はじめに
今一度自分のサイトを見直してみると、歴史を学ぶ初学者に優しくない「簡単なことを難しく書く」ページになってないかなって思いました。そこで皆さんにぜひ、能登畠山家の魅力を知ってもらおうと、プロデュースするのがこのコンテンツ「初級能登畠山家講座〜これであなたも能登畠山通になれる〜」です。内容としては、できるだけ能登畠山家について。わかりやすく平易な言葉でまとめようというものです。能登畠山の歴史入門編としてお読みいただければ幸いです。
さて、皆さんは能登畠山家というと、どういう印象をお持ちでしょうか?「信長の野望」というゲームによって「すぐ近隣に滅ばされる弱小大名」という印象であったり、北陸に住んでいる方でも「上杉謙信」は知っているけど、「謙信に滅ぼされ弱い大名」という印象だったり、「江戸時代の加賀百万石の大名家であった前田家は知っているけど能登畠山家は知らない」と、あまりちゃんとしたイメージを持っている方も多くはないでは?
しかし、能登畠山家は歴史好きな人に実に面白い素材を与えてくれるのです。「朝倉氏城下町の一乗谷と並ぶくらい繁栄した城下町」「豊かで高い文化水準」「日本の五大山城と言われる居城」「室町幕府の幕閣に列する」「知勇兼備の優秀な当主達」。皆さん信じられるでしょうか?これらはすべて能登畠山家に当てはまるのです。地元七尾の方でも「七尾が一番発展していたのは能登畠山氏の時代」という方もいるほどです。「朝倉氏城下町の一乗谷と並ぶくらい繁栄した城下町」と遜色ないほど小京都と呼ぶに相応しい繁栄を見せた畠山家居城七尾の城下町。「豊かで高い文化水準」は3代義統や7代義総の連歌集(県指定重要文化財)に代表されるように、歴代当主・家臣が文化に精通していたこと。「日本の五大山城と言われる居城」は、あの上杉謙信が2年経っても実力で攻め落とす事ができなかった七尾城のこと。「室町幕府の幕閣に列する」は初代満慶、2代義忠、3代当主義統、4代・6代義元が、室町幕府の最高権力者グループである「御相伴衆」に任命されていること。「知勇兼備の優秀な当主達」は、3代義統、7代義総、9代義綱の業績にみることができます。特に、9代義綱は能登畠山家を戦国大名に脱皮させようとした当主として、再評価されるべきでしょう。現代の能登は「能登の里山里海」がFAO(国際連合食糧農業機関)によって2011(平成23)年に世界農業遺産に指定されたいわゆる自然豊かな日本の原風景として観光的な魅力が紹介されていますが、能登畠山氏が領した室町・戦国期の能登は、中世の日本海の主要地に位置づけられるほど重要な国でかなりの都心だったのです。
このように、能登畠山家はただ歴史に取り残されて滅んだ大名家ではなく、実に室町・戦国の世に様々な軌跡を残した大名家なのです。このコンテンツで皆さんが能登畠山家に興味を持ってもらえるようになれば幸いです。それではいよいよ「初級能登畠山家講座」のスタートです!まず始めに日本全国にいる畠山家から見てまいりましょう。
(1)意外に知られていない畠山の嫡家
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「白い地図工房」様のホームページ
昔の日本人は、とにかくどの血筋かってことを気にしましたよね。源氏?平氏?はたまた藤原氏か。畠山家は桓武平氏の出身と言われています。平姓畠山氏で有名な人物としては、「畠山重忠」がいます。結構この重忠は有名で埼玉県や横浜市などでは一部教科書などでも登場するようです。平姓畠山家の一族は、実力をもっていたがゆえ、鎌倉時代に執権北条氏一族に疎まれて滅亡させられてしまいます。そこで、名族の家筋断絶を惜しんだ源氏血筋の足利家が重忠の妻だった人物と(足利義純を)再婚させ、畠山家を復活させます。これによって、畠山家の血筋は「源氏」へと変わり、「足利一門」としての室町時代を迎えるのです。
