能登畠山家武将総覧
(さ行〜た行)
斎藤 時和(さいとう ときかず) |
生没年不詳 |
畠山義忠被官。1447(文安4)年に畠山義忠が万里小路時房邸を訪ねた礼として太刀を贈るための使者として「斎藤時和」の名が見える。(「建内記」) |
詳細情報なし |
佐脇 綱盛(さわき つなもり) |
生没年不詳 |
四郎右衛門尉。美濃守。長隆・綱盛・綱隆。義綱政権の奉行人。1561(永禄4)年(須々神社文書)や1563(永禄6)年(諸橋文書)の臨時課税の発給文書に「佐脇長隆」の名で他の奉行人らと共に連署している。義綱追放後は、近江に付き従って能登御入国の乱では飯川光誠とともに義綱の側近として参加。後、義綱の下を離反し、義慶方に復帰し、1571(元亀2)年には義慶政権筆頭奉行人となった。 |
詳細情報なし |
佐脇 秀隆(さわき ひでたか) |
生没年不詳 |
与次郎。畠山義元に仕える。珠洲郡下町野荘行遠(輪島市)に所領をもち、1510(永正7)年1月11日に田を同荘岩蔵寺観音堂造営料として寄進している。 |
詳細情報なし |
佐脇 宗隆(さわき むねたか) |
生没年不詳 |
畠山義統に仕える。義統が応仁の乱で敵対した将軍義政に1478(文明10)年赦免されたので、宗隆はその使者として入洛し礼物を進上した。 |
詳細情報なし |
成身院 宗歓(じょうしんいん そうかん) |
生没年不詳 |
鳳至郡の真言宗明千寺の僧。畠山義総・義続側近の政僧。義総と三条西実隆との文芸交流の交渉や、室町幕府、石山本願寺など外交交渉務めた。能登畠山氏には有名な3人の政僧がいる。畠山義続に仕えた安国寺留雲斎。畠山義綱に仕えた孝恩寺存貞。そしてこの、義総に仕えた成身院宗歓(真言宗明千寺)である。1517(永正14)年には能登を来訪していた冷泉為広の門弟となった。 |
詳細情報なし |
神保 氏張(じんぼ うじはる) |
1527-1592 |
神保氏重の子。畠山家の被官ヵ。守山城主。 |
詳細は一門特集 |
神保 周防守(じんぼ すおうのかみ) |
1513?-1577 |
実名不詳。総誠の子。孫四郎・宗左衛門尉。一説に長頼、長親とも言う。義綱の近臣。父にかわって、義綱政権の対本願寺交渉を担当。義綱が追放されると付き従って、能登御入国の乱にも参加し義綱軍の主力として初戦の勝利に貢献した。長頼を周防守とすれば、後に義綱方を離反して義慶方に付き、1577(天正5)年に松波城攻防戦で戦死する。長家史料では享年64歳と伝えるので、逆算すると1513年の生年となる。
平信光の娘に神保周防長種の室となっているものがいるが、長種はこの周防守と同一人物かはわからない。『七尾城主畠山記』(78頁より)によれば周防守長頼は知行2000余貫と言い、長家史料では知行300石と言う。 |
詳細情報なし |
神保 綱親(じんぼ つなちか) |
生没年不詳 |
伯耆守。義慶政権下の1573(元亀4)年、珠洲の永光寺の末寺・峰寺に田地と屋敷を寄進し、諸役を免除している。年代的にみて、「綱親」の「綱」の字は畠山義綱の偏諱と思われる。 |
詳細情報なし |
神保 就宗(じんぼ なりむね) |
生没年不詳 |
仮名五郎。1483(文明15)年、堀松庄に八幡宮神殿を就宗が石水三郎左衛門就秀とともに大檀那となり造立した(「河野文書」より、坂下喜久次『七尾城と小丸山城』P311より)。 |
詳細情報なし |
神保 長秀(じんぼ ながひで) |
生没年不詳 |
出雲守。周防守(長頼ヵ)の子と言われる。長家史料によると、七尾城攻防戦の後、松波城に逃れた。同城落城後は長連龍に仕えたという。 |
詳細情報なし |
