で「勝山城体制」などを確立し、領国支配の展開を図るが、のちに義綱の反撃にあい、1558年義綱軍に、 攻められ勝山城は落城、晴俊は討ち死にした。 |
晴俊政治活動ちぇっく!
晴俊は能登畠山家の人物としては珍しく甲斐の武田信玄と関係を持っている。これは、能登畠山氏が歴代越後の上杉(長尾)と懇意にしてきた事実と反する。これは能登畠山家中において晴俊が少数派だったこと表している。弘治の内乱にあたって実際に武田信玄と連絡を取り合っているが、これを考えると、以前にも少々連絡を取り合っていたものと推察できる。
これらの動きは明かに当時の当主・畠山義綱に対する謀反の動きである。1555(弘治元)年に父・総貞を殺された温井続宗は、
晴俊が義綱に対抗心を持っていたことと合わせて、晴俊と武田信玄のパイプを利用し武田の軍事援助を期待し、
晴俊を弘治の内乱の総大将に擁立したのではなかろうか。
弘治の内乱の総大将になった晴俊は、その占領地の主体者として、命令を下す地位にあるが、そのほとんどの命令は温井続宗が行っていた(注1)。下の文書A・文書Bを参照頂きたい。これは弘治の内乱において反乱軍(畠山晴俊等)が畠山方の湯山城を攻め落とし、その際に活躍した三引与八郎(鹿島郡三引保が本拠の国人)に対して、反乱軍中枢が感状を発行したものである。このふたつの文書から、畠山晴俊の地位と権力が「三引与八郎」に対する扱いでわかる。まず、文書Aの発給者が宛先を「三引与八郎とのへ」と表現したのに対し、文書Bでは「との」より格上の「殿」で対象者を表現し「三引与八郎殿」と記述している。すなわち、文書Aの発給者>文書Bの発給者という身分階級が読み取れる。つまり文書Aの発給者「畠山晴俊」が反乱軍の大将なのである。しかし一方、2つの感状は発行日が同じであり、また文言もほぼ一緒である。同じものなら普通はトップからだけの感状でいい。それを格下の者がわざわざ発給すると言うことは、文書Aの発給者の感状だけでは褒美の効果は薄く、文書Bの感状がなければ実質効果がないためである。この関係から、反乱軍内での実力関係が文書Aの発給者<文書Bの発給者となっている事を示す。すなわち、畠山晴俊は温井続宗・三宅綱広・神保綱誠の傀儡であったのである。
また、考古学の立場からも、佐伯哲也氏が「主郭と従郭の上下の差をあまり感じさせない勝山城の縄張りにつながった」と指摘し、勝山城の郭の配置から晴俊の権力の弱さを検証している(注2)。これらのことから事実上晴俊政権は続宗の傀儡政権であったと言って良い。晴俊が傀儡に甘んじた理由は、続宗から弘治の内乱終結後、能登守護就任を約束でもされていたからであろうか。
去二日、於湯山、無比類働、神妙候、弥可抽軍忠事肝要候、 穴賢々々 (弘治三年)六月七日 (畠山)晴俊(花押) 三引与八郎とのへ |
去二日、於湯山、無比類働、神妙候、弥可抽軍忠事肝要候、 謹言
|
晴俊出陣履歴ちぇっく!
勝山城体制の主体者である晴俊は、弘治の内乱で勝山城が陥落する1558(永禄元)年までほとんど戦闘に見られる資料に無い。これは、兵の指揮権が晴俊にあらず、温井続宗にあった事実を示すものであろう。
ちぇっくぽいんと!
晴俊の「晴」の字は当時の室町幕府将軍・足利義晴の偏諱と思われるが実証は無い。『戦国武士と文芸の研究』
191頁において著者・米原正義氏が、『幕府申次日記』天文十四年三月十三日条にみえる畠山四郎が晴俊と同一人物であるかどうか不明であるが、同一人物の可能性もあると指摘している。その文は以下の通りである。
一、御太刀一腰、御馬一匹、畠山四郎代替 一、同上、同人御字御礼 |
この畠山四郎は、これまで河内畠山氏の当主・畠山晴熈とし通説化されてきた。しかし、弓倉弘年氏が、この「四郎=晴熈とする決め手がない」(注3)とされた上で、米原氏が推測した通り、晴俊の「晴」が義晴の偏諱なら畠山四郎は畠山晴俊である可能性が高いのではないかとしている(注4)。
四郎=晴俊だとすると、上記相続を謝したことにどのような意味があるのだろうか。能登で1545(天文14)年といえば、畠山義総が死去した年である。前年の1544(天文13)年に越中で起こった神保氏と椎名氏の紛争を、義総の後継者である義続が調停している事から、畠山家中を程度取りしきっていたものと思われる。とすると、能登畠山家中で義続と晴俊の間の家督紛争が起こっていた事となる。もしもこれが事実とすれば、その後、弘治の内乱で反乱軍の総大将となったこと、甲斐の武田家と結んだ事(義続への対抗心から)ということも納得いく気がする。しかし、これは推測がほとんどで、これと言った決め手の資料がない。
一方、晴俊が畠山駿河の子とするのはどんな根拠であろうか。推測をしてみたい。仮に1545(天文14)年に能登畠山家の家督相続を将軍に願い出た畠山四郎を畠山晴俊だとすると、それだけ能登畠山家への家督に野心を燃やしているのに、1555(弘治元)年の弘治の内乱まで何も行動を起こさないのであろうか。例えば、1547(天文16)年に畠山駿河が一向一揆と結び能登に乱入した押水の合戦についてはどうであろうか。一向一揆と結んで畠山義続を倒そうとする動きは家督相続への絶好のチャンスであると言えるのに、主体的な行動を何一つ起こさなかったと考えられるであろうか。普通なら何かしらの行動を取るべきではなかろうか。例えば畠山駿河の軍に加勢するとか、もしくは畠山四郎晴俊が畠山駿河本人であったとい可能性も考えられるのではないか。将軍に家督相続を謝した1545(天文14)年時は、駿河守の官途が自称であったので、仮名の四郎であったと考えれば、畠山四郎と畠山駿河が同一人物である可能性も捨てきれない。また、晴俊=駿河だと仮定すれば押水の合戦で一向一揆と連携した関係から、弘治の内乱でも連携できる可能性もある。ただ、温井総貞が、押水の合戦で駿河守父子3人を討ち取ったとも言われているので(注5)、畠山駿河の死去を1547(天文16)年に求めるとすれば、晴俊は駿河の子であり、それゆえ弘治の内乱の総大将に担がれたという見方もできる。この推測から、晴俊=駿河の子という説もまんざら虚構ではないような気もしてくる。
☆参考資料(晴俊花押)
(注釈)
(注1)東四柳史明「能登弘治の内乱の基礎的考察」『国史学』122号.1984年
(注2)佐伯哲也「能州勝山城址について-能登国の大城郭に関する若干の考察-」『石川県考古学研究会々誌』41号.1998年
(注3)弓倉弘年「天文年間の畠山氏」『和歌山県史研究』16号.1989年
(注4) (A)が晴俊の事を示すとなると、晴熈が家督を継承年したという年月、1545(天文14)年3月13日を再考しなければならないであろう。
(注5)駿河守父子3人を討ち取りについて、これは総貞の誇張表現であるとも言われているので、実際は駿河は討ち取られず生きている可能性もある。
Copyright:2006 by yoshitsuna hatakeyama -All
Rights Reserved-
contents & HTML:yoshitsuna hatakeyama