| 戦国大名の家臣団組織はどのようになっていたかを示す直接示す文書はなかなか存在しない。古文書などの発給文書から判断する必要があるが、史料的制約の多い守護大名ならそれを明らかにするのは中々難しい。ここでは、能登畠山家の家臣団とその家臣組織を、論文や古文書史料や後に編纂された資料(軍記物類)などから、断片的であるが論じてみたい。 |
(1)能登畠山氏と遊佐嫡家
| 能登畠山氏 | 遊佐氏 | その組織例 | |
| T期 | 畠山満慶 | 遊佐祐信(基光) | 在京守護代 |
| U期 | 畠山義忠・義統・義元・慶致 | 遊佐忠光・統秀 | 在国守護代 |
| V期 | 畠山義総 | 遊佐秀盛・秀頼 | 遊佐庶流の隆盛 |
| W期 | 畠山義続・義綱 | 遊佐続光 | 畠山七人衆 |
| X期 | 畠山義綱 | 義綱親政と奉行人 | |
| Y期 | 畠山義慶 | 四人衆(年寄衆) | |
| Z期 | 遊佐盛光 |
能登畠山の祖である初代畠山満慶は、当初将軍足利義満の逆鱗に触れた満家に代わって管領畠山家の家督を継承した人物であった。将軍義満の死後、家督を兄に返還し、その礼から兄から4ヶ国の分国のうち、能登一国を与えられて能登畠山氏が創設されたのである(詳しくは畠山家の出自・能登畠山家のおこり参照)。それゆえ、満慶と満家兄弟の連携は密で協力して幕閣に重きをなしていた。当然幕政に参加しているので、満慶も分国の能登に下ることはできず守護代として遊佐祐信(基光)を置いた(注1)。この祐信も在京していたため、小守護代(又守護代)として池田主計入道が能登に在国して実務にあたっていたようである。室町時代の守護大名は原則在京することになっており、分国の実務は守護代があたっていた。これは能登畠山家も例外ではなく、大名が深く幕政に関わって「在京」していたことから当然のごとく「在国」して実務を行う権力主体が必要であったのである。それがT・U期には「守護代」という権力主体であった。T期は守護代も在京していたので、遊佐の家臣が「分国支配」を担当してた。それがU期になって守護代である遊佐嫡家は「在国」して分国支配を展開している(詳しくは遊佐統秀特集参照)。
ただ、この守護代という職は室町幕府の崩壊過程にあって下剋上の一端をなすに役になった。というのも、「在京」している大名に代わり「在国」して家臣を従えているのだから、国内の被官や国人を掌握することができるからである。これが、室町時代にしばしば下剋上をもたらした要因であった。その転換点が3代当主畠山義統の頃である。従来「在京守護」であった能登畠山氏が、1467年に将軍家と管領畠山家の家督争いから始まった応仁の乱における政争から、義統は分国能登に下向し「在国守護」となった。この応仁の乱を契機として多くの大名は京都を離れたが、守護代にすでに権力を握られ帰国できずに、あるいはほとんどの権力を奪われた守護大名も多かった。だが、能登畠山家では帰国後も守護(畠山義統)−守護代(遊佐統秀)の体制が維持された。
しかしながら「在国守護」となったことで支配体制が少し変容している(詳しくは守護大名の「在京」と「在国」の意味するもの参照)。それまでは守護は「奉書」(主君の意思を奉じて側近が代理で発給する文書)で分国支配が展開された。しかし、義統の「在国」から「書き下し文書」(直接の命令)に変更となっている。当然、守護も守護代も「在国」しているので、守護代という「代理」という存在の必要性がなくなっている。その代わり家中の実務者としての立場で活動するゆえ、実質的にU期に「能登畠山氏の政治体制」は大きく変容していると言える。その際に遊佐統秀は特に守護家に対立する立場にはなかった事からこの両者は協力体制にあったといえる。ここに能登畠山氏は大名権力の支配強化に勤めることに成功したのである(注2)。