ところで、畠山家嫡家(宗家)がどこにあるか知っていますか?畠山家といえば、日本史の教科書でもでてくる応仁の乱で兄弟争いをした「畠山政長」と「畠山義就」が真っ先に思い浮かぶかもしれません。しかし、実は源氏畠山家嫡家は二本松にあるのです。二本松畠山家といって真っ先に思い出すのは、あの独眼流伊達政宗の父輝宗を誘拐して、最期は政宗の鉄砲によって撃ち殺されたという「畠山義継」が思い浮かぶのではないでしょうか?まさにこの畠山家が源氏畠山家の嫡家(宗家)で、畠山義純から数えて、畠山義継で15代目となります。ただ、室町時代も中頃になると、すっかり二本松畠山家の勢力は弱くなります。その代わり河内へ行った源氏畠山家の庶流の河内畠山家の畠山基国という人物が、室町幕府の3代将軍・足利義満に斯波氏や細川氏に対抗できる足利一門の家柄に注目されて幕府の要職である管領に任命されます。これにより河内畠山家は三管領の家柄となり、まるで畠山家の嫡家のような役割になってしまうのです。でもあくまで血筋上は二本松畠山家が嫡家です。では、能登畠山家はどこから来たのかというと、河内畠山家の庶流にあたります。ですから、畠山家の血筋の順序から言えば「1.二本松畠山家→2.河内畠山家→3.能登畠山家」という順序になります。ただ、河内と能登の畠山家の交流は積極的にあったようなのですが、二本松と他の畠山家が交流の交流は断片的にしか知られません。これは二本松畠山家の史料がほとんど残っていないことが原因のひとつにあげられます。
それでは次に、いよいよ能登畠山家の動きをみていきましょう。
(2)畠山家の能登入国はすんなりOK
能登畠山家は、1408(応永15)年に畠山満慶が兄の満家より能登一国を分離して与えたのが始まりといわれています(詳しくは畠山家の出自・能登畠山家のおこり参照)。その頃の大名は室町幕府から「守護」に任命されて任せられた国を治める権利を得たことから「守護大名」と呼ばれるようになっていました。この時代の守護大名は一般的に在京して室町幕府を支えていました。そのため、任された国には大名の代理として統治する守護代を派遣して実際の政治をおこなっていました。畠山満慶も在京して能登には住んでいませんでしたので、。京都から遊佐氏を守護代として能登に派遣しました。
初期の能登畠山家は本国(ここでは河内畠山家)から連れてきたいわば出向社員のような家臣を連れて、遊佐氏・誉田氏などが能登入りします。それに対抗して、能登国内では、よそから入って来た新社長(ここでは能登守護の畠山氏)とその重役達(ここでは守護代のこと)を排除する者、新しい社長に取り入る者とがいたようです。最初こそ、能登畠山氏に対抗する勢力は勢いがあったようですが、畠山の家臣となった者達以外は没落してしまったようで、比較的能登畠山氏の支配は安定しました(最も、能登畠山家に属したくないので、もっと上級の権力=将軍家に仕えた奥能登の長家みたいな武士もいました)。こうして、満慶に始まる11代(満慶−義忠−義統−義元−慶致−義元−義総−義続−義綱−義慶−春王丸)、170年に及ぶ能登畠山家の能登の治世が始まるのです。
(3)守護大名としての畠山家、戦国大名としての畠山家
歴史ファンの中でもとりわけファンが多いのが「戦国時代」。強いものが弱いものを駆逐する「弱肉強食」が、「下剋上」の風潮を産み、室町幕府を支える守護大名を自力でのし上がった「戦国大名」が駆逐する地域もある一方、守護大名が「戦国大名に変化する」例も見られました。では、能登畠山氏は守護大名から戦国大名に脱皮できたのでしょうか。答えは否です。さてそれでは、戦国期の能登畠山家の政治の動きを守護大名的側面、戦国大名的側面からみていきましょう。
