能登畠山家武将総覧
(な行)

中西 図書(なかにし としょ) 生没年不詳
実名不詳。中西氏の遠祖は畠山宗家に仕え、満慶が能登一国守護になるに及んで能登へ移住した。中西図書の時、七尾城落城し以後は前田家の長氏に仕えた。 詳細情報なし

中西 定親(なかにし さだちか) 生没年不詳
大炊助。1558(永録元)年に誉田康俊が岩倉寺に田を寄進した時の使者に「中西大炊助定親」の名前がみえる。中西図書と同族の中西氏かは定かでない。 詳細情報なし

南志見 光連(なじみ みつつら) 生没年不詳
中務大輔。長氏庶流。南志見城城主。1570(元亀元)年からは義慶政権の奉行人となる。南志見郷は現・輪島市にあり、その居館を中心として光連は1571年(元亀2)年奥能登外浦地区の代官となっており、南志見氏が有力領主だったことが伺える。 詳細情報なし

新保 兼家(にいほ かねいえ) 生没年不詳
左介。新保氏は国分氏の被官。1559(永録2)年の熊野権現の奉加札に「新保左介殿五十文」とある人物らしい。越中の国人小間常光発給文書に「新保丹後守」宛の文書がある。常光は能登の温井氏等にも文書を送っているので、これは西谷内の新保氏へあてたものであろう。しかし、年次がわからないので、兼家かどうかはわからない。 詳細情報なし

仁岸 右衛門尉(にぎし うえもんのじょう) 生没年不詳
実名不詳。仁岸宗心の子。仁岸氏は長氏庶流。 詳細情報なし

仁岸 宗心(にぎし そうしん) ?-1550ヵ
実名不詳。石見守。入道宗心。馬場城城主。仁岸氏は長氏庶流『長家家譜』には、宗心の妻は長英連の妹であり、長家とは非常に近しい存在であった。畠山義綱に仕える。能登天文の内乱では温井総貞遊佐続光の争いで温井方に付き、七尾天神河原で戦死する(『長家家譜』第2巻抄録)。 詳細情報なし

仁岸 常清(にぎし つねきよ) ?-1488
石見守。鳳至郡仁岸郷馬場(門前町)の人。馬場城城主であったと言う。仁岸氏は長氏庶流。 詳細情報なし

西村 右馬助(にしむら うまのすけ) 生没年不詳
実名不詳。『羽咋市史』では西村某が永光寺の要望を年寄衆に取り次いだという文書を義綱政権下のものとしている。
西村氏は七尾市沢野町に西村館を構え、代々畠山家に仕えたと言う。また、西村右馬助の他に、西村弾正という者もいたと言う。(高井勝己『石川県城郭総覧』1981年,自費出版,P253より)。
詳細情報なし

温井 景隆(ぬくい かげたか) ?-1582
温井続宗の子。義綱に対抗するが敗北。義綱追放後、畠山家復帰を果たす。 温井景隆特集

温井 景続(ぬくい かげつぐ) 生没年不詳
仮名五郎。左衛門尉。1569(永禄12)年の栗棘庵文書に「温井五郎左衛門尉景続」の名がみえる。 詳細情報なし

温井 孝宗(ぬくい たかむね) ?-1531
藤五郎。兵庫助。法名は大演性芸居士。温井俊宗の子。義統・義元・慶致・義総に仕える。加賀津幡の合戦(1531年)に従軍し、加賀国河北郡大田で11月2日に討ち死にした。 温井孝宗特集

温井 隆安(ぬくい たかやす) 生没年不詳
系譜関係不明。官途は主殿(主殿助ヵ)。畠山義統の家臣。1489(延徳元)年に能登府中(七尾市)の山王社に板絵馬(鳩の彫刻付き)を寄進した記録がある。(「加夫刀神懸額」七尾市大地主神社蔵) 詳細情報なし

温井 忠冬(ぬくい ただふゆ) 生没年不詳
温井慶宗の子ヵ。仮名小三郎。1465(寛正6)年、能登島向田の伊夜比盗_社再興棟札に「地頭温井小三郎忠冬・代官荻野四郎左衛門尉宗久」の名がある。高井勝己氏は、忠冬が能登島の向田領有を継ぎ、慶宗から家督を継いだのは俊宗ではないかとしている。「忠冬」の「忠」は義忠の偏諱かと思われる。 詳細情報なし

温井 続広(ぬくい つぐひろ) 生没年不詳
仮名藤八郎。1569(永禄12)年の栗棘庵文書に「温井五郎左衛門尉景続」の名がみえる。 詳細情報なし

温井 続宗(ぬくい つぐむね) ?-1558
兵庫助。温井総貞の子(『天文日記』天文22年12月11日の条に「温井兵庫助、備中守子也」とあるので、確かであろう)。1551(天文20)年に父が引退すると家督を継ぐ。1555(弘治元)年に父が暗殺されると、続宗が中心となって義綱に叛旗を翻した。初戦は勝利を重ねたが、徐々に義綱方に押され拠点にしていた勝山城を1558(永録元)年が陥落すると、討ち死にした。 詳細情報なし

