能登の国力考察

 能登畠山氏治世下の能登はどのような国であったのか?どのような産業があり、日本国内ではどのような位置にいたのか。本稿では、戦国期の能登の国力(経済力)について考えてみたい。能登の農業・都市(商業)・漁業・工業・文化等の特色を明らかにしていき、能登が中世において辺境の地などではなく、まさに物流の要所であったということを提示していきたい。

(1)能登の農業
 戦国時代からだいぶ時代が下った桃山時代・豊臣体制下の検地で、能登の石高は22万石とされていた。22万石というのは決して高い数値ではない。この数値は隣の越中・加賀よりも低い。さらに、当然これより時代を遡る室町・戦国期の能登の農業生産高はもっと低かったと推測できる。
 どうして、能登は農業生産高が低かったのであろうか。 まず1つに地理的要因が挙げられる。羽咋から七尾にかけての平野部を除くと能登には特に奥には山地が多く平地が少ない。そのため田地や畑地が確保できないという理由がある。奥能登輪島市にある千枚田(下の写真1参照)はその典型で、山間部に農地を作ったため1つ1つの田地が小さくなっている。これでは、大きな農業生産は見込めない。2つ目の理由として、能登畠山氏の支配体制がある。能登では1477年3代当主畠山義統が能登に下向するまで、在京大名であった。そのため、現地に対する支配が家臣を通じて行われ、大名の強力な直接支配が及ばず公家勢力が比較的長く存続 した。その体制は、応仁の乱を機に畠山氏が在国大名となり戦国大名化した後も、その政治体制が守護大名的支配に因ったためさらに長く存続する形となった。それゆえ一般の大名に見られる、強力な農業政策が能登では展開されなかったと考えられ、能登での農業生産が停滞したものと考えられる。また、能登畠山の治世では、終始貫高制は確立されず(注1)、旧来の体制に因ったことが東四柳氏(注2)によって指摘されている。
 しかし、農業の生産性が低いのはそれだけに理由が求められるものであろうか。網野善彦氏の著書を引用するまでもなく、能登は能登はその半島という地理的条件から「海上交通の要所」となっていた(詳しくは(2)で後述する)。船改銭(通行税)や漁業、流通に伴なう商業(燃料や食料補給の商売)などで十分生計を立てることができたのである。だから、領民たちはわざわざ農業を拡大する必要がなかったのである。であるので、農業の遅滞=「辺境」という図式は能登においては成り立たないのである。
(写真1)現代の千枚田
奥能登千枚田

(2)能登の都市の発展(〜海上交通と商業を中心に〜)
 能登の商業的発展は半島という流通から切り離された地理状況から遅れていたと思われがちである。しかし、それは全くの間違いである。最近の研究で能登は「日本海海上交通の要所」であったとして、能登は陸の孤島ではなかったとする考えが、網野善彦氏・東四柳史明氏らによって明らかになりつつある。

