湯山城(湯山城址)
<氷見市指定史跡>
読み仮名 | ゆやまじょう |
別名 | 森寺城、井口城、井山城 |
所在地 | 富山県氷見市森寺 |
形式 | 山城 |
築城者 | 畠山義統 |
築城年 | 16世紀初頭 |
遺構 | 郭、土塁、石垣、井戸跡、空堀 |
歴代城主 | 畠山氏(八代氏?)→長沢氏 |
交通 | JR氷見駅から「小滝」行バスで20分「森寺」下車。 JR氷見駅から車で森寺城駐車場まで約30分。 |
能登と越中を結ぶ荒山道の越中(氷見)側に建てられた城。南北1kmに及ぶ大規模な山城で、氷見市随一の規模である。道沿いに平坦な構造を持つことから、「戦闘用というよりも、多数の軍団を駐屯させる役割を担っていたと考えられる。」(『戦国・氷見』P13より)湯山城は以上のようなことから、越中進出を目指した能登畠山氏の拠点として位置付けられたと言える。この城は八代庄に作られた為、能登畠山氏と密接な関係にあった八代氏が、湯山城築城と同じに入場し、同城は畠山家に属した可能性が高い。それを示す例として、1557(弘治3)年6月弘治の内乱で反義綱派温井方と戦って湯山城は陥落している事実がある。その後、同城にいたと見られる八代俊盛は椎名氏の支援を得て七尾城に入城し義綱方の主力として戦っている。おそらく俊盛が椎名氏に支援を得たのは、湯山城が攻め落とされ陸路を通じて松倉城・椎名氏の下まで逃げた為であろう。 時代が下って1576(天正4)年、湯山城は謙信の能登侵攻において七尾城攻略の足掛かりとして上杉方の手に落ちたと考えられ、この時期に長沢筑前守が在城したと思われる。これが後世誤伝されて森寺城(湯山城)主が長沢氏と考えられているゆえんであると思われる。その後1585(天正13)年、越中は織田・豊臣・佐々氏の支配下に入り、豊臣秀吉の越中出陣で佐々成政が降伏し、同時期に湯山城も廃城となったと思われる。 現在の湯山城跡は、江戸時代以降麓の村の名から「森寺城跡」と呼ばれている(戦国期は森寺は使われず湯山城と呼称されている)。1997(平成9)年〜2001(平成13)年に行われた発掘調査で、石垣の構造や、埋め戻されていた空掘の存在や、土師器や中国製の陶器の白磁などの食器や燈明具が鉄釘などが出土している。また、城跡は地元の有志か門や塀を復元していようとしているのが見える。しかし、もうちょっと予算を多くして見栄えをよくできないものか。櫓はあんなに小さくないだろう…。 |
<★☆★湯山城址その他の写真★☆★>
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↑湯山城遠景 |
↑寺坂屋敷(城山駐車場) |
↑森寺城跡案内板 |
↑駐車場からの入口 |
↑道は整備されている。 |
↑牛ヶ窪 |
↑手作り櫓!? |
↑百間馬場 |
↑二の丸・本丸へ |
↑石垣跡 |
↑二の丸への門 |
↑二の丸。手前は井戸跡 |
↑本丸跡と石垣 |
↑逆の道から二の丸へ |
↑駐車場から右方向へ掘切 |
↑搦め手門 |
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