平成十二年弥生廿六日日曜日−チャット独楽亭にて(一部抜粋・修正)
(当初参加者:畠山修理大夫義綱、長対馬守続連殿、遊佐きむち守殿、神保越中守長職殿)
(後に畝源三郎殿、林光明殿が加わる)
畠山修理大夫義綱(以下義綱略):北陸歴史ねっと第1回定例チャット討論会開催!
義綱:テーマ「室町幕府と北陸の関係」
長対馬守続連(以下続連略):とりあえずなにから語ります??
続連:ではまず、室町幕府の簡単な定義からいきます??
義綱:いきましょう!続連殿、解説よろしゅう。<室町幕府の簡単な定義
続連:では室町幕府の簡単な定義を。しばらくお待ちください。
義綱:室町幕府は有力大名の連合政権みたいな事も言われますね。
遊佐きむち守(以下遊佐略):推移的に見れば、武家全体が「権力」(政治)に興味を持ち始めた時期かもね。
< 室町
続連:連合政権というのは確かにその通りですね。
義綱:いつ頃諸大名は「上洛」と言う事を夢見るようになったのでしょう>オール
義綱:北陸の有力武将が揃いましたね(笑)
続連:上洛はどうかしりませんが管領という役職が守護階級の代表を将軍の独裁を牽制していました
義綱:本当に将軍の実権が無くなったのは10代義稙の頃ですね。御相伴衆なんか家柄に関係無くばんばん任命しちゃうし。
遊佐:大名達は上洛を夢見ていたのだろうか?
神保越中守長職(以下長職略):無力武将神保です
続連:まず三管領の一つとしての畠山からいきますか??
義綱:上洛。戦国大名だけかな<夢見る
長職:義稙といえば幼名義材、越中公方ですな
続連:上洛=天下を目指すというのは俗説な気も・・。今川義元も実際は尾張を併合が目的的いうし。
遊佐:守護大名でも、「中央から追い出された人」と「中央から出ていった人」でかなり味方が違うかと思います。
< 上洛
義綱:三管領と言っても基国までは畠山は管領家ではなかったんですよね>続連殿
義綱:上洛を夢見る=コー○ーの影響ですね・・・(汗)
義綱:中央から出ていった人=畠山義統?>遊佐殿
続連:義植は何故、越中にいったのですか??なにか特別な関係があったとか??>神保さん
長職:実際相当な有力武将でないと上洛は非現実的ですな。
義綱:少なくても義綱レベルで上洛は無理ですもんね(苦笑)
続連:そうですね。畠山が加えられた背景というのは詳しくしらないのですが・・・
長職:当時畠山家の家宰であった神保長誠は相当な実力者だったためと思われます>続連殿
遊佐:ま、そんなトコロでしょうかね? < 義統
// 大内氏とか、上洛する必要なさそうですしね。
義綱:ある本では、足利義満の策略で管領(斯波・細川)を牽制する為に畠山を管領に加えたとか。
義綱:追い出された人と言えば誰でしょ?>遊佐殿
続連:義綱が上洛しても大儀はありますが、管領家として。
遊佐:う〜む、ちょっと思い付かんです。 <
追い出された人
義綱:でも、義綱は実際義輝と親しかったらしい。曲直瀬道三(将軍軍医)を懇意であった事もそれを示しているし、御内書もあるし。>続連殿
続連:義満は将軍独裁を目指して守護の力を減らそうとしましたしね・・。
義綱:でも、6代義教より巧みですよね<守護統制>続連殿
義綱:入京目指して失敗した義稙は何故北陸を捨てて中国地方へ行ったのでしょう>長職殿
続連:とするとその当時、畠山氏より神保氏の方が優勢だったわけですね。>神保殿
長職:確かに足利幕府では守護の力が強すぎますね。
義綱:その頃の能登畠山は義元と慶致の内紛で危険だったとかでしょうかね>長職殿と続連殿
続連:とくに天皇権力吸収と明の権威まで持ち出す所など彼の特徴ですね。
長職:まず、なぜ周防へ行ったか、やはり長誠が病のためもあり、幾度かの上洛の試みも失敗に終わったため、大内氏の方が可能性が高かったからでしょうか。
続連:でもそれなら、他の有力大名でもよいのでは??今川とか。
義綱:義稙が北陸の諸勢力や中国の諸勢力と特に親しかったのでは?>続連殿
長職:畠山氏は二派に別れていたことも関係あるかもしれないですが、神保氏の方が国力では劣っているとは思います>続連殿
続連:応仁の乱以後の将軍権力の位置はどう考えるべきでしょうか??