(図1)能登の海上交通
能登の海上交通

 中世の輸送のメインはなんといっても水路=船輸送である。輸送速度・輸送量どれをとっても中世は陸上交通より海上交通の方が優っていた。中世当時は民間海上交通も盛んで、日本海は当時の大消費地である京都に物資を運ぶ主要ルートであり、能登もその一角に位置していた。というのは海上交通が発達した中世でも、大型船といえでも現在の木造漁船程度の大きさであった。それゆえ、食料・水の補給は度々行う必要があった。また、動力が帆や人力のため大きな波には対応できないので安全を考えて陸の側航行していたのである。ということは海に大きく面した能登は、ここを避けて日本海海上交通を利用することができない土地となる。そのため、日本海海上交通の要所として位置していたのであった。中世に繁栄した主要港として「三津七湊」(さんしんしちそう)が挙げられる。三津とは姉津(伊勢)、宇津(博多)、境津(堺)と、七湊は三国(越前)、本吉(加賀)、岩瀬(越中)、直江津(越後)、秋田(出羽)、十三湊(津軽)、小屋湊(能登)がある。小屋湊とは輪島港であり、中世から能登輪島港は主要な湊として知られていたのである。
 例えば、京都から東北へ海路で北上する際は、必ず輪島と越後(佐渡)に寄港するため、両国の船はいざこざがあると、船を相手の国で止められ進めなかったという。能登畠山家は出羽へ船を進める場合、越後上杉家は京都へ船を進める場合、それぞれの商人は非常に困ったことであろう。また、京都の商人も非常にそのことに対して心配したという資料が残されている。またさらに重要なことは、越後の物資は能登を通らないと京都に輸送できないと言うことである。越後の特産品の青苧(注3)は、能登と対立すると、越後に輸送できなくなり、利益を得る事ができなくなるのである。つまり、越後は常に能登と良好な関係を保つ必要性があり、それゆえ、中世における越後上杉(長尾)家と能登畠山家の強固な同盟関係に発展していったのである。
 また、前述のように船に食料・水を度々補給する必要性から、能登では補給港が発達しそれが都市を形成するようになった。中世能登の諸都市である七尾・松波・穴水・輪島・福浦・宇出津はいずれも補給港であり港湾都市である。であるから、能登の各都市は陸の孤島とならずに、海路を通しての日本の流通経済の中心として発展していたのである。それだけ船が通っているのであれば、海の関所を設けて船の通行税である関銭・船改銭で能登畠山氏はかなりの収入があったのではなかろうかと推測できる。越中神保氏の例であるが、神保長職の家臣・寺嶋職定の過所札が発見されている。これは、職定が極性寺の僧に与えたもので関所の手形である。この過所札だけでも5ヶ所の関所名が現れるだけに、能登でも関所は結構あったのではなかろうか。そして、その海の関所が能登畠山氏の収入の大きな部分を占めたのではなかろうか。
 それでは次に、能登の港湾都市の発展をみていく。なお、ここでは主要な港のみを取り上げたが、小さな補給港は多々存在したと思われる。