しかし、このU期の変容はこれだけに留まらなかった。畠山義統が死去し、畠山義元が家督を継いだ3年後の1500(明応9)年に、兄・義元と弟・慶致の対立が表面化し家臣もそれに従って義元派と慶致派に分かれていった。その後、兄・義元が没落し弟・慶致が家督を相続するいわゆる「明応九年の政変」が起こった。慶致が家督相続した背景には遊佐統秀の存在があった。ゆえに能登で完全に下剋上の可能性が排除されていなかったわけではなかった。しかし、この兄弟対立は、1506(永正3)年には和解し、1508(永禄5)年には、兄・義元が守護に還任し、弟・慶致が引退するというできごとが起こった。これには「中央政界の揺らぎ」が要因ではあったが(詳しくは畠山義元特集参照)、兄・義元が「在京」し中央政界とつなぎ、弟・慶致が「在国」で分国支配実務を行うという和解であったようで、一方の権力喪失を意味したものではなかった。ただその体制も長続きせず、1513(永正10)年に能登永正の内乱が起こる。この内乱の詳細はよくわかっていないが、その後の権力変遷から慶致が中心となった慶致派の反乱であったようだ。その反乱が抑えられ1515(永正12)年に畠山義総の家督相続となった。
V期になると、これまでにない能登畠山家の権力変容がおこった。すなわち7代当主畠山義総は「明応九年の政変」や能登永正の内乱を目の当たりにして育った経験から家中の統制を意識していたと思われる。そこで守護代家の遊佐嫡家の弱体化に着手した。例えば義総は家中の実務者に、守護代嫡家の遊佐美作守家ではなく、遊佐庶流である遊佐豊後守家の者(「秀」を通字とする遊佐秀盛と[守護代:1515-1521頃]、遊佐秀頼)を中心に据え、遊佐嫡家の弱体化を図った。さらに家臣団の権力バランスを取るために、能登の国人である輪島領主の温井孝宗を重用し、畠山家中の権力内部に温井氏の台頭を許すきっかけをつくった。その結果、分国支配の中枢から退けられた遊佐美作守家の人物である遊佐美作守総光の文書は珠洲の自領の統制にしか見いだせないほど、中心から外れた。このような権力バランスを保って家中を統制した時期がV期である。
しかし、1545(天文14)年に畠山義総が死去し、8代当主畠山義続が家督を継ぐと、V期のパワーバランスが崩壊していく。遊佐庶流の勢いが衰えて、再び遊佐美作守嫡家の遊佐美作守続光が権力奪還を目指して政治の表舞台に登場する。そして続光は義総政権で義総に重用されて政治の表舞台に登場した温井氏の領主・温井総貞と権力争いを始め、畠山家中の双璧をなすにいたったのである。さて、一旦没落したかに見えた遊佐美作守家が復活できた理由はなんであろうか。推論の域を出ないが、能登畠山氏は畿内から連れてきた遊佐を中心とする家柄と、温井氏を始めとする能登在来の国人勢力があった。一般の守護大名に見える権力構造は守護が連れてきた家臣団が領国支配を展開し、その領国の国人は半ば独立していた。しかし、V期によって能登畠山家中は、畿内からの家柄国と能登在来の国人が共存する形に変容した。それゆえ、多くの守護大名に見られる下剋上は乗り切ったと言えるが、「旧来勢力」(遊佐氏ら)と「新興勢力」(温井氏ら)のパワーバランスが生じてしまう。さらに複雑がするのは、その勢力がパワーバランスを維持するために、精力的に縁戚関係を結んで複雑化し、「旧来勢力」(遊佐氏ら)と「新興勢力」(温井氏ら)という枠組みに収まらなくなってしまった。その結果、W期になるとそのパワーバランスを守護勢力が統制することが難しくなったのではないかと考えられる。そして、その温井総貞と遊佐続光を中心とした政争がW期になって政治的内乱を生んでいくのである。