まず、守護大名的側面からです。前にも書きましたように、能登畠山家はもともと幕府を支える在京大名でした。しかし、その転換期が訪れたのは15世紀半ばでした。将軍家や河内畠山家の跡目争いに端を発し、山名宗全率いる西軍と細川勝元率いる東軍とにわかれて争った戦乱。いわゆる応仁の乱です。能登畠山家は現将軍である足利義政と敵対する畠山義就側、つまり西軍に味方しますが、戦況は西軍に厳しい状態になってきます。応仁の乱の時能登畠山家の当主でだった「畠山義統」にも将軍直々に「東軍に寝返るように」お達しが来るのですが、西軍の有力大名と共に西軍にとどまった為、将軍にかなりの怒りを買います。そこで、西軍の有力大名は京都にいられなくなり、一端美濃(岐阜県)に逃げます。そこで何度も将軍に謝罪し許してもらうのですが、それでも将軍から冷遇されたので、それぞれが分国(領地)に戻ることになりました。こうして畠山義統は能登に下向して留まる事になります。こうして、能登畠山家では3代義統より在国大名となるのです。
大名が下向し、分国で大名支配の基盤を強化する。一見強力な支配をひく、戦国大名の政策のようにも思えますが、能登畠山家ではちょっと違います。下向した理由は「将軍に嫌われて京都に戻れなかった」という理由があり、能登畠山家の「守護大名」としての立場が危うくなります。つまり能登畠山氏は守護大名的側面を持った大名だったのです。さらに、大名が在国するようになっても、「守護−守護代」体制を維持して、強力な大名直接支配を行いませんでした(この体制は、9代畠山義綱のときに打破されます)。また、能登畠山氏には大名直轄軍の存在がありませんでした。つまり畠山氏は、家臣の軍事力で国を防衛していたのです。これは元々守護が京都にいたからこそなのでしょう。強力な軍事的な基盤がなければ、家臣達を直接強力に支配するのは難しかったことでしょう。軍事力が家臣に握られているわけですから、大名が強い態度で家臣に命令することはなかなかできないのです。その意味では、守護大名に強大な権力を与えて、その協力において成り立っている「室町幕府の将軍」の力が、応仁の乱後に弱くならざるを得なかった室町幕府のシステムと似ています。この守護大名的な政治システムは、安定した治世を築き上げたとされる7代畠山義総ですら打開できませんでした。つまり、強力な権力を持てなかった守護大名は家臣とのバランスを取って政治を行っていたことがわかります。だからこそ、バランスを失えば「下剋上」が発生してしまう状況になったのでしょう。
最近の戦国時代の研究では、「戦国大名」となった家は「守護大名」から転換が多くいると言われていますが、如何にその転換が難しいかがわかります。
そして、次に戦国大名的側面を見ていきましょう。そんな「団体」でも「今まである体制を変えようとするのは大変」なこと。無駄に思えるような組織やルールでも、それができた背景が必ずあり、その改変に関して反発する人が必ずと言って良いほどいます。例としては、プロスポーツだと、試合に勝てずチームが低迷すると必ず監督という立場が非難を浴びることが多いですが、監督の立場ひとりでチームを劇的に変えることはもちろん難しいです。プロスポーツの場合は、例えチームが低迷しても監督が交代となる場合となっても選手が全員交代する場合は多くありません。しかし、戦国大名の場合はどうでしょう。「組織の低迷が国力の低下や家臣の反発を招く」それは、他家の国内侵攻をもたらす場合が多くなります。となると、低迷した大名家のもの達は「命の危険」にさらされるわけです。もちろん家臣の全員が殺される訳ではないですが、「負けた家柄の家臣」として新しい大名家での立場はとても微妙なものになるでしょう。であるならば、家臣としては「現体制を維持したままで。できるだけ自分の権力を拡大する」というのは最も手っ取り早い行動となります。それはすなわち「自分勝手」とも言える行動です。だから、家中をまとめあげるというのはとても苦労することなのです。