≪輪島港(大屋湊)の発展≫
 中世では大屋湊と呼称された(親湊、小屋湊とも別称される)。能登畠山氏の有力重臣である国人・温井氏が強力な力を持ち得た理由も、補給港としての輪島を領有した事、それに伴なって諸特産品を売って利益を挙げた事が大きいのではないだろうか。能登畠山家の晩年に力を得た温井氏・長氏がそれぞれ輪島・穴水と海上交通の要所を拠点としているのは誠に興味深い事実である。
 能登の輪島で有名な特産品と言えば現代では真っ先に「輪島漆器」が挙げられる。輪島漆器がいつ始まったかは定かではないが、文明年間(1480年代)の温井氏の古文書には漆塗師の名前が登場している。漆は紀伊根来から伝わったとも言われるが、古文書的裏付けはなく定かではない。もう1つの中世輪島の特産品としては素麺(そうめん)がある。中世輪島の素麺と言えば、畠山氏や温井氏が都への贈答品として良く用いた。しかし、戦国初期の輪島素麺は「はなはだ細くて黒く、その味もよくない。ただ遠くから運ばれたということをめでるまでだ」(『蔭涼軒日録』1488(長享2)年5月21日条)との評価で、記事からもわかるように唯一の特徴は「遠来物」であるだけと酷評されていたようだ。その後、輪島素麺も改良が加えられ天文中期には「輪島素麺」として宣伝され評判の味だったようだ。またその生産も「素麺座」として河井・鳳至郡で生産組合が作られ独占生産をしていた。その保護者はおそらく守護畠山氏か、輪島の領主温井氏であると思われる(注4)。いずれにしても素麺という特産品で儲けていたのが伺われる。その他にも、輪島には鍛冶職人がいた事が知られている。室町期には港町としてすでに輪島は大きな町に成長していたのである。
輪島港
(写真2)輪島港
輪島素麺
(写真3)現代の輪島素麺
≪珠洲(正院湊)港の発展≫
 中世では正院湊と呼称された。珠洲港の発展はなんといっても「珠洲焼」という中世の工業製品を抜きにして語れない。珠洲焼について詳しくは(4)で述べるので、ここでは珠洲焼の概説のみし、珠洲焼の販売範囲など商業圏を中心に論じていく。
 珠洲焼の歴史は古く、須恵器の系統を受け継ぎ平安末期に誕生し15世紀末にまで及ぶ。珠洲焼は甕・壷・すり鉢などを陶器窯で焼いて造り、その用途は貯蔵甕・壷などとして使用され、珠洲焼は日用品の需要を満たしていたらしいことがわかる。陶器は重く、その輸送に海上輸送はうってつけである。そのため珠洲焼は海上交通を利用し、広範囲にまで販売されていたようである。珠洲焼が北海道で発掘されるなど日本海地域の広い地域で発見されており、その販売力は侮れない。だがその珠洲焼も、性能のよい越前や瀬戸の陶器が発達してくると、徐々に生産を縮小し始め、15世紀にいたって珠洲焼は「廃業」に追い込まれたようである。珠洲焼は珠洲地方と珠洲港の歴史を知る重要な手掛かりである。(さらに詳しく珠洲焼を学びたい人は(4)能登の産業か「珠洲焼資料館」でご覧頂きたい。)
現代の珠洲焼
(写真4)現代の珠洲焼・片口鉢
≪松波港の発展≫
 松波については小規模ながら城下町が形成 されたとある。松波城下については、松波畠山氏内浦の歴史で詳しく述べたのでそちらを参照のこととしたい。
≪穴水港の発展≫
 穴水も海上交通の重要な補給港であった。だからこそ長氏も穴水を拠点としたのであろうし、商業や舟改銭などによる収入でかなりの力を得たはずである。実際、足利将軍没落と共に幕府奉公衆も没落していくが、長氏はそうはならなかった。戦国末期には能登畠山の被官となかったが、家中でもかなりの軍事力を保持し得たのは、穴水の経済力の賜物といえる。
 穴水の町の規模は、戦時の防衛機能にとどまらず、日常的な長氏支配の拠点となり「城の西方、小又川の河口に広がる穴水の集落は小城下町の観を呈し、商人。職人なども居住し、穴水郷及び七尾湾沿岸における商品流通の拠点となっていた。」(注5)という。さらに穴水の町近くの中居では、周辺に鋳物の原材料青銅があったため鋳物業が発展した。この能登釜などの鋳物も海上交通を経て、日本各地へ販売された事であろう。また寺社の鐘も中居でつくられ、越後白山神社(新潟県西頚郡能生町)の鐘は1499(明応8)年に、飛騨千光寺(岐阜県大野郡丹生川村)の鐘は1546(天文15)年に、能登本念寺(石川県羽咋市)の鐘は1566(永禄9)年に作られた物で現物が現存する。(さらに詳しく鋳物を学びたい人は(4)能登の産業か「中居鋳物館」でご覧頂きたい。)
穴水港
(写真5)穴水港
≪七尾港(所口湊)の発展≫
 中世の七尾の発展は、他の諸都市とは少し違う背景を持つ。すなわち七尾は古来より能登国の府中として発展していた。それゆえ、中世にも七尾に守護所が置かれ能登畠山氏のお膝元として政治・文化の中心として発展した。さらに他の諸都市と同じように、所口湊(香嶋津)が海上流通の補給港として発展していた。このことから、「七尾」という町は政治的、経済的、文化的に能登の中心として発展したのである。さらに義総政権時代、守護所が七尾城に移ったことで「七尾」には、「所口湊の町」「能登府中の町」「七尾城下町」の3つの町が発展することになるのである。(詳しくは都市としての「中世七尾都市圏」の発展を参照)
七尾港
(写真6)七尾マリンパーク
≪福浦港の発展≫
 福浦は「ふくら」と読み、「福良」とも書いた。七尾の西に位置し、外浦の拠点となる港であった。昔は渤海(ぼっかい、698年〜926年=中国東北部にあった国で)という国が200年もの間に日本に34回も使節派遣した。福浦港はその使者が訪れたり、出港したり、宿泊したりした港である。日本海に突き出た能登半島だからこそ使節も能登に到着しやすかったのであろう。一節には渤海施設が宿泊した「能登客院」があったとも言われている。渤海使節がいた港だから、当然船を修理したり補給したりする必要もあったわけで、福浦港も栄えたと思われる。江戸時代では北前船の寄港地として繁栄した。中世の資料はほとんど残っていないが、以上のことから中世も主要な港として機能したものと思われる。
 このため、1877(明治9)年福浦港に高さ5mの木造の灯台が設置され、1952(昭和27)年までおよそ70年もの間使用された現存する我が国最古の木造灯台(石川県指定史跡)である。
福浦港
(写真7)福浦港
旧福浦灯台
(写真8)旧福浦灯台