神保 慶明(じんぼ のりあき) |
生没年不詳 |
出雲守。1520(永正17)年の越中永正の乱では能登畠山・河内畠山・越後長尾の使者役を勤める。神保慶宗の弟と言われるが、一説には能登畠山家に近い神保氏とも言われる。久保尚文氏は『越中中世史』において、慶明の「慶」はあるいは5代当主畠山慶致の偏諱かもしれないとしている。 |
詳細情報なし |
神保 総誠(じんぼ ふさのぶ) |
生没年不詳 |
宗左衛門尉。一説には綱誠とも言う。畠山義総・義続に仕える。対本願寺の交渉役を務める。また1528(大永8)年には義総の申次となって三条西実隆の所へ行くなど(『公頼公記』大永八年二月二十九日条)、文芸交流の奏者にもなっているほどの外交上重要人物である。文化面では歌道に精通していたのか、1517(永正14)年、能登を来訪していた冷泉為広の門弟となっている。 |
詳細情報なし |
神保 元康(じんぼ もとやす) |
生没年不詳 |
与一。畠山義元の代官を務める。1513(永正10)年に、高勝寺に諸役の免除をした。「元康」の「元」は畠山義元の偏諱。ちなみに1511(永正8)年に足利義稙に義元が従軍して活躍した舟岡山合戦の時の名前に、「遊佐弾正・神保・小坂・長九郎左衛門」の名がある。この「神保」は義元の下で活躍したから代官となった元康の可能性もある。7代当主・義総の治世である1541(天文10)年に、為和が七尾に滞在した時、「神保与一」という人物が為和の門弟になるため、同年9月7日入門誓紙を為和に送っている。年代的にみて30年ほどの差があるので同一人物であるか、または元康の子可能性もある。 |
詳細情報なし |
杉山 則直(すぎやま のりなお) |
生没年不詳 |
長続連の次男。畠山義隆・春王丸に仕える。杉山家に養子に行く。 |
詳細情報なし |
鈴木 因幡(すずき いなば) |
生没年不詳 |
実名不詳。長連龍の臣。 |
詳細情報なし |
高田 中務少輔(たかだ ちゅうむのしょう) |
生没年不詳 |
『能登畠山史要』によると1576(天正4)年の謙信侵攻の際、畠山方の将として七尾城内の守りについている。 |
詳細情報なし |
鷹合 兵衛(たかごう ひょうい) |
生没年不詳 |
実名不詳。鹿島郡国分村(七尾市)に住み、畠山氏に仕える。鷹合氏の家紋・糸巻に渡辺星という紋は畠山氏から与えられたものとされる。 |
詳細情報なし |
長 景連(ちょう かげつら) |
生没年不詳 |
長氏の庶流である黒滝長氏の一族。。義綱政権の奉行人。 |
詳細情報なし |
長 続連(ちょう つぐつら) |
?-1577 |
九郎左衛門尉・対馬守。法名長家第19代当主。穴水城城主。平秀連次男で長秀連の養子となる。畠山義続、義綱、義慶、義隆、春王丸に仕える。 |
長続連特集 |
長 綱連(ちょう つなつら) |
1535-1577 |
九郎左衛門尉。長家第20代当主。続連の嫡男。義慶・義隆・春王丸に仕える。 |
長綱連特集 |
長 連理(ちょう つらまさ) |
?-1577 |
三河守。長氏庶流。義綱政権の筆頭奉行人として領国経営の中枢に位置して、奉行人を中心とした義綱政権を支えた。しかし、永禄九年の政変後は義慶に仕えた。1576年からの謙信の能登侵攻では、謙信が一時能登を退いた時に能登の各城奪回作戦に参戦。しかし、穴水城を包囲している時に謙信の能登再侵攻の報を聞き、殿軍の一員として七尾城に引き返したが、撤退戦で津向にて討ち死した。 |
詳細情報なし |
長 英連(ちょう ひでつら) |
?-1560 |
