末森城(末森城址)
<石川県指定史跡>
↑末森城鳥瞰図(広報『宝達志水』36号,2008年より<転載不可>)
読み仮名 | すえもりじょう |
別名 | 末守城 |
所在地 | 羽咋郡宝達志水町竹生野 |
形式 | 山城 |
築城者 | 不明 |
築城年 | 不明 |
遺構 | 城郭跡が僅かに見られる |
歴代城主 | 土肥氏(→上杉氏→前田氏家臣・奥村氏) |
交通 | JR七尾線宝達駅、徒歩40分 |
備考 |
末森城に居城としたとされる土肥氏の初見は1577(天正5)年のことである。城主・土肥親真は、上杉謙信の能登侵攻の援護をして、謙信軍の基地として末森城が使われていた。このため土肥親真は末森城の城主となった。その後、親真は前田に服し、1583(天正11)年に長連龍に従って出陣した時戦死し、その跡は家次が土肥家を継ぐ。末森城は親真の死後奥村永福が城主となり、土肥伊予守茂次がその副将となっている。 織豊時代よりも前の末森城については、『長家家譜』などの伝承によると1553(天文22)年に土肥但馬守親真が大槻・一宮の合戦に巻きこまれ、同合戦で敗れた遊佐続光を保護したという記録も残っている。親真は『能登志徴』に「このとき但馬四万石を領す」とある。 古文書など良質な史料には能登畠山家時代の土肥氏については書かれていないが、1985(昭和60)年〜1988(昭和63)年にかけて行われた発掘調査では、15世紀中頃と見られる瀬戸焼・美濃焼の天目茶碗が出土している。さらに、15世紀後半〜16世紀前半と思われる白磁の皿など生活用品や娯楽用品なども城跡から見つかっており、末森城は、古文書には見られないが室町時代から防衛拠点としての役割だけでなく、生活拠点としての役割もあったようである。 城跡には、中心部に「本丸跡」、その南側に「二の丸」、南西部に「若宮丸」があり、それを囲むようにして、「馬掛場」や「武家屋敷」があったとみられている。駐車場も城域もしっかり整備されているので、城を見に行くのは適した城である。 |
<★☆★末森城址その他の写真★☆★>
(写真をクリックすると拡大できます)
↑本丸跡 (写真提供:畝源三郎殿転載厳禁) |
↑若宮丸から発掘された柱穴跡 (資料提供:宝達志水町転載厳禁) |
↑土坑の発掘状況 (資料提供:宝達志水町転載厳禁) |
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↑国道159号線を七尾方面に走ると 大きな看板が見えてくる。 |
↑看板が見えてから国道を西に行くと 駐車場です。 |
↑駐車場には案内図がある。 とても大きな城であることがわかる。 |
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↑本丸まで徒歩20分 |
↑駐車場から城域へ |
↑やっぱり前田家関係ね… |
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