大名間の調停機関の為必要だったのですかね??
長職:神保氏の勢力というよりも政治的な力や、名声といったところでしょうか。
続連:実際は管領細川氏、三好氏が担当していたようですが。
義綱:権力の象徴。山城周辺の実質支配?=将軍権力
続連:神保氏が名声や勢力を得たというのはどういう背景なんでしょうか??
義綱:いずれにしろ、将軍家と北陸との関係は深いものがある(義材・義昭)これはただの偶然?
続連:では山城の一領主に過ぎない足利氏に畠山氏が交渉を継続したのはやはり、権威が必要なため??
続連:そういえば京都を離れた蓮如も北陸に向かってますね。
義綱:少なくとも義綱の時にはそうですね<権威が必要な為
林光明(以下光明略):が参上いたした。
義綱:守護の権威はまだまだ将軍によるところが大きかったというところでしょう。
義綱:どうも、お初ですこんばんわ>林光明殿
光明:みなさん、初めまして>各殿原
義綱:それは、越中守護畠山宗家とも似ています<将軍権力。実際の支配権は及ばないが、周囲を動かす能力はある<1519年の神保慶宗VS長尾・畠山
長職:やはり畠山氏の内紛、応仁の乱の過程で実力をつけてきたのでしょう>続連殿
続連:北陸と近畿のなにか強い繋がりがありそうですが・・
長職:はじめまして>林殿
続連:将軍と守護は義綱の段階的でも互いに補完関係にあったわけですね。
義綱:遊佐殿は戦国期の将軍権力についてどう思われますか?
続連:今晩は>林殿
義綱:最も義輝にとっては、自分を支える者の一人ですが(笑)<義綱と補完>続連殿
長職:北陸の地理的位置?
続連:畠山氏の弱点はやはり将軍の権威に頼るということですかね??他の大名もそうかな・・。
遊佐:林さん、こんばんわ。(かめ)
続連:義輝が暗殺される原因が自ら大名間の調停に乗り出したためともいわれてますね
義綱:室町幕府の構造的に将軍が自ら積極的に動けるように出来ていないことが義輝の暗殺を招いたと思います。当然時代の背景も有りますが<松永ETC
続連:北陸の地理的位置を考えるにはやはり、日本海海上のルートがかなり盛んだったということもありそうです。
遊佐:将軍の権力は、御恩と奉公の精神のみに支えられていたのではないかと思いますが。はい。
長職:その意味で京から遠くもなく、近くもない北陸にいいかんじに影響をもったのかな<地理的位置
続連:戦国期は新たに天皇権威が復活してきたともいいますね
義綱:地理的要因も当然あるでしょうね。なにせ海上交通なら北陸と京都は近いですからね>長職殿
義綱:バランスが崩れたらはい崩壊。と言うところでしょうか?>遊佐殿
続連:近畿から北陸は琵琶湖のルートもつかえばかなり、近いようです。
長職:信長暗殺の黒幕は朝廷だとまで言われてますしね>続連殿
義綱:しかし、天皇は武士にとっては遠い存在で、やはり武家の棟梁としての将軍権力の方が武士としては近づきやすかったのでは?>続連殿
遊佐:将軍自信は自分の固有戦力が小さいのでバランスで一瞬に権力を失う辺りは、中国の王朝の構造とにてるかも。
< 将軍家
義綱:そういうところ畠山家と似ていますね<固有戦力が小さい
続連:海通交通から近畿と北陸をみるとすればなにを重視すべきでしょうか??
義綱:固有戦力が小さいと、勢力基盤を家臣勢力に頼らないとならない。そうなると、自己の権力強化に矛盾が生じる!