W期になると、義続政権期が重臣間のパワーバランスをうまく保てなかったことを理由に、重臣たちの団結が見られるようになる。その結果、遊佐氏と温井氏が共同して家臣団は影響力を保とうと守護権力に反抗する1550(天文19)年に七頭の乱が起こる。この乱の結果、有力家臣たちの年寄衆が合議体制を行い、大名権力を低下させる畠山七人衆が発足する。その反動で、今度は守護派と畠山七人衆派に家臣は割れ、畠山七人衆の分裂に端を発して、義綱政権期ではX期の義綱専制体制(詳しくは畠山義綱特集参照)が現出し、年寄衆の権力は抑えられ、守護の意を受けた奉行人の力が大きくなった。さらにそのX期の反動で、守護派(義綱派)と反義綱派(重臣派)に家中は再び分裂し亀裂を深め、1566(永禄9)年に永禄九年の政変が起こり、守護派の義綱らが排除され再び遊佐続光らの重臣らが権力を手中にしY期に変容していった。このY期の体制は、基本的にW期と同じように、年寄衆の権力が強いものであった。その中心は遊佐続光であったが、重臣間のパワーバランスは複雑化しており、それが晩年の能登畠山氏の深刻な路線対立のZ期につながった。
(2)重臣組織の伝承
畠山満慶が能登一国守護に任命され、1408(応永15)年に能登畠山氏が創設されると、満慶は畿内から管領畠山氏の譜代家臣である遊佐を始め、三宅・神保氏・平・佐脇・誉田らを能登に派遣した。その一方で、天野や温井などの能登在地の国人を被官にするなど積極的な支配体制を構築していった。
後記に編纂された資料によると、これらの家臣をこう分類している。天野氏、松波氏、河野氏、神保氏、三宅氏、笠松氏、土田氏、徳田氏、誉田氏を御屋形衆(おやかたしゅう)と呼び、古くから畠山氏と親近の家柄で別名じっこん衆とも呼ばれている。また、畠山八臣と呼ばれる家柄があり、そのうち遊佐氏、神保氏、平氏、本田氏を「畠山四臣」と呼びぶ。また、温井氏、三宅氏、甲斐庄氏、伊丹氏を「畠山四家」と呼ぶ。「畠山四臣」は譜代由緒の家柄で、「畠山四家」は家柄は古いが後に衰えた家か、新参で知行一千貫以上の重臣の家を指すと言い、主君を補佐し政治の実務にあたる「執事」という職はこの「畠山八臣」から選ばれたという。
確かに「甲斐庄駿河守家政」という人物が畠山義忠の「執事」になったと長家家譜などは伝えているが、政治の実務にあたっているはずの家政の発給文書は一枚も発見されていない。また、家柄は古いが後に衰えた家とする「畠山四家」のうち、温井氏には温井景隆が、三宅氏には三宅長盛が晩年の畠山家でも活躍が知られており(詳しくは畠山義慶特集参照)「後に衰えた家」とは言い難いのではないか。やはりこれは、江戸時代前田藩家臣として残った長家などが後世に書いた創作と言えるのではないかと思う。
(3)畠山七人衆
畠山七人衆は、8代当主畠山義続が家督を相続すると、前当主義総に重用された温井総貞と、義総に疎まれ抑圧されていた守護代嫡家の遊佐続光が台頭し双璧をなしたパワーバランスの結果生み出された1550(天文19)年に七頭の乱の結果に生まれた権力構造である。この二人は権力争いを展開し、その結果能登国内は激しい内乱状態となった。その混乱を解決すべく生み出された体制がこの「畠山七人衆」であった。これは、重臣たちの合議体制によって国政を運営するものであり、これによって重臣間(特に総貞と続光)の争いを収め、大名の権力を低下させるという効力をもっていた。ただ、畠山七人衆は1552(天文21)年〜1554(天文23)年までの第一期(第1次七人衆期)と、同年から1555(弘治元)年までの第二期(第2次七人衆期)に区別され、それぞれ構成員もその存在意義も異なっている。
しかし、その畠山七人衆体制も温井氏・三宅氏を能登から追放し、それらの反乱である弘治の内乱を鎮圧することに成功した畠山義綱による義綱専制体制によって終焉するのである(詳しくは畠山七人衆体制と権力闘争を参照)。
第1次七人衆(1552-1554)
温井総貞、長続連、三宅総広、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円、遊佐続光
重臣間の争いを収めるために生まれた七人衆。遊佐続光と温井総貞と外様ではあるが、強力な軍事力を有する長続連の3人が実力を持っていた。
第2次七人衆(1554-1555)
長続連、三宅総広、遊佐宗円、三宅綱賢、温井続宗、飯川光誠、神保総誠
