<上杉氏(越後守護)との外交関係>
あまり、能登畠山家と越後守護上杉家との関係は明かでは無い。しかし、当時頻繁に船が運行していたと言われる日本海海上交易の流通ルートを考えると(詳しくは能登島と海と畠山氏参照)、地理的要因からから越後は能登の湊(七尾や輪島)を経由せず京都へ船を出すことができないので、基本的に両国は強い絆で結ばれていた。
具体的に畠山氏と越後守護上杉氏との関係がクローズアップされるのが3代守護畠山義統の頃である。応仁の乱において東軍に属する越中守護畠山政長が西軍の能登を侵攻しようと計画を企てていた為、義統は反対に越中進出を企てた。その際、能登と越後で越中を挟み撃ちしようと、1479(文明2)年9月頃に越後守護上杉房定と連絡を取り合い、婚姻関係を結んで越中奪取を企てたと言う記録がある。この当時は両者が良好な関係にあったのであろう。
<長尾(上杉)氏との外交関係>
上記越後上杉氏の項でも述べたが、能登と越後との関係は、日本海海上交通の関係上室町・戦国時代一貫して強固な同盟関係であった。越後では米や青苧(あおそ)を京都に出荷するには能登の湊(七尾や輪島)を経由しなければならないし、能登では出羽の馬を購入するのには越後の湊を経由しなければならない。このため、基本的に両国は強い絆で結ばれ、越後上杉氏が没落し、その主体が長尾氏に代わって以降項も畠山家との同盟関係は基本に継続された。しかし、一旦両国の関係が悪化すると、両国は互いの舟を止めあうなどして、京都の商人などは苦労したそうである(1529年に実際に両国で商船が足止めをくらった)。しかし、両者船を止められて困るのは越後の方であった。というのも、越後は麻織物の原料である青苧(あおそ)の名産地であり、相当数京都に出荷していた。そのため、海上流通が止まれば青苧の出荷も止まり越後の経済に大打撃を与えることになるのである。一方の能登は京都と通じている為さほど不便はないのである。そのため越後の勢力は、能登に気を配ったものと思われる。
越後守護代である長尾氏は、為景の代になって守護上杉定実に取って代わって越後の国主たる地位を得た。畠山義総は為景に対し、1519(永正16)年〜1522(永正17)年の越中永正の乱で共同出兵したり、その後の両越能三国同盟における越後代表を形式上の守護である上杉定実ではなく為景としたことからも、その越後の国主たる地位を認めている。高森邦男氏は「戦国期における北国の政治秩序について」(『北陸社会の歴史的展開』所収)において、越中国の管理を河内畠山家が能登畠山家通じて間接的に把握する体制を畠山体制と呼称している。この体制は、越後長尾家は形式上越中新川郡守護代となっているが新川郡の統治は椎名氏に又守護代という形で一任しているので、実質は能登畠山家が越中守護代行として、必要あらば長尾にも支援を要請するという越中の勢力(神保・椎名・遊佐)の監視体制となっている。つまり、この体制において越中守護=河内畠山>越中守護代行=能登畠山>新川郡守護代=越後長尾氏というヒエラルヒー(階級制)が誕生したのである。もともと、両者には守護の家柄の能登畠山、守護代の家柄の越後長尾という身分差異があったが、越中支配の為の畠山体制を通じて互いが直接階級を構成するようになったのである。
しかし、この階級制が徐々に崩れてくるようになる。能登では政治的危機的状況が続き、弘治の内乱においては畠山義綱が不利な状況を打破する為、一層の関係強化を模索し1558(永禄元)年に弟義春を長尾家の人質に出すことで同盟が成立し、長尾景虎が義綱方に援軍を送るなどして義綱と密接に結びついた。これは、実質上越後長尾氏が能登畠山氏の経済力・軍事力を超えたことを意味する。ただ、権威上の畠山家の優位は当面守られたようだ。1562(永禄5)年、神保長職と長尾景虎で合戦が起こ神保が敗れた時、義綱は両者より上位の立場として調停し、それを神保長職も長尾景虎も受け入れている。