義綱:能登の拠点としての地位でしょうか?<重視
長職:しかし足利幕府の権威は地にまで落ちてしまったから、それに代わる権威としてとりあえず天皇権威ってことになったのかも
続連:確かに後漢とかは豪族の連合政権といわれますね>遊佐殿
義綱:しかし、能登を通らずとも日本海を東北地方に向かったと言う記録があると戦武堂さんが言っておられました。
遊佐:日本海は兵を運搬する意味での海上交通になり得たのでしょうかね?冬は完全に無理そうだし。
義綱:冬は無理?荒波のせいですか?>遊佐殿
遊佐:と言うか、中国王朝の兵力は皇帝所有ですが、兵がだれに忠誠を持っているかが問題です。
< 固有戦力
酔っ払い源さん(畝源三郎)以下源三郎略:が参上いたした。
義綱:兵を思い通りに動かせないということですね>遊佐殿
遊佐:大陸からの季節風を遮るものがありませんからね、「賭け」以外では使えなかったのでは?
< 荒波
源三郎:いやー、ただでさえなかなか付いていけないけど、酔っ払ってると、とても頭まわりません。いや正確にはすさまじくグルグルとまわっているかな。
義綱:酔っ払い源さん、こんばんわ!(笑)
続連:戦国大名は天皇を重視しはじめたとも??毛利氏とかは即位費用だしてますし、信長も本願寺などの和睦には天皇権威つかっ
てますしね。室町幕府滅亡の原因の一つははすでに天皇権威が幕府に優越してたからでは??
遊佐:こんばんわ、源三郎さん。
義綱:『日本海世界と北陸』『海民と日本社会』では日本海交通が民間レベルまで浸透しているとありますが、それでも冬はだめなんでしょうか<荒波
光明:こんばんわ、初めまして>源三郎さん。
続連:当時の航海は海岸からそんなに離れていなかったそうです。
源三郎:海上交通の話ですが、歴史的話でなく申し訳ありません。釣り好き源さんの経験から言うと、船を使うとホントはやいですね。自動車で一時間以上かかる奥能登宇出津も七尾から船で30分もあればいけますよ!
義綱:林殿はチャットにはよく来られるのですか?>林光明殿
長職:こんばんは。>源三郎さん
義綱:となると、当然能登を通らないと、海上交通で越中や越後方面には行けないわけですね<海岸から離れてない
長職:冬でも沿岸航海ならいけそうな気もする
続連:今晩は>源三郎さん
遊佐:民間はリスクとメリットを計って、陸と海を選べるが、戦争は作戦上選択肢が狭い。よって、不安定な海路は使いにくいと思いますが。
光明:久ぶりのチャットですので、拝聴しています>義綱殿
続連:そうですね。能登を避けてのルートは当時では不可能では??
源三郎:冬でも富山湾沖くらいなら小さな漁船で出ても、シケでないかぎり十分大丈夫ですよ(経験談)!
義綱:となると、北陸と室町幕府の関係が強かった要因は諸勢力と親しかった他にも地理的(海上交通において)な理由もあったということになりますね。
長職:海上交通の中継地として七尾が発達していたというのもうなずけますね。>義綱殿
義綱:気になる事があればどんどん発言してくださいませ>林光明殿
続連:でも長氏と畠山氏などの史料には海から軍を率いて連龍が能登へ向かったとか上杉軍が海上から攻めてきたとか見えます。
長職:戦国後期の上杉氏は越中、能登方面への侵攻に専ら海路を使っていたようですよ
遊佐:上杉の能登進行は冬前、秋口なのでまだ穏やかだったのでは?
< 日本海
光明:ありがとうございます。>義綱殿
義綱:ほぼ陸づたいに海上ルートがあったとすれば七尾も十分発達しますね。ところで神保勢力地の海上交通(港)はどうですか?>長職殿
続連:七尾の発展や中央との繋がりの強さも海上ルートの中継地という点もありそうですね。
長職:景勝の書状にも渡海と書いて出兵の意に使っています。
光明:日本海の北陸ルートは、かなり使われていたはずですよ。
続連:日本海は冬の荒れというのはどれくらいなのでしょうか??
