能登畠山家武将総覧
(は行)

畠山 家俊(はたけやま いえとし) 1465-1531
大隈守。畠山政栄の次男。加賀津幡の合戦で主将として出陣するも敗死。 詳細は西谷内特集

畠山 九郎(はたけやま くろう) 生没年不詳
実名不詳。慶致の嫡男だが、庶子であった。義総と対立。 畠山九郎特集

畠山 駿河(はたけやま するが) 生没年不詳
実名不詳。畠山慶致の四男。畠山九郎と共に畠山義総に対立。 詳細は一門特集

畠山 将監(はたけやま しょうかん) 生没年不詳
実名不詳。畠山家俊の子。 詳細は西谷内特集

畠山 治部大輔(はたけやま じぶのたいふ) 生没年不詳
仮名は四郎。治部大輔。系譜関係不明だが、「実隆公記」には畠山義元の親類と称している。畠山政栄の官途が「治部大輔」であることから、西谷内畠山氏の一族ヵ。1510(永正7)年に三条西実隆邸を訪問し太刀を贈っている。この時は細川高国の使者が来ていたので会うことができなかったが、翌日に実隆は昨日の来訪を謝している。翌年には連歌の手本を所望している。 詳細情報なし

畠山 貴維(はたけやま たかつな) 生没年不詳
治部少輔。系譜関係不明。二本松畠山氏の血筋ヵ。1517(永正14)年頃、能登の私邸で冷泉為広を呼び和歌の会を開いている。 畠山貴維特集

畠山 常重(はたけやま つねしげ) ?-1570
右衛門尉・常陸介。畠山義遠の子。松波畠山氏4代当主。 詳細は松波特集

畠山 教国(はたけやま のりくに) 生没年不詳
宮内大輔。畠山満慶の子どもで、2代守護・畠山義忠の弟。「教国」は将軍・足利義教の偏諱と思われる 畠山春王丸特集

畠山 春王丸(はたけやま はるおうまる) 1575?-1577
式部大夫。畠山義隆の嫡男。能登畠山家12代当主。七尾城篭城中、疫病にかかり病死。 詳細は一門特集

畠山 晴俊(はたけやま はるとし) ?-1558
畠山一族(駿河の子ヵ)。弘治の内乱において、反乱軍(温井方)に担がれ傀儡大将となる。勝山城陥落と同時に敗死。 畠山晴俊特集

畠山 義有(はたけやま よしあり) ?-1439?
治部少輔・阿波守。畠山義忠の嫡男で3代畠山義統の父。大和方面の幕府の凶徒討伐軍に加わっている陣中病死した。 詳細は一門特集

畠山 義繁(はたけやま よししげ) ?-1533
次郎。畠山義総の嫡男で義続の兄。1533(天文2)年6月5日に早世したので義続が後継者となった。 詳細は一門特集

畠山 義季(はたけやま よしすえ) ?-1577
隠岐守。畠山常重の次男。 詳細は松波特集

畠山 義隆(はたけやま よしたか) 生没年不詳
畠山義綱の次男。一説には「二本松伊賀守義有」とも言われる。発給文書がなく、畠山義慶と同一人物説もある。 畠山義隆特集

畠山 義忠(はたけやま よしただ) 1390-1463
能登守護・御相伴衆。左馬助・阿波守・修理大夫。畠山満慶の嫡男。能登畠山家第2代当主。幕政の中枢に位置する。文化人。 畠山義忠特集

畠山 義続(はたけやま よしつぐ) ?-1590
能登守護。左衛門佐。畠山義総の次男。兄の義繁が早世した為家督を継ぐ。能登畠山家8代当主。1566(永録9)年には子の義綱とともに家臣から能登を追放された。 畠山義続特集

畠山 義綱(はたけやま よしつな) ?-1593
能登守護。次郎。修理大夫。義胤。入道して徳栄。畠山義続の嫡男。能登畠山家9代当主。1551(天文20)年家督を継承。内乱を経て専制支配を確立するが、家臣の反発を招き1566(永録9)年、重臣に追放される。その後、復権を試みるが叶わず。 畠山義綱特集

