西谷内城(西谷内城址)
↑西谷内城遠景(写真提供:熊木近隣住人様 転載厳禁)
読み仮名 | にしやちじょう |
別名 | 西谷城 |
所在地 | 七尾市中島町西谷内 |
形式 | 山城 |
築城者 | 国分氏(?) |
築城年 | 1430年ヵ |
遺構 | 郭、空掘、石垣 |
歴代城主 | 西谷内畠山氏(国分氏) |
交通 |
戦国期には畠山家の一族として畠山政栄などが城主と言われる。しかし、『日本城郭大系』によれば、
この城には国分氏が城主として在城していたという。国分氏は畠山氏西谷内の地頭として置いたという。また同書は国分氏の
実在性は高いというので、西谷内畠山氏は、その上の地位にいて、名目城主で在城していなかったのもしれない。 ただ、この城は城郭に詳しい高井勝己氏の御教授によると、西谷内城は室町様式の作りで、しかもかなりの規模である。従って鎌倉・南北朝の頃の吉見時代に築かれた可能性は否定され、温井の被官である国分氏が築城したには規模の問題で無理があるとし、畠山氏の居城であった可能性が高いとしている。となると、西谷内畠山氏の畠山政栄・政純が京都に在住した事実をあわせて考えると、城主は西谷内畠山氏で、その留守役として国分氏が在城したという推測もできると指摘している。また「館城としての西谷内城跡の各郭は、七尾城跡山麓に所在する主要居館と見られる郭群と比べても遜色ない規模と内容を有しており、城主やその後の改修者については慎重な検討を要する」と『石川県中世城館跡調査報告書U(能登T)』(石川県教育委員会発行、2004年、P.10より)と述べられており、軽々しく温井の一被官で一国人である国分氏の城であると結論する事はできないのである。 現在の西谷内城跡は、手入れが行き届いておらず雑草などが生い茂っている状況である。遺構として郭、堀跡、石垣跡が残っていると言われるが、現状ではなかなか確認が難しいとのこと。さらに、城跡を案内する看板などもないためなかなかこの城跡を発見するのは難しいかもしれない(熊木近隣住民様の情報より)。早期の整備が望まれる。 |
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(写真をクリックすると拡大できます) ↑西谷内城址への道 ※ここから左へ数十メートル先が西谷内城跡 (写真提供:熊木近隣住人様 転載厳禁) |
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