長職:放生津がかなり発達していたようで、天正4年には上杉氏のもとでですが楽市になっています。
義綱:網野氏や東四柳氏も海上交通の相互メリットで畠山と上杉の強固な同盟関係が生まれたといっているし。
源三郎:(参考)室町時代じゃないですが、渤海交流史を調べると渤海使はほとんど海が荒れる冬に日本から渤海に返っています。
義綱:太平洋とは比べ物にならなそうですね<日本海の荒波。
続連:上杉軍が穴水城を攻めたのも海上からだったような
義綱:荒れ狂う日本海を渡るとすれば遣隋使みたく、ほんの一握りしか目的地に着けないとなるのでしょうか?>源さん
長職:思われているほど日本海は荒れた海ではないのかもしれませんね。
続連:とすると600年後の室町期の冬でも日本と大陸を渡れたということですね。
光明:沿岸航路ですから、むしろ日本海側のほうが安全だったはずです。<日本海の荒波
源三郎:かなりに高い確率で生還しているようです。ただし、日本にたどり着くのも、東北についたり、福井についたり、能登だったりと色々です。ただ能登がどうやら一番回数が多かったようです。
続連:日本海=荒波は演歌のせいかも(笑)
義綱:でも地理的条件なら中国地方も若狭湾から近いような・・・。でも民間レベルでも相当使われている北陸ルートを選んで将軍は流れてきたんでしょうか?
遊佐:可能でも渡るのにどのくらいのリスクがあるかが問題となる。
続連:中央との往来なら日本海横断よりも安全でしょうね
長職:戦国時代の船って、結構頑丈だったのではないでしょうか。徳川幕府のお御触れで造船技術はストップしてしまいましたが、当時の貿易の発達などから考えて。
義綱:そうですね。船の度合いにも拠りそう<海上輸送
続連:将軍の一行なら大名も陸上を通す気もしますしね・・
義綱:でも落ち延びた幕府がどうやって船を手配したんだろう?若狭で徴発した?
源三郎:その通りのようです。戦国時代の船の方が頑丈でした。織田信長の作った軍船などその頑丈さなど以前NHKなどで、紹介してました!
光明:室町期の操船技術は、倭寇の例を見てもかなり高度と考えていいと思います。
続連:船は神保さんの通りかなり丈夫かも。
光明:それに若狭には戦国期にはかなり豪商が居たそうですし。
義綱:でも、もし海上ルートで義稙が逃亡したとしたら、どうして能登に滞在しなかったんだろう?
続連:でも一武将の連龍でも船を調達できたので容易なのでは??
義綱:若狭武田家も当時(義稙逃亡時)はまだまだ実力があった頃ですからね。豪商も力を持っていたでしょうね>林殿
義綱:あるいは民間の定期便に乗ってきたとか<船の調達。少数なら簡単に乗せてもらえるのでは?
続連:海上ルートが盛んとすると水軍の存在はどうなんでしょ??
義綱:北陸諸勢力に水軍が有ったか?と言う事ですよね?>続連殿
続連:毛利や北条の水軍は著名ですが
義綱:すくなくとも、義綱期では水軍の話は出てきませんね。(内乱期なので当然と言えば当然)
源三郎:民間の定期便昔は相当数あったのでは。安寿ろ厨子王の話なんかも考えても、古代でもあのような定期便らしきものがあったんだから。
続連:そうです。畠山とか水軍はどうなんでしょ??>義綱殿
義綱:しかし、1562年に出羽から大量に馬を購入しているので、それなりの船舶は持っていたのではなかろうか?<水軍
光明:若狭敦賀の豪商は、江戸時代まで力を保持しつづけてます。>義綱殿
続連:古代でも奥州と平氏政権との定期交易あったようですし
義綱:能登一国を護るという観点からすれば畠山家に水軍は必要無かったかもしれませんね。それに、水軍と言っても織田の水軍を想像してしまうのではなく、輸送船を利用した兵員輸送船程度ならたくさん合ったのでは?
続連:北陸には瀬戸内海などの海の武士というのは出てこなかったのですかね。
義綱:若狭武田家の凋落にもめげずたくましい!<若狭豪商>林殿
義綱:河野氏の来島水軍などですね。>続連殿
続連:えと私がいう水軍は織田水軍とかのでなく海賊的勢力というか・・
長職:椎名氏の残党が水軍で上杉勢を悩ましたり、佐々成政が水軍で前田領沿岸を脅かしたりしてました。
続連:そうです>義綱殿
続連:とすると椎名氏にも海の武士的要素があったとか??