(3)能登の漁業
 能登では、漁業も相当盛んだったようだ。3代義統は、室町幕府将軍義政に贈答品として、鰤・鮭・海鼠腸など海産物を送っている。おそらく七尾湾で取れたものであろう。七尾湾は能登・越中に面しているが、特に越中永正の乱以降の越中政権は、能登畠山氏に服する政権が領国運営していたので、能登畠山家が積極的に漁業に関与できる環境があった。それは、漁業の仕方などで漁民同士に争いが耐えず、その調停機能として守護畠山氏が期待されたのが理由である。その代わりとして、畠山氏は漁業に伴なう税と流通の掌握をしたのである。その証拠として能登や越中氷見、それから神保氏領国の射水郡・婦負郡では海賊行為がほんとんどみられない。これは、日本海海上交通の流通を確保する為と漁業を掌握するために積極的に守護権力で規制・取締りを行った結果であると言える(注6)
 義綱政権では「あミのこと」と発給文書にあるように鰤網に対する規制を義綱が加えていた事が伺える(詳しくは畠山義綱特集を参照)。畠山氏が漁業を掌握・規制することで税収入をあげていたことを示す古文書である。
 また、能登輪島の北にある舳倉島(へぐらじま)で採れた「嶋海苔」(しまのり)も名産であった。『中世の風景をよむ6』(の東四柳史明著「日本海交通の拠点能登」P.340)によると、「その美味に加えて色艶もよく、木箱に収められて贈答品として用いられた」と言う。
 能登では海にたくさん面している利点を活かし、中世でも海産物が特産品となり経済を潤わしていたようである。