畠山 義遠(はたけやま よしとお) ?-1561
常陸介。畠山義成の子。松波畠山氏3代当主。 詳細は松波特集

畠山 義智(はたけやま よしとも) ?-1503
常陸守。畠山義統三男。松波畠山氏初代当主。能登畠山家三代当主義統の命で奥能登松波に1574(天正2)年に入部し松波畠山氏の祖となった。 詳細は松波特集

畠山 義成(はたけやま よしなり) ?-1532
大隅守・常陸介。畠山義智の子。松波畠山氏2代当主。 詳細は松波特集

畠山 義慶(はたけやま よしのり) ?-1576
能登守護。次郎。修理大夫。畠山義綱の嫡男。能登畠山氏10代当主。1566(永録9)年父義綱が追放されたことにより、重臣に当主として担ぎ上げらた。気多大社に現代でも残る社を創建している。 畠山義慶特集

畠山 義総(はたけやま よしふさ) 1491-1545
能登守護。次郎。修理大夫・左衛門佐。畠山慶致の次男。能登畠山家7代当主。1515(永正12)年〜1545(天文14)年までの30年間、義総の治世の下安定した発展を遂げ、七尾の文化的土壌を形成した。 畠山義総特集

畠山 義統(はたけやま よしむね) ?-1497
能登守護。御相伴衆。左衛門佐。畠山義忠の嫡孫。能登畠山家3代当主。父義有が早世した為家督を継ぐ。積極的に幕政に関与した。応仁の乱後能登へ下向。大名権力の基盤を固め実力を有した。 畠山義統特集

畠山 慶致(はたけやま よしむね) ?-1525
能登守護。弥二郎。左衛門佐。畠山義統の次男。能登畠山家5代当主。1500(明応9)年、兄義元が能登を追放されたのに伴い家督を継承する。後、兄義元と和解、当主を退く。 畠山慶致特集

畠山 義元(はたけやま よしもと) ?-1516
能登守護・御相伴衆。修理大夫・左馬助。畠山義統の嫡男。能登畠山家4・6代当主。父義統の死して1497(明応6)年4代当主となる。1500(明応9)年守護の座を終われされ、1508(永正5)年に再び守護に就く。 畠山義元特集

畠山 政国(はたけやま まさくに) 生没年不詳
次郎。畠山義有の次男。畠山義就の養子とる。1460(寛正元)年に畠山宗家の家督を継ぐが、同月には廃され政長に家督を奪われた。 詳細は一門特集

畠山 政純(はたけやま まさずみ) 生没年不詳
右馬助。畠山清純の次男。兄とともに応仁の乱にて西軍に属す。 詳細は西谷内特集

畠山 政近(はたけやま まさちか) 生没年不詳
中務少輔。政栄の嫡男であると思われる。『北野神社長亨三年引付』に名が見える。 詳細は西谷内特集

畠山 政栄(はたけやま まさひで) 1424-1474
左馬助。畠山清純の嫡男。羽咋郡の西谷内城の城主。応仁の乱にて西軍に属す。 詳細は西谷内特集

畠山 満慶(はたけやま みつのり) 1372-1432
能登守護。左馬助・修理大夫。御相伴衆。満則。畠山基国の次男。畠山宗家当主のち能登畠山家初代当主。1408(応永28)年兄より能登一国を与えられ能登畠山氏初代当主となる。 畠山満慶特集

畠山 持純(はたけやま もちずみ) 生没年不詳
西谷内畠山氏と思われるが系譜関係不明。京都在住で、度々歌会等を自邸で開催している。持純の「持」は将軍足利義持の偏諱と思われる。 詳細は西谷内特集

氷室 兵庫充(ひむろ ひょうごじょう) 生没年不詳
実名不詳。入道して兵庫入道。畠山義忠被官。1437(永亨10)年に弥郡氏の安堵を守護代・遊佐忠光から指示されたのが初見。1445(文安2)年には泊弥次郎の領地問題で守護代・遊佐忠光が同氏を説得するよう、池田中務丞と共に命じられた。1446(文安3)年には筒井佐渡入道の下地交付を、1453(享徳2)年には忠光の命で総持寺(輪島市)に礼物を納入するなど守護代の側近として活躍した。 詳細情報なし