長職:先程の発言の水軍も、常備的な水軍ではなくて、船に兵を載せたものだと思います。
源三郎:能登島の二穴というところや七尾の北東端・観音崎に、前田家の監視所(七尾湾の船の出入り)があったようなんですが、あれは意外と畠山のものを引き継いだのかも。水軍はなかったかもしれないですが、それなりに海上の防備は考えていたのでは。
続連:長氏が穴水城を拠点にしたのも海的武士なせいと考えてもいいのだろうか??遊佐氏とか他の能登豪族はどうなのでしょうか??
続連:畠山氏の基盤として能登海上ルートの要所確保もあったわけですね。
義綱:能登畠山氏には海を抜きにしては語れないですね。そういえば、以前源さんと輪島の漆の話題がありましたよね。あれも、日本海交通において能登が拠点であった事の補強になりますね。
光明:所口は、放生津と並んで、当時の重要な海上ルートの拠点だったそうです。
源三郎:ところで、酔っ払ってて、話がとんちんかんな方向へ行きそうなんですが、海上交通の検証から何を推測しているんでしたっけ?
続連:もし海の武士が現れなかったのなら北陸海上ルートと太平洋ルート、瀬戸内海ルートなどとの比較研究も必要ですね
長職:北陸の武士たちは基本的に陸地の田畑の収穫が主な収入だったので、瀬戸内海などのように交通料を取るといったことをしなくてもよかったので、常備的な水軍はなかったのではないでしょうか?
義綱:室町幕府と北陸との関係です>源さん
続連:海上交通から北陸と室町幕府との繋がりです・・ね??皆様>源さん
長職:京からの地理的位置、でしたっけ。
義綱:確かに北陸で海の武士ってあまり聞きませんよね。(来島水軍はあまりにも有名)瀬戸内海とは内海と外海という差はあるにせよ、海上交通としての地位の比較は検討の余地は有りそうですね。
義綱:単純に考えると、瀬戸内海は内海の為、海全体が
穏やかで活動しやすかった。海賊の繁栄もうなづける。北陸は海岸沿い→海賊に不利
続連:山がちな奥能登は海上収益が大きな割合を占めてたとも!?越中と能登の立地条件の違いかな。
源三郎:能登は昔から田畑中心といえないのでは(米が多く獲れたのは邑知潟一帯くらいです)。昔(も今も)漁業がメインで、農業は副業というところも非常多いと思います。
長職:太平洋の水軍(北条氏など)って、やはり交通料目的の海賊的水軍だったんですかね?
光明:関が原直後で、越中は50万石以上、能登は20万石程度の収穫ですね。
続連:でも海岸沿いという理由だけでは太平洋の北条の梶原水軍とか里見の水軍とかありますよ〜。
長職:北陸海上通商路が発達していたなら、確かにちゃんとした水軍がいてもおかしくないですね。
源三郎:<(訂正)邑知潟一帯くらいです→邑知潟地溝帯周辺くらいです。>
続連:とすると畠山氏の基盤も農業でなく漁業だったわけですね
源三郎:素人的な考えですが、能登と越中の産物の違いがかえって能登と越中の海上交通を活発にしていたのでは。
義綱:う〜ん。どうしてだろう。北陸の水軍の存在が薄い・・・。
遊佐:海岸沿が航行の中心と言うことは、戦場が海上でなくとも良い
→ 海賊(正規の水軍)が発達しにくい とも考えられますが。
続連:では北陸に水軍が発達しなかったのは思った程海上ルートが発達してないか、またはなにか抑制する原因があったせいでしょうか??
義綱:義綱の鰤漁や京都への贈答品が海産物もあったと言う点でも畠山家が農業以外にも基盤を持っていたのは確かでしょう。
光明:一口に水軍といっても、いろいろなパターンを考えたほうがいいですよ。
義綱:なるほど。それほど強い水軍を持たなくともよいと言うことですね<戦場が海上で無くとも!
源三郎:前田家が統一する以前までは加賀と能登の交通よりも越中と能登の交易の方が圧倒的に多かったことを誰かが書いていました。やはり富山湾は1つの交易圏だったと思います。
続連:航行が海岸沿いという点では太平洋も瀬戸内海も同じでは??