(4)能登の産業
 能登の代表的な工業である「中居鋳物」と「珠洲焼」「製塩業」「漆工業」を詳しく見ていくこととする。

●中居鋳物●
 中居鋳物に見られる初在銘は1396(応永3)年であり、最後になる1924(大正13)年まで実に500年余りの歴史をもつ。また、平安末期に客院に滞在した渤海使に伝授してもらい作られたといわれる「石納釜」「能登釜」「能登鼎」も生産地は不明であるが、能登中居の鋳物業となにか関係があるやもしれない。能登は山が多く木材・炭が多く採れたので、これが能登中居での製鉄・製銅近に発展したと考えられる。さらに穴水港があり、長氏の力もあって日本海海上交通で重い鋳物を輸送できたという利点がある。おそらく穴水の長氏が保護者となって発展したのではなかろうか。
 主に製造された鋳物は製塩に欠かせない塩釜であると考えられている。奥能登外浦では揚浜式塩田で製塩が行われていた。その濃くした海水を煮るのに使われたのが、この中居の鋳物であると思われる。その他に寺の梵鐘も製作している。能登畠山時代に生産されたのが確認されている鋳物の一覧をみてみると、梵鐘が遠く越後や飛騨まで伝わっており、中居の鋳物は広範囲に受注・生産していたのかもしれない。ただ惜しくは明治維新での廃仏毀釈で寺の鐘を壊したり、第二次世界大戦期の資源回収令により多くの梵鐘が回収されたりしておりで、中居で製造された梵鐘も相当失われていると思われる。残念でならない。
 中世「能登釜」は課税対象となっており京都に贈答品などとして送られているが、そのため中居の鋳物は全国に知れ渡っていたのか、中居の鋳物は禁裏御用達の格式を持ち、中居鋳物師の船は全国の海の関所諸役免除の綸旨を持っていた。また1561(永禄4)年の正親天皇の即位には祝儀も進納している。(さらに詳しく鋳物を学びたい人は「中居鋳物館」でご覧頂きたい。)
(図2)能登畠山時代に生産されたのが確認されている中居鋳物一覧
西暦(和暦) 製品 銘文(鋳工名・釜印) 所蔵名 所在地 備考
1396(応永3) 懸仏 中居 大工小泉長左衛門 モ(釜印) 出口利和氏 輪島市町野
1499(明応8) 梵鐘 中居浦大工 藤原国次次郎左衛門尉 越後白山神社 新潟県西頚郡能生町 銅(破損)
1545(天文14) 懸仏 天文十四年 若宮大権現 現世安穏
敬白 後生善処 若宮権現
伊勢神社 珠洲市若宮上正力
1546(天文15) 梵鐘 大工能州中井住 藤原川崎 次郎右衛門吉久 千光寺 岐阜県大野郡丹生川村
1563(永禄6) 梵鐘 大工中居之住人 藤原朝臣泉右衛門 総持寺祖院 輪島市門前町 文化3年焼失
1566(永禄9) 梵鐘 大工中井神前金右衛門藤原清久 本念寺 羽咋市川原町
1568(永禄11) 梵鐘 永禄十一年二月鋳之 法輪寺什物也
鋳物師中井 北村重兵衛尉国次
文政十三年庚寅二月改之 能登免田村 常楽寺什物也
常楽寺 羽咋市押水町免田 亡失日
1571(元亀2) 神鏡 奉寄進爲父 宮崎仁右衛門吉綱 来迎寺 鳳至郡穴水町大町
1572(元亀3) 梵鐘 大工藤原朝臣 中井之住人 神前金右衛門清久 八幡神社 羽咋郡志賀町富来八幡 銅 亡失
長谷進(編)『図録 能登中居の鋳物』穴水町教育委員会,1997年P.68より抜粋
(写真9)能登中居鋳物館
能登中居鋳物館
「中居鋳物館」について詳しくはHPを参照のこと。)
(写真10)
『図録 能登中居の鋳物』表紙

能登中居の鋳物
●珠洲焼●
 能登の中世の工業と言えば、「珠洲焼」を抜きにしては語れない。珠洲焼の歴史は古く、須恵器の系統を受け継ぎ平安末期に誕生し15世紀末にまで及ぶ。珠洲焼は写真4のように、鉄分を多く含んだ珠洲の土を釉薬を用いず焼き上げるので、素朴な灰色の作品ができあがる。
 それでは次に、珠洲焼の歴史を珠洲市教育委員会発行の『珠洲焼〜その歴史と再興〜珠洲焼フォーラム報告書』からみていくこととする。珠洲焼の経営は富農名主が行っており、そのため陶工は百姓(=職能民ではない一般人)があたっていた。しかし、この百姓も農業の片手間で陶工をやっていたのではなく、陶工の片手間で農業をやっていたようである。であるからこの民のことを網野善彦氏は「陶民」と呼んでいる。そのため、寺社などの影響をあまりうけず自由に生産・流通してきたと言われる。珠洲焼は初期の作品の方が丁寧に作られ、時代が下るにつれ作品が雑に粗くなってきた。これは珠洲焼が大量生産されたと考えられ、仕方なく雑に作ってきた物と思われる。そんな珠洲焼は、甕・壷・すり鉢などが作られ、地中に埋められ米や銭の貯蔵甕・壷など、さらには古くなった物は骨壷としても利用されているほど日用品として生活に密着して使用された。
 この珠洲焼は海上交通を利用し、広範囲に販売されていたようで、加賀から西の地方を中心に北は北海道で発掘されるなど日本海地域の広い地域で発見されている。能登より東ではあまり発掘されないことを考えると、大消費地である京都に荷物を運んだ帰りに珠洲で珠洲焼を購入し流通したと考えられると前掲書は指摘している。
 だがその珠洲焼も、性能のよい越前や瀬戸の陶器が発達してくると、徐々に生産を縮小し始める。珠洲焼の窯は越前焼の窯に比べると小規模で窯数も非常に少ない。これは、富農名主が兼業して経営し、陶工も素人集団である珠洲焼生産の限界であり、生産拡張競争に負けたと言える。こうして、15世紀に至って珠洲焼は「廃業」に追い込まれたのである。(さらに詳しく珠洲焼を学びたい人は「珠洲焼資料館」でご覧頂きたい。)
 15世紀に廃れた珠洲焼は、昭和53年に地域活性化と伝統文化再生のため復活した。現代でも珠洲地方では珠洲焼が当時のように焼かれ作品が販売されているので、お土産としても重宝する。(資料館向かいの珠洲焼館で写真13・14のような珠洲焼が購入可能。)
(写真11)珠洲焼資料館
珠洲焼資料館