平 季知(ひら すえとも) 生没年不詳
仮名又次郎。畠山義統の被官。1491(延徳3)年に招月庵正広から「みかきよる塩干の貝の玉とりてさかいをこえよわかの浦浪」という和歌を一首贈られている。(坂下喜久次『七尾城と小丸山城』p.322より) 詳細情報なし

平 尭知(ひら たかとも) 生没年不詳
新左衛門尉・加賀守。総知の子。義慶政権で年寄衆を務める。七尾城落城後は謙信に仕えるが、温井景隆とともに七尾城を占拠し反乱を起こす。しかし、織田信長の臣が能登に入部すると同城から撤退。 詳細情報なし

平 総知(ひら ふさとも) 生没年不詳
加賀守。光知の子。堀松付近を領す。第1次七人衆に名を連ねた。『七尾城主畠山記』によると「平加賀守」は知行三千貫を領すという(P78より)。 詳細情報なし

平 光知(ひら みつとも) 生没年不詳
新左衛門尉。畠山義統・義元・義総に仕える。1480(文明12)年には能登と京都の連絡役などを受け持つため、その中継基地として近江国余呉に在住した。その一方で文明年間〜明応年間には守護請地である羽咋郡菅原荘(北野社領)や羽咋郡土田賀茂荘(上賀茂社領)の代官職などもした。1480(文明12)年に能登に招月庵正広が下向する際は、途中で余呉荘の光知邸に寄り和歌会を開いたり(「松下集」より)、1517(永正14)年には能州に下向していた冷泉為広の門人となっていることから、光知は畠山氏などとともに文芸に通じていたと言える。明応九年の政変以降の行動があまり知られないので、光知が義元に属していたのか慶致に属していたのかは定かではない。 詳細情報なし

広瀬 貞成(ひろせ さだなり) 生没年不詳
隼人佐。温井家家臣。貞成の「貞」は温井総貞の偏諱と思われる。1569(永禄12)年の栗棘庵文書に「広瀬隼人佐貞成」の名が見える。 詳細情報なし

波々伯部 某(ほうかべ ぼう) 生没年不詳
 実名不詳。畠山義元に仕える。義元と慶致の兄弟闘争となった明応九年の政変では義元派に属していたようで、義元が慶致に敗れて出奔すると波々伯部某も同調している。1508(永正5)年に義元と慶致の和睦がなり守護に還任すると、某も能登に戻り義元派家臣として活躍している。
 1481(文明13)年正月18日に書かれた気多社が徴収する段米を記した「能登島八ヶ村公田々数注文」(伊夜比盗_社所蔵・能登島と海と畠山氏に記載)によると、「波々伯部殿」が「エノミ(F目)村」と「蜂崎」を領したとある。年代的にみて、この義元被官の波々伯部某のことだと思われる。
詳細情報なし

誉田 弾正(ほんだ だんじょう) 生没年不詳
『能登畠山史要』によると1576(天正4)年の謙信侵攻の際、畠山方の将として七尾城内の守りについている。1568(永録11)年まで合鹿の一部を知行していた。康俊と同一人物かは不明。 詳細情報なし

誉田 康俊(ほんだ やすとし) 生没年不詳
勘解由左衛門尉。畠山義綱に仕える。1558(永禄元)年に岩蔵寺に武運長久・子孫繁昌・安穏息災・諸願成就を祈願し、所領の鳳至郡大野村(輪島市)の田を寄進している。また、1561(永禄4)年にも岩蔵寺に田を永代寄進している(石倉比古神社文書)。 詳細情報なし

誉田 頼重(ほんだ よりしげ) 生没年不詳
出雲守。頼重は畠山義総の執事(その職については現在疑問視されている)とも言われている。しかし、頼重に関する記録は古文書になく、その実在性は定かでない。『七尾城主畠山記』によると、誉田頼重は二千貫弱を領したと言われる(P78より)。 詳細情報なし

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