続連:そういえば山陰にも水軍の話は聞かない気も
長職:今、手元に水軍に関する史料があったのですが、水軍=海賊の起源は魚民(漁村民やその領主)が海上権益を犯されないよ
うに徐々に武装化したもの、とあり、さらにその権益を犯すものとは、幕府、守護大名である、とあります。
遊佐:瀬戸内海は、島 - 島 間だから、必ず陸地から離れる
と考えられますが、詳しくないので本当かは知らんです。はい。
続連:水軍のパターンですか・・。ではその生計の手段専ら海にある武士にしますか??
義綱:でも、能登の場合は富山湾など争いが絶えなくて、守護に調停権を一任していたと言います<水軍武装
源三郎:水軍に詳しいよこぴいさん来ないかなー
義綱:守護権力に護られていたので地域間の争いが少なかったのでは?(少なくても能登周辺では<富山湾含む>)
続連:瀬戸内海は島が密集している地理的条件もありそうですね
長職:彼ら水軍は、守護方勢力とは経済的にも軍事的にも独立したものであり、戦の際には契約によって協力するものだそうです。
源三郎:水軍は、雑賀党みたいなもんですか?そう言えば毛利元就の大河ドラマの村上水軍もそうだったな。
義綱:富山湾が畠山家の権力で護られたとすれば、「加賀と能登の交通よりも越中と能登の交易の方が圧倒的に多かったこと」も納得がいく。
光明:当時の身分は江戸時代みたいに単純じゃないですから、武士で商人で、いざとなったら団結して水軍、と考えては?続連殿
長職:やはり守護畠山氏の保護があったから、海賊が発達しなかったのでしょうか。
続連:では畠山氏の存在理由の一つは海上勢力の調停役もありそうですね
義綱:又、先ほども話した畠山と上杉の強固な同盟関係が有れば一層の海上警備(争いの調停)などもスムーズに行くのでは?
続連:武士というと在地領主的イメージが強いですからね>林さん
義綱:となると、比較的海賊もいない安定した地域に義稙は逃亡した事になるのかな?
長職:そういえば琵琶湖にも水軍がいましたね。堅田衆とか。守護の保護だけではなく、様様な要因があるんでしょうね。
光明:当時の大商人は、たいがい武装してますから、その意味での「武士」です。>続連さん
続連:では北陸に海賊(海の武士)が発達しなかったのは北陸海上ルートの要衝を抑えた畠山氏が幕府や上杉氏との関係の中で調停役を担ったからと考えてもよいのかな。
義綱:とりあえず賛成!(少なくとも海賊の発達が抑制されたと思う)<北陸の海の武士
長職:容易に結論は出ないですね。研究が必要ですな。
源三郎:足利氏(畠山家を含め)というのは、徳川氏と違い、かなり交易というものを重視してたから、源氏出身でも平家の性格に近いんじゃないの(いいかげんな論です)。なおかつ北陸は安定していたから義稙ちゃん逃亡してきた。(うーん、どうもまじめんみ書けぬ!すいません!)
光明:中央権威の象徴としての畠山ブランドは、在地勢力にとっても魅力的だったでしょうね。
続連:武士=在地領主は農業中心的思考ですしね・・
義綱:となると、能登畠山の地位は制海権を含めて再検討しないと。海で見る能登と越中なんか面白そう。
続連:う〜ん、源氏=交易軽視のイメージは!?頼朝も鎌倉に宋船ひきいれてますしね。
源三郎:平家の福原建設や伊勢での交易などと比べれば源氏は問題にならないと私は思いますが
光明:坂東御家人は、もともと開発領主が主体ですからね。その意味では、坂東御家人のほうが特殊かもしれないです。
続連:では新たに制海権から畠山氏の位置、神保氏の位置を再検討すべきですね。能登=生産力低い=畠山弱小的イメージは海を無視してますし
義綱:富山湾を通じて能登と越中と越後が密接に結びついていたのは言うまでも有りません。ですから、ここを理解しないと、本
当の勢力関係は図れないと思います。
続連:平氏と源氏の交易の差は氏の特性というよりその立地条件かと。鎌倉も港としては福原に劣らない反映していたと最近いわれてますよ。
続連:いままでの定説は関東という一地域で発生した開発領主的武士概念を各地に当てはめてしまったせいもあるでしょうね。
源三郎:例えば、献上品の比較表みたいなものあるんでしょうかね
続連:鎌倉の反映は発掘された大量の輸入遺物などからだそうです。>源さん
義綱:結局、将軍家と北陸はどうなったのかな?