「珠洲焼資料館」について詳しくはHPを参照のこと。)
(写真12)
『珠洲焼〜その歴史と再興〜』

珠洲焼〜その歴史と再興〜
(写真13)
現代珠洲焼の片口鉢

現在珠洲焼の片口鉢
(写真14)
現代珠洲焼の湯のみ
現代の珠洲焼
●製塩業●
 能登は半島と言う特性から海の恵みに恵まれていたと言える。それゆえ、海水を利用した製塩業も発達していた。ここでは、『珠洲焼〜その歴史と再興〜珠洲焼フォーラム報告書』の網野善彦氏の指摘(P.64〜67)を中心に能登の製塩業を述べて行く事とする。
 海の水から塩を作るためには釜で水を煮る必要があり「塩釜」は製塩業にとって必要不可欠なものであった(注7)。能登では中世にも「能登釜」が知られ、これを「塩釜」として利用していたと思われる。この「能登釜」は中居の鋳物であろうと思われる。ただ、「能登釜」は課税対象となっており京都に贈答品などとして送られているが、塩は京都には送られていない。つまり能登の塩は年貢になったのではなく日本海海上交通の流通に乗っかって販売されていたのではないかと網野氏は指摘する。人間が生きるには欠かせない塩は船の補給として各港で販売・流通されていたのであろうか。
(写真15)能登塩田村塩の資料館
奥能登塩田村
●漆工業●
 能登輪島といえば、今でも「輪島漆器」で有名である。本物の輪島漆器となればコーヒーカップですら1つ5万円以上する高級品である。中世室町時代に輪島に漆業があったかどうかわからないが、1507(永正4)年、輪島市の東町野庄岩倉寺では濃い朱漆塗の棟札が現存し、前田時代の1582(天正10)年には漆師を含む鍛冶職人に諸役皆面を停止を命じていることからすでに漆業が発達していたとみられる。今後の中世輪島漆業の発達の歴史の解明を待ちたい。

(5)能登の金山開発
 宝達山(羽咋郡宝達志水町)の金山開発に努めたのが7代守護・畠山義総であった。それまで能登国では金山は発見されていなかった。戦国時代大名がこぞって金山開発をしたことを考えると、義総の考えには先見性がある。しかし、結局宝達山では金は採掘されないうちに1577(天正5)年能登畠山家は滅亡してしまった。義総の金山開発は一見失敗のようにみえるが実は違った。江戸時代の前田藩政期になって宝達山から金が採取されたのである。この事から義総の金山開発事業は決して多大な費用をかけた無謀な事業だったのではなかったのだ。まさに領国運営に長けた義総の先見の銘の政策の1つであると言うことができよう。
宝達山
(写真16)↑遠くにある一番高い山が宝達山
(JR宝達駅から撮影)

