能登島と海と畠山氏

 現代人は江戸時代の石高感覚から歴史を考える時農業生産を基本と考えがちである。これに異を唱えたのが網野善彦氏である。網野氏は「海の民」つまり海上交通や漁業生産を視野に入れて今一度歴史を捉えなおすように提唱された。そのさかんな海上交通と物資の流通を考えた時、中世能登ではどのよう問題が起こり、どのように対処していたのであろうか。そしてそれをどのように利用したのであろうか。能登半島の地形と海上航路を考える時、戦国期における能登島という存在はかなり重要になってくる。ここでは、二穴城・向田城を中心として、能登島の地位と畠山氏について論じてみたい。

(図1)能登島周辺略図
能登島周辺地図

はじめに
 高速道路や新幹線のない室町時代・戦国時代。人々や物資を速く・大量に移動させる手段はなんといっても海上交通だった。中世の海上交通で注目されるのは、やはり瀬戸内海の海賊衆・水軍であると言える。瀬戸内海は内海であり波が穏やかで船が通行しやすい。さらに、たくさんの小さな島があり、海賊の根城となるべき拠点が作れるという点で、非常に海賊が多かった。「海賊」と言うと、現代に見られる海賊というと「無法者で武力を背景に、物品を強奪」というイメージで捉えがちである。しかし、中世の海賊は通行する船から「通行料」(舟改銭など)を得る代わりに道案内兼安全の保障を行うような存在であった。そして、その中世の海賊はそれを生活の糧としており、「海の民」とも呼ばれていた。
 一方で、中世の能登。「日本海は当時の大消費地である京都に物資を運ぶ主要ルートであり、能登もその一角に位置していた。というのは海上交通が発達した中世でも、大型船といえでも現在の木造漁船程度の大きさであった。それゆえ、食料・水の補給は度々行う必要があった。また、動力が帆や人力のため大きな波には対応できないので安全を考えて陸の側航行していたのである。ということは海に大きく面した能登は、ここを避けて日本海海上交通を利用することができない土地となる。そのため、日本海海上交通の要所として位置していたのであった。」(拙稿「能登の国力」より)それだけ日本海の海上交通がさかんならばなぜ、能登を中心とする北陸には海賊の存在が知られないのであろうか。本稿では、その疑問を解決すべく、能登島の役割を中心に「中世北陸の海上交通の在り方」について考察していく。

(1)日本海交通と能登畠山氏
 能登島町二穴にある二穴城跡。その存在は前田利家が能登に入部してから、同城に家臣として高畠茂助、宇野十衛平を配置した事によって注目されている。しかし、すでに戦国期に同地に海上見張施設程度の館があったと言われる(注1)。何故この時期の能登島に館が造られたのであろうか?能登島の城を単なる同島における防衛拠点としてではなく、日本海の流通との関連から見ていくことにする。
 前述したように、中世の流通の主役は、海上交通(船)である。この時代の船は動力が帆や人力のため大きな波には対応ず安全を考えて陸の側を航行していた。当時若狭の湊・小浜から東北地方へ海上交通で運ぶ日本海海上交通が大きく発達していたが、その海路途中にあって海に大きく面した能登は避けて通ることのできない国であり、そのため多くの補給港が発達するなど日本海海上交通の要所として位置していた。『海民と日本社会』や『日本海世界と北陸』などに拠ると、日本海でが船の定期便なども運行されていて、民間レベルでも利用された庶民の重要な運輸手段であったことが指摘されている。このように、七尾(所口湊)、穴水、松波など、能登の各地では湊での収入を通して、都市が発展していたのである。
 さらに、富山湾・七尾湾などでは波が穏やかなことから漁業がさかんに行われ、特に今でも有名な鰤漁が中世でも行われていた。その徴証に畠山義統畠山義続は幕府や公家への贈答品として海産物を用いているし、畠山義綱は富山湾の鰤漁の網に厳しい規制を加えている事(詳しくは畠山義綱特集参照)などが挙げられる。では、義綱はなぜ鰤漁を規制したのだろうか。まず、規制が行われるということは鰤漁が漁民にとってかなりの儲けになることが推察できる。しかし、一方で儲けになる者にはたくさんの者が群がり紛争となるケースが後を絶えない。紛争を防ぐには上位権力の調停が一番機能し効果がある。富山湾での上位権力者それがすなわち能登国主である畠山義綱であった。漁民にとっては紛争を調停機能として必要であるし、畠山氏にとっては税収が期待でき双方の利点が合致するのである。ではなぜ、畠山氏が富山湾での上位権力者と認められたのであろうか。これは、先述した日本海海上交通との関連があるのではないか。つまり、船改銭や関銭を徴収など畠山氏の領国経済は海と切り離せないのである。それゆえ、畠山氏は海上交通(流通)を掌握することが欠かせないので、富山湾での制海権を得ていたのではなかろうか。