その「権威的優位」も永禄九年の政変を機会に消滅する。義綱が家臣によって能登より追放されると、上杉謙信(長尾景虎)は近江に逃れて再起を伺う義綱亡命政府を援助したため、能登畠山家(義慶政権)との関係が悪化した。それを決定的にしたのが1568(永禄11)年の義綱の能登御入国の乱であり、謙信は義綱方に味方し義慶と敵対した。この事により、謙信は義慶を擁した能登畠山氏に対し、権威上従う「大儀名分」もないので、ここにおいて経済力・軍事力・身分上すべてにおいて長尾氏が畠山氏を上回ることになったのである。義慶政権下では家臣の力が再び強大化したために、その内実も複雑になる。遊佐続光を中心とする遊佐派が親上杉派となり、温井景隆を中心とする温井・三宅派が親一向一揆派となり、長続連を中心とする長派が親織田派となり、表向きの上杉との敵対関係も複雑化していく。その後、義綱が織田信長に接近し、義慶政権が長派の勢いが強まったため謙信は義慶政権と外交関係を再開する。そして、能登にも新興勢力である織田信長の勢いが強まってくると、1575(天正3)年に上杉謙信の能登への出陣を何度も求めるほど畠山家中で親上杉路線になったように見えた。しかし、実際に1576(天正4)年に謙信が能登に、「主家畠山を蔑にする家臣団を糾弾し、畠山政繁(畠山義綱弟)を擁立する名目」で侵攻すると重臣たちの保身のため、上杉方と交戦することになる(七尾城の戦い)。しかしこの合戦でも、親織田派である長氏が徹底抗戦を唱えたのに対し、元々親上杉派だった遊佐続光との外交路線対立が起こり、結果、続光が続連を暗殺して、上杉に内応し七尾城は開城し、能登畠山氏は滅亡した。
では、なぜ能登畠山家は上杉謙信に能登への出陣を求めながら、実際に侵攻してきたときに拒否したのであろうか。これは、1574(天正2)年に畠山義慶が暗殺された事件が影響していると思われる。義慶政権下ではそれぞれの派閥の均衡が保たれバランスを取っていた。ところが当主暗殺により能登の勢力バランスが崩れる危険性もあり、親織田派の長派が畠山家の実権を握れば、織田信長の勢力が増し、さら能登が敵方になると越後と京都を結ぶ海上流通も滞り、貿易に悪影響が出るというのも原因として考えられよう。
西暦 | 和暦 | 畠山当主 | 長尾当主 | 関係 | 出来事 |
1519 | 永正16 | 畠山義総 | 長尾為景 | 連携 | 義総、為景とともに神保慶宗征伐に向かう→義総・為景敗北。 |
1520 | 永正17 | 義総、為景とともに神保慶宗征伐に向かう→義総・為景勝利。慶宗自害。 | |||
1521 | 永正18 | 同盟 | 慶宗征伐後、両越能三国同盟(畠山・神保・椎名・長尾)を結ぶ。 越中国内の一向一揆鎮圧の為、義総と長尾為景が共同で越中に出兵。 |
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1529 | 亨禄2 | 険悪 | 両国の関係が悪化し、各々能登・越後で行き交う船を塞き止めた。 | ||
1558 | 永禄元 | 畠山義綱 | 長尾景虎 (上杉謙信) |
同盟 | 弟義春を長尾家の人質に出すことで同盟を強化する。 |
1562 | 永禄5 | 謙信と神保長職の合戦で敗走した長職が義綱に仲介を求め、降伏する。 | |||
1566 | 永禄9 | 畠山義慶 | 敵対 | 長職は家臣に追放された義綱を支援し、義慶と敵対する。 | |
1568 | 永禄11 | 交戦 | 義綱の能登奪回工作に協力し、能登に派兵する。 | ||
1574 | 天正2 | 畠山義隆 | 敵視 | 越中に出陣した謙信に温井・長らが音信する。「懇意を加える」と返信も「同意肝心」と威圧される。 | |
1575 | 天正3 | 接近 | 信長の能登への圧力を感じ、遊佐・平らが謙信に援軍を依頼。 | ||
1576 | 天正4 | 交戦 | 謙信が能登に、主家畠山を蔑にする家臣団を糾弾する名目で侵攻する(七尾城の戦い) | ||
1577 | 天正5 | 畠山春王丸 | 謙信が一端帰国するも再侵攻。七尾城方の遊佐続光の内応により七尾城落城。(七尾城の戦い) |
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