温井 続基(ぬくい つぐもと) 生没年不詳
 山城守。孝宗の子か?紹春(総貞)が暗殺されると、温井続宗と共に反乱軍として弘治の内乱に参加。鎮圧される。年次未詳だが気多社に社領の納税が去年の4分の1になると続基が報告している文書がある。また、1555(弘治元)年に続基が本誓寺に米を進納する文書もある。反乱軍の中で重要な外交を担っていることがわかる。
 『能登畠山史要』によると、1576(天正4)年の謙信能登侵攻の際、「温井山城守」が温井館を守っていたとある。これは同一人物であろうか?
詳細情報なし

温井 続盛(ぬくい つぐもり) 生没年不詳
上野介。続盛の「続」は畠山義続の偏諱であろう。1553(天文22)年の栗棘庵文書に「温井上野介続盛」の名がみえる。 詳細情報なし

温井 綱貞(ぬくい つなさだ) 生没年不詳
系譜関係不明。弘治の内乱で温井続宗の死後、綱貞を中心にもう一度挙兵するも、すぐ義綱方に鎮圧される。系譜関係はわからないが、「綱」が当主・義綱の偏諱であること、「貞」は総貞等の温井嫡系が使うなど、綱貞は温井家嫡系の人物であると推測する。 詳細情報なし

温井 俊宗(ぬくい としむね) 生没年不詳
 備中守。慶宗の子か?温井氏として初めて輪島での文書がみえる。高井勝己氏は慶宗から家督を継いだのは、この俊宗だとする。1496(明応5)年に、向田、伊夜比盗_社造営棟札が見える事から、能登島向田にも領地があったらしい。一説に俊宗は「温井景国」であるとも言われる。温井景国は畠山義元の執事(その職については現在疑問視されている)とも言われている。
 俊宗の頃になると温井氏も勢力を増してきたようで、初めて三条西実隆との交流が知られるようになる。すなわち、実隆に源氏物語の和歌を所望したり、三百疋を送り掛字を貰うなどしていた。
詳細情報なし

温井 慶宗(ぬくい のりむね) 生没年不詳
兵庫尉。1443年(嘉吉3)8月に向田、伊夜比盗_社の宝殿を造営した人物に温井慶宗がいたことが見える。また年次未詳の文書であるが、栗棘庵からの懇請により青銅30疋を進呈をしている。経済的に余裕がないとできない行為であり、温井慶宗の勢力の伸張が伺える史料(栗棘庵文書)である。
 温井氏は早くから畠山氏の被官となっており、さらに慶宗の「慶」の字から畠山満慶の家臣であろう。義忠政権時代に、温井兵庫の名が見えるが、慶宗と同一人物かどうかはわからないと米原正義氏が指摘する。能登島向田を領有していたらしい。一説に慶宗は「温井景松」であるとも言われる。温井景松は畠山義統の執事(その職については現在疑問視されている)とも言われている。
詳細情報なし

温井 慶宗(ぬくい のりむね) 生没年不詳
幼名若松丸。左衛門尉。彦五郎某の息子。温井氏庶流・彦五郎家の人物。鳳至郡志津良荘(栗棘庵領)の代官を勤める。1544(天文13)年の栗棘庵文書に「温井彦左衛門尉慶宗」の名前がみえる。 詳細情報なし

温井 彦五郎(ぬくい ひこごろう) ?-1514
実名不詳。温井氏庶流・彦五郎家の人物。義元に仕え鳳至郡志津良荘(栗棘庵領)の代官を勤めた。1514(永正11)年に能登で起こった内乱で戦死。 詳細情報なし

温井 秀政(ぬくい ひでまさ) 生没年不詳
仮名彦五郎。温井氏庶流・彦五郎家人物。系譜関係不明。鳳至郡志津良荘(栗棘庵領)の代官を勤めたが、義慶政権では温井嫡家の温井景隆に代官職を奪われた。再任を願うも叶わず(一説には「続家」とも言われる)。1566(永禄9)年の栗棘庵文書に「温井彦五郎秀政」の名がみえる。 詳細情報なし

温井 総貞(ぬくい ふささだ) ?-1555
景長。兵庫助、備中守。入道して紹春。義総に仕えて文化に精通する。義続の頃になると、政権を握り、七人衆体制をひく。1555(弘治元)年悪臣粛清を図る義綱に暗殺される。 温井総貞特集

温井 政貞(ぬくい まささだ) 生没年不詳
三井村仏照寺縁起に、文明年間に三井城主温井備中守次男政貞が出家したと伝えている。僧号は、真言宗興徳寺空西。 詳細情報なし

温井 光宗(ぬくい みつむね) 生没年不詳
下総守。温井氏庶流・彦五郎家の人物。系譜関係不明。大槻・一宮の合戦に名前が見える。能登畠山家滅亡後は上杉謙信・織田信長に仕えるが1579(天正7)年に穴水城に立て篭もって長連竜と対峙する。しかし、開城して越後に逃げる。 詳細情報なし

温井 統永(ぬくい むねなが) 生没年不詳
仮名藤八郎。畠山義統・義元・慶致に仕える。下町を領したと思われる。 詳細情報なし

温井 盛宗(ぬくい もりむね) 生没年不詳
仮名七郎。左衛門尉。1553(天文22)年の栗棘庵文書に「温井七郎左衛門尉盛宗」の名がみえる。 詳細情報なし

能登 永閑(のと えいかん) 生没年不詳
→小幡永閑(おばたえいかん)の項参照 詳細情報なし

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