(6)対外交易
 国内の海上交通における能登の重要さは、前述(2)で指摘した通りである。すでに前述したように当時民間定期船など一般的に広く日本海海上交通が利用されていたことを考慮すると、関銭・船改銭(通行税)には莫大な利益があったと思われる。その為に、能登島二穴城などに海上見張り施設を構え、海上交通を把握したのである。また海上交通を利用して、越後や出羽などの馬の産地から大量に馬などを購入しており、それを都への贈答品としても用いるなど、畠山氏にとって海上交通の利用価値はかなり高かったと思われる(詳しくは能登島と海と畠山氏参照)。
 さらに、明と朝鮮とも貿易していたかもしれない痕跡が能登畠山家には見られる。すなわち朝鮮の史料『海東諸国記』と『成宋康靖大王実録』によると畠山義忠やその子(実は孫である)畠山義勝(義統ヵ)が朝鮮との交易を行い朝鮮に遣使を派遣したとの記述がある(詳しくは畠山義統特集を参照)。実際に朝鮮と交易が行われたどうかは定かでないが、東四柳氏(注4)論文によると、畠山義続が1554年に本願寺に贈った「虎皮」は、「朝鮮北部やシベリアが生息地とし、特産品が明瞭に見られる品物で、日本海貿易を代表する対岸かわの貿易品であったという。」ともある事から、少なくとも朝鮮特産品が能登に入ってきていることを示している。これは、何らかの形で外国との交易が行われている可能性を示唆するものである。

(7)能登の文化的発展
 能登には発展した港があったため日本海海上交通を通じて中央などと盛んな交流があり、それらが能登の文化的発展を助けたと言える。さらに能登畠山家は有力大名で当初は在京大名で幕閣の権力者グループ「御相伴衆」にも属していたので、当主の文化的水準はかなり高かったと言える。それでは、これがどのように能登の文化的発展に繋がったのだろうかみていきたい。
 2代畠山義忠は幕府の和歌会には必ず列席するほど和歌を好んだ。自邸でも度々当代一流の雅友である正徹、尭孝などの文化人を集めて和歌の会を催した。また、義忠は早歌の名手、蹴鞠。松囃、猿楽などの芸能にも精通し幕閣の守護大名のなかでも風雅の士として名が高かったと言われている。3代畠山義統は義忠の跡を受け幕閣の中枢にあり、他の大名と交流を持ち文化にも精通していた。1477(文明9)年能登に下向してからも数々の文化人が下向している。例えば、能で有名な京の観世大夫氏重は、七尾城中で盛んに能が催されたと言う。また、歌人で有名な招月庵正広は義統の招請で1480(文明12)年〜1481(文明13)年と1482(文明14)年〜1486(文明18)年の2度にわたって能登に下向し滞在し、数々の歌会や歌合を義統やその家臣と行っている。この頃から家臣も文芸に関心を寄せていたのがよくわかる。京風の文化は義統の能登下向により、能登に確実に根づいてきたのである。義統の息子畠山義元畠山慶致も文芸に精通していた。
 そして、能登の文化的発展の絶頂期は7代畠山義総の時であった。城下七尾には(図3)(図4)のように義総を頼ったり招請によって多くの文化人が能登を訪れた。その七尾城には7万冊の蔵書が収められ、義総以下、温井総貞丸山梅雪ら主な家臣らが文芸に対して熱心に取り組み、京風の文化を能登畠山文化として能登に展開した。その影響は大きかったようで、七尾城下町では、丸山梅雪の関係で茶道が普及していたことや、香炉の発掘で香道が行われたことが発掘調査によって指摘されている(注8)。また、中居鋳物師の宮崎釜九郎が能登で茶釜を作ったと言う記録もある。さらに、義総は当時はあまり注目されていなかった儒教にも取り組んで、それらを政治理念に導入するなど、先進的な学問大系をもっていたと推測される。
 しかしその発展した文化も、次の義続の頃からの戦乱で次第に失われていったと言われるが、8代畠山義続時代の1550年6月20日には「多賀神社文書」に日吉大夫が能州在国したことが知られるし、9代畠山義綱時代には、1561(永禄4)年には長続連が自邸に義綱を歓待し能や狂言を披露したり、1562(永禄5)年の能登一宮気多大社造営の儀の際には猿楽を行ったり、その後の義綱は当世で一級の軍医・曲直瀬道三医道に医道の相伝を受けるなどやはり歴代の当主及び家臣は文芸に関心が深かったようである。能登の国内の混乱で文化的業績は目立たなくなっているものの、確実に文化的センスは畠山歴代当主に受け継がれたようである。上杉謙信の能登進攻(1576年〜1577年)によって古文書が上杉軍に焼かれ、能登畠山家文芸は記録に残っているのは少ないが、確実に高度な文化が当主及び家臣そして七尾城下に根づいていたと言える。
 建築計画による発掘調査などから一部貴重な七尾城下町の遺跡が発掘されているが(七尾シッケ地区の発掘調査結果と出土品・遺構状態などは七尾市教育委員会刊行の『七尾シッケ地区発掘調査報告書』に詳細に記録されている)、まだまだ全容解明とはいかない。七尾城全体の発掘調査と七尾城下町の発掘・保全を急ぎ実施を望むばかりである。
(写真17)
『七尾シッケ地区発掘調査報告書』