続連:では畠山さん、そろそろまとめですか??
源三郎:まとめてください! 酔っ払いより(私にあわせると変な方向に話がいきますよ!)
義綱:そうですね。第1回の討論会「室町幕府と北陸との関係」において、皆さん一言お願い致します。>オール
義綱:北陸の安定した(海上交通などの)状況を考えると、将軍家と北陸には密接な関係があった!
源三郎:今後は、どうその密接な関係を傍証なども含めて裏付けるかってことですかね!?
義綱:そうですね<裏付け>源さん
長職:京(幕府)と北陸の浅からぬ関係はその地理的な要素があると思います。
続連:では一言。足利氏の権威や周辺諸勢力の背景を考えたうえで北陸の戦国期を制海権という見方からの再検討の必要性。ということかな。
遊佐:あんま、話せなかった...(汗)
義綱:ごめんなさいです(汗)配慮がなかったすね・・・<あんまり>遊佐殿
遊佐:ま、思ったことなどここら辺に。よろしければ後でお読みください。
http://kimchi.oc.to/cgi-files/kb/kb.cgi?b=selye&c=e&id=1116 < まとめ
源三郎:何か畠山氏の話で終わったので、もうちょっと、上杉氏や浅井氏、神保氏なども考える余裕があればなってところかな。ただし、このメンバーではこうなるのかな。それとも、私が来る前にその辺の話もしてたのかな?
遊佐:いや、まだ歴史モードへの移行リハビリ中なもんで、お気になさらない様に。
> 義綱さん
義綱:畠山メンバーが3人も集まっているのですみません>源さん
光明:今回の結論を発掘等で実証させたいですね。
続連:次の議題は??>畠山さん
義綱:次回討論会のお題は何に致しましょうか?>オール
源三郎:浅井でなく、朝倉でした。酔っ払いです!私の意見適当に来て下さい!アハハハ(^^)
続連:確かに北陸なのに朝倉氏には触れませんでしたしね。次ははそれらの史料を集めた上でまた論議したいですね
長職:個人的には戦国後期、前田利家、佐々成政時代のこともやりたいな。
義綱:北陸諸国を一国一国お題にするとか?<次回お題
遊佐:うちの掲示板(さっきの URL のところ)で募集して良いですよ。時間とかも。
> 義綱さん
義綱:掲示板で募集してもネタが集まらんです。今回そうだった(泣)>遊佐殿
義綱:では、とりあえず、北陸歴史ねっとの掲示板に次回お題を書いてくださいませ。
続連:ということで私は撤退します。皆様長時間ありがとうございました。お休みなさい。>オール
長対馬守続連:が帰参いたしました。
義綱:上洛遊撃隊みたいにお題が投票できればと思うんですが・・・。
遊佐:うい、承知。 < お題
源三郎:あー、わしも眠くなった!コーヒー1杯ではきかんのー
長職:ところで義綱殿、小説完結おめでとうございます!最後は感動でした。
義綱:有難うございます!!小説、読んで下さったのですね!!しかも感動していただけるなんて(感嘆!)>長職殿
光明:こんなに楽しかったのは、久しぶりでした。ありがとうございます!>オール
長職:ほろっときましたよ。私も書きたくなりました。
義綱:ほろっときたなんて(^○^)(嬉しすぎ!)是非長職殿も書いてくださいまし<小説>長職殿
遊佐:おやすみなさいまし。みなさま。
長職:それではおやすみなさい。>みなさま
神保越中守長職:が帰参いたしました。
義綱:第1回チャット討論会、好評のうちに終わる事が出来ました。
義綱:また来週〜(って来週なんかい?(笑))
義綱:それでは、お休みなさいです。>オール
義綱:が帰参いたしました。
源三郎:挨拶するの忘れた! そんじゃバイバイ!(今日は勝手に無礼講にしました!)
光明:おやすみなさい。>オール
源さん:が帰参いたしました。
遊佐:何とかせんとな...この CGI。
林光明:が帰参いたしました。
遊佐きむち守:が帰参いたしました。
−これにて終了−