松波城(松波城址)
<石川県指定史跡>
↑畠山一清氏が書いた「松波城址」の石碑が建つ
読み仮名 | まつなみじょう |
別名 | なし |
所在地 | 鳳珠郡能登町字松波 |
形式 | 山城 |
築城者 | 畠山義智 |
築城年 | 1474年(文明6)<文明2年着工> |
遺構 | 枯山水の庭園(県指定史跡)、堀切、景勝台 |
歴代城主 | 松波畠山氏(→上杉氏→前田氏→廃城) |
交通 | のと鉄道松波駅から徒歩25分 |
資料館 | 松波城跡情報館(旧松波駅舎) |
備考 | 本丸跡に石碑が建つ |
松波城は1470(文明2)年着工し1474(文明6)年に完成したとされる。築城の命令を出したのは能登畠山3代当主・畠山義統と言われ、能登畠山氏の奥能登の拠点として築いたと言われている。そして、1474(文明6)年畠山義統の三男・義智が松波に入部して自ら松波畠山氏の祖となり以後100年近く同地を領した。このような立場から、松波城は能登畠山氏の本城である七尾城の支城的役割を担うことになり、能登畠山一門の城・城下町ということで、相応の発展を見せたようだ。 松波城跡で注目されるのは、室町様式の枯山水の庭園跡である。この庭園跡は庭園跡は1962(昭和37)年に発見され、1980(昭和55)年の発掘調査で明らかになった。この庭園跡では渓谷をかたどった石組の間に小石を敷き詰めており流水を表している。2007(平成19)年の発掘調査では、礎石や柱穴、庭園には使われなかった石が残る土坑などが新たに発見された。2010(平成22)年の調査で、庭園跡に近い建物周辺から、16世紀前半までの珠洲焼や信楽焼の破片が出土し、造営時期は16世紀前半と推定された。最近、大内氏館庭園跡や江馬氏館庭園跡など、守護や国人領主の館跡などから数多くの遺跡庭園が発掘されている。庭園を眺めながら会所で外来者をもてなすというのが、一般的な使われ方であろう。それらの庭園は京都の室町御所などの形式を模倣したものである。しかし、その武将庭園でも枯山水を伴う庭園は、大内氏館庭園跡と高梨氏館庭園跡とこの松波城庭園跡の現状では3ヶ所である。いずれも16世紀以降作られた庭園にみられる形であり、16世紀以降の庭園のトレンドが枯山水であったのであろうか。 現在、松波城址公園として整備されている。松波城跡には畠山一清氏が書いた「松波城址」という石碑があるので(「七尾城址」にも一清氏が書いた石碑がある)、ここが観光スポットとなっている。しかし、「松波城址」石碑がある場所が本丸跡ではなく、枯山水を通ると城風(?)トイレのある広い郭が本丸跡である。ここには、「松波城本丸跡」の石柱が建っている。本丸跡には今は使われていないらしい柔剣道を行う畠山武道館など歴史とは全く関係なさそうな施設が合計3件ある。また、のと鉄道の鉄道路線敷設のため城跡が一部削られており淋しさを感じる。さらにその鉄道が廃線になったのでさらに淋しい。発掘された枯山水も現在は下記写真のように埋め戻され、同地に立っている看板でしか見られないが、2018(平成30)年度までには、遺構整備されまた松波城址公園の全体の整備を完了する方針と言う。 廃線になったのと鉄道能登線の旧松波駅舎に2007(平成22)年「松波城跡情報館」がオープンしている。入館料無料なので、ぜひそちらにも立ち寄ってみたい(詳しくは能登町の史跡巡り参照)。 |
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(注釈)
(注1)庭園跡の看板には「指定年日:平成3年2月6日 所在地:石川県鳳珠郡能登町字松波ラ字1番の1 面積:1300u 所有者:能登町 管理者:能登町 松波城跡庭園跡は、京風文化の名残をとどめた室町様式の庭園遺構で、昭和37年の公園整備中に発見され、昭和55年に再発掘調査を行いました。平たい小石を縦ならびにして敷きつめ、あたかも流れに洗われた岩や浅瀬のように、その所々に大小の石を配置することで、水の流れをみごとに表現した枯山水の意匠は非常にめずらしいものです。また、枯山水の付近から小さな草庵風の建物跡や天目茶碗等が発掘されており、茶道的な庭園を形作っていたと考えられています。まさに、風雅を愛した松波畠山氏の心情を偲ぶことができます。 石川県教育委員会・能登町教育委員会」と書かれている。
(注2)松波畠山氏先業の碑には「史蹟松波城址 文明六年(1474)三月七尾城主三代畠山義統の三男義智が初代城主として城域三千坪に築城、聴城鶴山緑ヶ城と称した。老松天を摩する丘陵の中央に本丸。東北院の山に御殿旭鶴館。西北に長局。北方に嘉尚閣。東南の一角を景勝台と称して、ここに鳳祥斎院の山との間、雁鯉ヶ池に臨んで茶寮一竿亭を配し豪杜豪麗な勇姿を誇っていたが、天正五年(1577)九月時の城主畠山義親は越後上杉勢の武将長沢筑前守と対峙、初代義智入城以来六世百有余年にわたる治績を残して名城とともに壮烈悲壮の最後を遂げた。昭和四十九年四月之建」と書かれている。
(注3)
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