七尾城跡シッケ地区調査報告書

(図3)文化人能登下向者表
身分 人名
公卿 冷泉為広、冷泉為和、持明院基規、持明院基春、勧修寺尚顕、
勧修寺尹豊、船橋のぶ賢、転法輪三条公頼、甘露寺伊長、他
僧侶 上乗院僧正、永俊、虎伯、彭叔守仙、他
連歌師 月村斎宗碩、宗[王賛]、寿慶、永閑、宗牧、他
歌人 岩山道堅、正[音_]、圭純、他
猿楽大夫 日吉大夫、他
(『図解 石川県の歴史』より抜粋)
(図4)文化人能登下向者の内訳表
年代 公家
地下人
僧侶 文化
芸術人
目的
永正十三年〜永正十五年(1516〜18) 1 - - 1 - -
永正十六年〜大永元年(1519〜21) - - - 1 - 1
大永二年〜大永四年(1522〜24) - 1 6 7 - 6
大永五年〜大永七年(1525〜27) 6 1 7 14 4 8
享禄元年〜享禄三年(1528〜30) 4 2 5 11 5 5
享禄四年〜天文二年(1531〜33) 2 2 2 6 - -
天文三年〜天文五年(1534〜36) 1 1 2 4 1 -
天文六年〜天文八年(1537〜39) 1 1 2 4 1 -
天文九年〜天文十一年(1540〜42) 1 2 2 5 - 5
天文一二年〜天文十四年(1543〜45) - - - 0 - -
18 9 27 54 11 26
※目的はAが荘園所領年貢督促・直務支配・困窮による下向、Bが畠山氏の招請・文化活動
(『図解 石川県の歴史』より抜粋)
 

(注釈)
(注1)弘治の内乱で温井・三宅連合軍(反乱軍)が、占領地の知行宛行に従来使用された疋高ではなく貫高で宛がった。しかし、「七十余貫」という抽象的な数字となっているのは、占領軍がまだその実態を掴んでいなかったことを物語る。
(注2)東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号,1972年
(注3)青苧は“あおそ”と読み、苧麻の皮から採った繊維である。これを糸にして布にするものである。越後の特産品であり主要な輸出品であった。
(注4)東四柳史明「日本海交通の拠点能登」『中世の風景を読む』新人物往来社,1995年より
(注5)(共著)『日本城郭大系 第7巻』新人物往来社,1980年より
(注6)新川郡守護代椎名氏の領国内では海賊行為は結構あったと射水市新湊博物館学芸員松山氏は指摘する。
(注7)一説には塩釜製塩より効率のよい「揚浜式塩田」の能登での登場は江戸初期とも言われる(奥能登塩田村パンフレットより)。
(注8)「『七尾城と城下町』−能登畠山氏の町作り−を開く」『石川考古』246号,1998年より

参考文献
網野善彦(編)『日本海世界と北陸』神奈川大学日本常民文化研究所,1995年
網野善彦『海民と日本社会』新人物往来社,1998年
網野善彦(編)『中世の風景を読む第六巻-内海を躍動する海の民-』新人物往来社,1995年
石井進(編)『図録 能登中居の鋳物』穴水町教育委員会,1997年
吉岡康暢(監)『珠洲焼〜その歴史と再興〜珠洲焼フォーラム報告書』珠洲市教育委員会,1995年
和嶋俊二『奥能登の研究』平凡社,1997年
穴水町教育委員会(編)『穴水城跡-調査概要報告書-』穴水町教育委員会,1990年
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