総貞と続光の権力争いで起こった大槻一宮の合戦で、続光が敗退した為、総貞の主導で欠員を補充したものである。総貞自身は権力集中の批判を避けるため入道して紹春となったが、実権は依然として温井紹春(総貞)が握っており、事実上「総貞専制体制」と言える。
(4)天正期の能登畠山家臣団と気多大社の交名
畠山義慶政権は、1573(天正元)年に気多大社の摂社若宮神社を造営し完成させた。それゆえ、家臣団から志納料などの寄付が寄せられそれをまとめられた「天正元年大宮司宿祢旦那衆」が作られたのである。最初に出てくる畠山義慶などの人物は、社務奉行である寺岡紹経の名前があることから、気多社造営に関わった人物と考えられる。義慶の弟と言われる畠山義隆と思われる「二本松義有」が登場したり、西谷内畠山氏の人物である畠山将監がいたりするのが興味深い。
さて、次の「面々次第」は気多社に寄付をした面々であると思われる。ここで多額の寄付をした者を拾ってみると「遊佐美作守殿」(続光)が300、「三宅小三郎(宗隆)殿」が600、「長対馬守(続連)殿」が300、「温井備中守(景隆)殿」が1000が挙げられる。この遊佐、三宅、長、温井らは、義慶政権の中心人物であり寄付金も多額になったであろうことが推測される。また、「遊佐美作守殿」の寄付金の額を見ると、「他内百」という記述が見られる。これは「遊佐美作守家」の身内の人物で他に100寄付したということであろうことが推測でき、そうであれば、ここに記載されている面々はそれぞれ独立した家柄を持っていることになる。その考えに拠ると、遊佐氏については、嫡家である「遊佐美作守家」の他に「遊佐信濃守家」「遊佐左馬頭家」「遊佐豊後家」の3家の庶流家の存在がわかるのである。
文書に出てくる人物の官途から、この文書が作られたのは天文年間(義総か義続政権期)とする考え方もある。その考えに従えば、遊佐信濃守は「宗円」。温井備中守は「総貞」などと人物を時代に応じてあてはめることができる。しかし、確固たる証拠があるわけではない。また、義続政権期とすれば畠山義続は修理大夫の官途には見えないという点、義総政権期とすれば長続連が畠山家中に見えるはずがないという問題点もある。現状では、素直に「天正元年」と解釈する方がスムーズではなかろうか。
| (前欠) 能登衆 畠山修理大夫(義慶)殿 二本松(義有)殿 同将監殿 治部大夫殿 弥太郎殿 [不明] [不明] 同刑部少殿 吉見三郎殿 同七郎殿 西方殿 野間殿 寺岡(紹経)殿 面々次第 遊佐美作守殿 三百 他内百 神保宗左衛門尉殿 百 三宅備後守(長盛)殿 五十 遊佐信濃守殿 七十 伊丹宗右衛門尉殿 五十 平賀々守(尭知)殿 百五十 誉田遠江守殿 五十 三宅筑前守殿 五十 神保周防守殿 五十 三宅小三郎(宗隆)殿 六百 長対馬守(続連)殿 三百 温井備中守(景隆)殿 千 飯河若狭守殿 弐百 遊佐左馬頭殿 丗 隠岐豊前殿 七十 佐脇源左衛門尉殿 七十 松波常陸(義親)殿 弥郡丹後殿 丗 飯河左京殿 同肥前殿 三宅丹波守殿 五郎ゑもん殿 此三人 三十 同弾正殿 佐脇美濃守殿 徳田佐渡(秀章)殿 万行殿 圓山殿 小嶋殿 太田殿 武部殿 豊田殿 遊佐豊後殿 柳川殿 同十郎左衛門尉殿 土田殿 天野石見殿 深野殿 加治殿 高津殿 温井下総殿 同山城殿 下々有レ之 同五郎左衛門尉殿 同藤八郎殿 長名字 飯河名字 |
(5)家臣の家柄と出自
(注釈)
(注1)以後、基本的に遊佐美作守家が能登守護代嫡家の家柄として能登に影響を及ぼすことになる。また、祐信の実名は「基光」であり、この美作守家はその通字を「光」とした。
(注2)能登で守護代による下剋上が起こらなかった要因として考えられるのは、能登の治世を守護代に丸投げをしていたのではなく、色々と細かい指示を守護代に与えて分国に影響力を及ぼしていたという理由もあろう(詳しくは畠山満慶特集参照)。
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