(2)能登島の領主と内浦の防衛機構
 制海権を維持するためには、しっかりと湾を監視できる位置に防衛拠点がないと難しい。畠山氏が富山湾の制海権を得ていたとしてその防衛拠点はどこか。それが能登島と考えられる。上記(図A)能登島周辺略図をみると、七尾湾は能登島をはさんで大きく七尾北湾と七尾南湾に分かれているのがわかる。北湾には穴水・松波の大きな湊が、南湾には七尾(所口湊)がある。この湾と湊を監視し防衛しする拠点として築かれたのが、能登島にある二穴城と向田城である。この二つの城はその位置から見てもそれぞれ七尾北湾・南湾を守備する城とみることができる。南龍雄氏は七尾湾の防衛拠点としての同城について、位置・縄張り図、存在意義などから指摘している(注2)し、東四柳史明氏も「能登島町内の二穴城跡は、七尾南湾に面した岬状の海岸台地の先端部に位置し、七尾湾一帯を眺望できる要衝である。」(注3)と指摘している。さらに能登島は七尾湾の監視・防衛拠点としてだけではなく、同島の位置からすれば富山湾までの監視・防衛拠点を果たしたとして見るべきであろう。そして、能登島が富山湾の監視・防衛拠点だからこそ、船改銭などの通行税を徴収することができるのではなかろうか(注4)
 さて、次に防衛拠点として重要な能登島の支配体制についてみていく。まず、能登島の領主であるが、『半島国の中世史』(注3論文)には、文明年間の気多社の公田の守護請代官ともいえる地頭が記されている(下の図2参照)。これらの地に出てくる地頭名はいずれも畠山氏の近臣とも言うべき有力被官が当てられている。次に時代が下って天文年間の能登島の「給人帳」(注5)(下の図3参照)を見ていこう。これによると、大上様は畠山義続のことであり大名直轄領である。その他では遊佐氏・温井氏・加治氏・富来氏・誉田氏などが領主となっている。東四柳氏はこれを、「能登島の給人諸氏が、戦国期においても大名(守護)能登畠山氏の譜代・近臣層から構成されていたことはいうまでもないが、F目村などが大名直轄領となっているのは、能登畠山氏の領国支配にとって、島が一層重視されるようになっていた事情を意味する。」(注6)と指摘している。つまり、能登島は能登畠山氏の戦略上・財政基盤上重要な地であるので、その領主は大名に近い存在である近臣層によって行われ(注7)、さらに後年になると大名直轄領として管理するというように、能登畠山氏がその支配に力点を置いた地であると言える。

 
(図2)能登島八ヶ村公田々数一覧
1481(文明13)年正月18日
村名 地頭名 公田数
野崎領家分 西方殿 3町500苅(うち500苅神社地)
須曽 馬渕殿 3町660苅(神社共)
飯(半)浦 誉田殿 4町298束苅(神社共)
鈎(曲)村 富田殿 5町90苅
向田・閨・無関 温井(孝宗)殿 10町(神社共)
〔うち向田7町、閨・無関3町〕
エノミ(F目)村 波々伯部殿 9町240苅(神社共)
蜂(ハチ)崎 波々伯部殿 2町140苅(神社共)
野崎地頭 遊佐(統秀)殿 7町120苅(神社共)
東四柳史明『半島国の中世史』228頁(表13)より
一部加える
  (図3)戦国期能登島給人一覧 (天文年中旧記写)
村名 給人名 村名 給人名
すそ 遊佐殿 向田 温井兵庫助
左波   舟見
飯浦 誉田殿 祖母浦
通り はちか崎 加治殿
田尻 大上様
九来 富来殿 [木元]見(注8)
敷島   長崎
祢屋 温井兵庫助 野崎 遊佐殿・西方殿
むせき 大崎 [給人不収]
皆見 富来殿 筆島 遊佐殿
二穴 温井殿
東四柳史明『半島国の中世史』307頁(表16)より
 