九郎左衛門尉。長家第18代当主。入道して慶ト。法名熟巌良能定門。長教連の子。一説には、長家は英連の代になって畠山家の臣になったという。英連の嫡男は早世したため、娘を甥続連の室として長氏惣領を継がせる。なお、英連の女子は「仁岸宗心室」となっている。天文末年(1554)にはすでに嫡子続連に家督を譲っており、1560(永禄3)年5月13日に死去した(『藤沢山過去帳』)。 |
詳細情報なし |
筒井 孫次郎(つつい まごじろう) |
生没年不詳 |
1531(享禄4)年に輪島市にある重蔵宮の神輿再興する面々の中に、温井孝宗の代官として筒井孫次郎の名が見える。 |
詳細情報なし |
寺岡 経春(てらおか けいしゅん) |
生没年不詳 |
弾正忠。義統に仕える。義統が1483(文明13)年作った『賦何船連歌』に名を連ね十句を詠んでいる。また、1486(文明16)年に招月庵正広が能登より帰京する際、天神の絵像を所望するするなど、文化面に精通している。 |
詳細情報なし |
寺岡 紹経(てらおか つぐつね) |
生没年不詳 |
四郎左衛門尉。義綱政権の奉行人。紹経は1562(永禄5)年に義綱が正親町天皇の勅許を得て能登一宮気多大社の造営をした際、今井綱秀と共に社務奉行を務める(『能登一宮気多社棟札』)。1573(天正元)年に義慶が気多社の造営を行った際の名簿にも名前があり、永禄九年の政変で義綱が追放された後は、義慶に仕えた。 |
詳細情報なし |
富来 綱盛(とぎ つなもり) |
生没年不詳 |
小次郎。後に胤盛。義綱政権の奉行人。1565(永禄8)年には奉行人として富山湾の鰤漁に規制をかけ、諸役(税)を課した。永禄九年の政変で義綱追放後は、義綱に従い近江坂本に逃れ側近として活躍する。能登御入国の乱にも参加し、曲直瀬道三との交渉としても活躍する等飯川光誠と共に「義綱亡命政府」主軸として活動した。義綱が「義胤」と改名した際には「綱盛」も「胤盛」と名前を改めているあたり、義綱への忠誠が伺える。1570(元亀元)に、安竹齋後室の法楽連歌会に出席している(「継芥記」) |
詳細情報なし |
得田 章種(とくだ あきたね) |
?-1576? |
得田秀章の嫡男。父とともに、上杉謙信の侵攻により荒山で戦死する。 |
詳細情報なし |
得田 秀章(とくだ しゅうしょう) |
?-1576? |
佐渡守。入道名秀章。実名不詳。羽咋郡得田荘を本拠とする国人。畠山義綱・義慶・義隆に仕える。1567(永禄10)年、安養寺に七間四方の講堂を造立しさらに社領も寄進して熊野社の再興をはかったと伝えられている(東四柳史明『半島国の中世史』155頁)。上杉謙信の侵攻により鹿島郡の荒山で戦死した。1547(天文16)年、秀章の三子が剃髪して以竹瑞貞と称し父の外護を得て道興寺を中興したとされる(道興寺寺伝)。 |
詳細情報なし |
土肥 茂次(どひ もちつぐ) |
?-1584 |
伊予守。土肥親真の甥。羽咋郡得田荘を本拠とする国人。畠山義綱・義慶・義隆に仕える。1583(天正11)年に親真が戦死すると、新しく末森城主となった奥村永福の副将となった。茂次は翌年(1584)の末森城の戦いで戦死する。 |
詳細情報なし |
土肥 親真(どひ ちかざね) |
?-1583 |
但馬守。末森城主。妻は利家夫人の姪(末守殿)。大槻の合戦において義綱方に付くが、敗退した遊佐続光をかばった。1576(天正4)年の上杉の能登侵攻の際は、上杉方に寝返り七尾城を攻める。その後は前田利家に服し、1583(天正11)年長連龍に従い出陣し、柳ヶ瀬にて戦死。彼の死後土肥家は家次が継ぐ。 |
詳細情報なし |
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