堀松城(堀松城址)
↑は「末吉城城址城郭主要部跡」の看板
読み仮名 | ほりまつじょう |
別名 | 末吉城、笹山城、篠山城 |
所在地 | 羽咋郡志賀町宇末吉 |
形式 | 山城 |
築城者 | 手筒某 |
築城年 | 応永年間(1394-1427) |
遺構 | 郭跡 |
歴代城主 | 河野氏 |
交通 |
堀松城は、応永年間(1394-1427)に創築され、応仁の乱後に完成された中世城郭である。築城した人物について『日本城郭大系』によると、平は「ひらか」とも読み、「平箇」とも書くので、それを「手筒」と間違えたのではないかとしている。1553(天文22)年の城主は大槻・一宮の合戦で遊佐続光側に味方した畠山義続の奉行人である河野続秀だった。謙信の能登侵攻時には、河野肥前とその子である河野土佐がいる。河野土佐は義慶政権下の古文書にも名前がみえる。謙信の能登侵攻の時河野父子は在城し、討ち死にしたと言われている。 堀松城は、位置的に能登半島の外浦と能登半島西側の得田街道を監視できる要所にある。畠山家の重臣平氏が在住していたり、畠山家の晩年になると城主が河野氏となっていたりすることを考えると、「畠山氏の直轄支城(在番支城)」(南龍雄氏「志賀町の土田荘と堀松荘の中世城郭について」『能登の文化財』35輯,2001年)としている。さらに南氏は前掲論文で堀松城について「とても大普請であり、高度の築城技術が必要であり、七尾城主の畠山氏にしか築けない城郭である。普通の在地領主の築ける城ではない。」とも評しているので、能登畠山氏が監視の為に築かせた城かもしれない。城跡に「堀の池」や「長池」などの通称があり、往年は水掘りがあったのではと推察されている。 現在大手門跡であった場所には西来寺が建っている(写真1)。そこから入っていくと、写真5や写真6に見られるように、土塁や堀切が明確に見て取れる。(写真7)から主要部への高低差はかなりのもので、写真8の主要部の広さもかなりのもの。(写真9)は主要部を守る帯郭のようなものか。ここに主要部の看板がある(一番上の写真)。そこから写真11に進むと大きな崖がある。写真左側。ここは採石場になって人工的に崩されたようだ。そこをさらに進むと(写真12)狼煙台・物見櫓跡と呼ばれるところに着く。同地点(写真13)には看板があり、土塁で囲むとあるが、それらしきものは見えない。『石川県中世城館跡調査報告書T(加賀T・能登U)』のP.123では「それに続く尾根を含めて城跡とする報告もあるものの、明瞭な堀切などの遺構は観察できず、自然地形あるいは山道とするのが適当と判断」とある。また佐伯哲也氏は『能登中世城郭図面集』(P.54)で「平坦面の削平は非常に甘く、ほとんど自然地形のままである。これでは大規模且つ堅牢な建物は建たない。」と述べており、地方領主程度の館なのかもしれない。 |
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