(3)北陸の海賊は存在したか
 最後に、私の中世富山湾海上警備において推論を述べることで、北陸における「海賊の存在」について考察したい。日本海海上交通で潤う能登は、その一方で航行の安全を保証しなければならず、制海権を維持するために富山湾・七尾湾の監視・防衛拠点として能登島に城を築いたことはすでに述べた。しかし、それだけで海の監視・防衛はできるのであろうか。中世の海上交通と言えば海賊衆(水軍)のイメージがある。海賊衆と言うと聞こえは悪いが、中世では公権力(大名)によって保証されていた海賊も多かった。船を他の海賊から警護する代わりに警護料を徴収することを認められている(注9)などで海賊衆は大名の支配下で潤っていたと言われる。海賊衆と言えば瀬戸内海の村上水軍や九州の大友水軍などが代表的である。これらの海は海岸線が複雑で海賊衆が活躍できる下地があった。しかし、民間レベルでの海上交通が発達していた日本海海上交通には全く海賊衆は存在しなかったのであろうか。
 越中の椎名氏では水軍が存在し、関銭を徴収と言われる(注10)。さらに、高井勝己氏は「北陸における海賊考-能登半島と富山湾を駆け巡る海賊たち-」(『城郭史研究』29号,2010年)において、古文書でも「椎名浪人が海賊行為をした」という上杉謙信信書(上越市史資料編三・上越市「八九三上杉謙信書状」より)、「越中海賊の船の警戒を命令」した前田利家信書(『新修七尾市史三』七尾市・「二四六前田利家黒印状」より)という2つの海賊に関する古文書を指摘した。その一方で、高井氏は「能登における海賊の伝承はない」(前掲書P.36)と論じている。なぜ、海上交通がさかんだったにも関わらず能登では瀬戸内海のように、海賊行為の記録がないのだろうか。これは資料的制約があるもかもしれないが、積極的に海賊行為があったのならば相当数古文書や伝承に残っていてもいいはずである。能登で海賊行為があまりなかった原因はなんであろうか。ここから推論であるが、私は能登の主な港湾都市(七尾・穴水・松波・二穴・向田)に土豪などを中心とした小規模な「能登水軍」とも言える海賊衆が存在していたのではないかと考える(注11)。この「能登水軍」が公権(畠山氏)によって立場を保証されており、その海賊衆から得られる税が畠山氏の収入源となっていたのではなかろうか。そのため、畠山氏が「能登水軍」の上位権力者として調停機能を持っており、これをもって前述の義綱の鰤漁の規制なども行ったのではなかろうか。そうすると、能登畠山氏の公権力がなかなか及ばない越中東部・新川軍において「椎名浪人が海賊行為」というのもうなづける。また、能登の領主が前田氏に変わった事から、越中海賊との関係が悪化したとも考えられる。さらに、高井氏の指摘によると、能登にある穴水城穴水港・棚木城(宇出津港)という七尾湾の重要な拠点の城にいずれも「舟隠し」が認められ、兵士が兵船を浮かべていたと指摘している。両城は畠山氏の重臣・長氏の城である。つまり畠山氏の権力を実際に長氏が行使していたのかもしれない。すると、長氏が「能登水軍」の中心であると考えられる。しかし、問題点もある。長氏は室町時代中期まで能登畠山氏からは独立していた立場であったので、その期間を、どのように位置づけるのか。これが課題である。
 ここで一点注意して置きたいのは。ともすると「能登水軍」という言葉が独り歩きしてしまって、織田信長の下で活躍した九鬼水軍のように常設で強力な軍事部隊というイメージをしてしまわないだろうか。あるいはそこまでいかなくても、一元化された組織の下に統制のとれた海賊組織というような味方をしてしまわないだろうか。私がイメージする「能登水軍」は水軍(海賊)を専門の職業とするものではなく、商人や農民或いは運搬業などと水軍を兼業した人たちを想像するものである。そのようなイメージであるので、比較的小規模なものあると想像できる。

むすびに
 日本海海上交通における能登島が防衛拠点としての役割を持っていること。畠山氏が海からの収入に依存するなか、能登島の支配に力点を置いていたことなどを、能登畠山氏研究の第一人者の東四柳史明氏の著書『半島国の中世史』を中心に見ていくことができた。そして、さらに鰤漁などの規制などの海上警備における畠山氏の役割を中心に「能登水軍」がいたのではないかという仮説を高井勝己氏の論文を基に提言することができた。しかしながら、この「能登水軍」を裏付ける証拠は何一つ提示できなく推察の上に成り立った仮説である。これを文献資料などから読み解くなどして、今後いかに補強できるかが課題である。また、先輩諸氏の大いなる批判を頂きたい。

(注釈)
(注1)共著『日本城郭大系第7巻』新人物往来社,1980年,421頁
(注2)南龍雄「中世能登島荘の二穴城と向田城及び七尾湾の防衛について」『北陸の城郭研究』10号,2000年
(注3)東四柳史明『半島国の中世史』北国新聞社、1992年,308頁
(注4)東四柳氏は、江戸時代の加賀藩で能登島在住の太間が勤めた「かき取り役」を航行する船から役銀を取り立てていたのではないかとしている。さらに、太間の役目は旧来からの安堵と言われるので、それを室町時代に当てはめ「F目村の土豪太間が、大名畠山氏と被官関係を結び、富山湾を通行する船から船改銭を徴収していたということは、十分に推察できる」と指摘している。(『半島国の中世史』北国新聞社、1992年,308頁より)
(注5)「給人帳」は「天文年中旧記写」とみえ天文年間のことと見られるが、いつの頃であろうか。これを解く鍵は「大上様」と「温井兵庫助」と言う記述である。通常上様が大名をさす言葉なら、大上様ならすでに大名を引退している人を指すと考えられる。すると、義綱が大名である時期の義続=徳祐を指すこととなる。そうであるならば、義綱が家督を継いで以降となるので、1551(天文20)年以降となる。また、天文24(1555)年で改元され弘治元年となるので、この「給人帳」が作成された期間は1551(天文20)年〜1555(天文24)年となる。これを補強するものとして、「温井兵庫助」の記述がある。兵庫助は温井続宗のことを指すと思われる。なぜなら1551(天文20)年〜1555(天文24)年の時期に温井総貞はもう入道して紹春いるし、仮に記載されたとしても「温井備中」と書かれるはずである。とすれば、紹春の子の続宗である。そしてこの続宗は、1555(弘治元)年より始まる弘治の内乱で能登を出奔しているのである。これをもってこの「給人帳」の作成期間が限定されよう。ちなみに、弘治の内乱以降の向田村の領主については、1558(永禄元)年9月16日の棟札に「地頭池田掃部助」「代官宮島又三郎」と記載され、畠山譜代の池田氏に代わっていることが確認される。
(注6)東四柳史明『半島国の中世史』北国新聞社、1992年,307頁
(注7)さらに言えば、能登島が多数の領主に細かく区切られていたのは、巨大な利益をもたらす能登島を一元支配させないためとも言うことができようか。
(注8)[木元]という字を機種の都合上、1字で表記できなかった為、木+元で合わせて[木元]と表記する。
(注9)もっとも、警護料の徴収に応じない船は文字通り海賊となって積荷を奪ったりした。
(注10)新川郡守護代椎名氏の領国内では海賊行為は結構あったと射水市新湊博物館学芸員松山氏は指摘する。
(注11)旧「北陸歴史ねっと」での討論会「室町幕府と北陸の関係」でも、日本海交通にて能登が重要な地であることに加え、海賊などの記述が知られない事は、守護畠山氏の警備機構の結果であるという仮説に至った。

参考文献
網野善彦『海民と日本社会』新人物往来社、1998年
東四柳史明『半島国の中世史』北国新聞社、1992年
(共著)『日本城郭大系第7巻』新人物往来社、1980年
神奈川大学常民文化研究所編『日本海世界と北陸』中央公論社、1995年
南龍雄「中世能登島荘の二穴城と向田城及び七尾湾の防衛について」『北陸の城郭研究』10号,2000年
高井勝己氏「北陸における海賊考-能登半島と富山湾を駆け巡る海賊たち-」『城郭史研究』29号,2010年

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