能登畠山氏の戦国大名への本格的な動きが始まったのは、9代畠山義綱の時です。義綱の父・畠山義続の時、重臣達が合議で領国運営をする「畠山七人衆」という制度をスタートさせ、自分たちの権力拡大を目指し、強力な支配を目指す大名に対抗しました。しかし、義綱は、七人衆の紛争を利用して大名の影響力を奪回します。それが、弘治の内乱をきっかけとした、「義綱専制」を確立した時期です。この時期に義綱は、今までの重臣達を中心にした政治ではなく、自分の側近であった飯川光誠らを中心として数々の政策を実行します。しかし1566(永禄9)年に、大名権力の拡大に反発した重臣たちによって永禄九年の政変というクーデターを起こされ、義綱・義続父子が能登を追放されてしまうのです。大名と重臣という微妙な権力バランスを保ったまま大名権力の強化を行うのはある意味矛盾を抱えています。それが、一挙に噴出したのが、この永禄九年の政変なのです。この矛盾克服しなければ戦国大名への脱皮はあり得ないわけですが、それがなかなか難しい。全国の多くの守護大名が没落していった点はこの矛盾を克服できなかったことがひとつの要因です。畠山義綱はこれを積極的に打開しようとした戦国大名的守護大名であったと言えます。
一方で、重臣達は義綱追放後に、義綱の子である畠山義慶を当主として擁立しています。結局重臣たちは、自分たちが新たな大名になる「革命」よりも、「今までの体制を維持」する道を選びました。これは、義綱追放という大きな考えでは重臣達は一致していましたが、その後「能登のどう運営していくか」では対立していたということでしょう。結局「元通りにする」ことを選び、能登畠山家は戦国大名になる道が失われたと言えます。
(4)某歴史シミュレーションゲームでもお馴染み、あの畠山の家臣はいかに?
それでは、次に能登にいた主勢力を見ていきましょう。有名な歴史シミュレーションゲームでは、毎回登場する「遊佐氏」「長氏」「温井氏」の実際はどうだったのでしょう。「長氏」は16世紀まで、能登畠山氏の家臣とならずに将軍直属の武士(奉公衆)として独立を保っていました。その勢力範囲は、主に奥能登の穴水です。次に「温井氏」は元々在地の武士でありながらかなり早くから能登畠山家に取り入って勢力を広げました。、温井氏の勢力範囲は主に輪島です。当時幕府の有力者への贈り物によくつかわれた「輪島の素麺」はこの時期温井氏が産業育成をして、開発したものらしいので、かなりの力があったことが伺えますね。それから、能登畠山氏が奥能登に勢力を確保する意味で1474(文明6)年に能登畠山氏の庶流として創設した松波畠山家がいます。のちに奥能登の珠洲市周辺に力をもっていた松波氏を継いでいるので、能登畠山氏の支配が奥能登まで確実に伸びていったことがわかります。
さて、上記地図を見て不思議に思う方もいませんか。なんと守護代である遊佐氏の所領が見えないのです。珠洲郡や能登島にも少し所領があるようですが、長氏や温井氏のような大規模な所領はみつからないばかりか、遊佐氏の居城さえ見当たらないのです。その理由は2つ考えられます。守護代の遊佐氏は河内から派遣された家柄なので、元々の領地がなかった、という点。もうひとつは、戦国期に登場する「遊佐続光」という人物は、能登を出て行ったり、帰ってきたり、戦を起こしたりと、かなり悪評の高い人物とされています。1577(天正5)年の七尾城攻防戦では、上杉謙信の調略に応じて長家を斬殺して、七尾城を明渡し、その後上杉謙信の能登支配では中心になって政治を行う・・・などなど。しかし、それらの記述は幕末まで存続した長家側の二次資料なので、単純に全てを信じるわけにはいかない事情もあります。しかしながら、現在でも能登の人々で遊佐氏のことをあまり良く思っていない人もいるらしく、そのあたりに遊佐氏関連の史跡や古文書などが残っていない理由が隠されているかもしれません。
(5)中世能登は実は都会だった!?
現代の能登に行ったことがみなさんはありますか。能登は石川県にあります。石川県と言えば、加賀100万石の前田氏の城下町の金沢が観光地としてもで有名です。「金沢城」は大学が移転して復元がさかんに行われていますし、他にも「近江市場」「金箔の生産地」「兼六園」「忍者寺」など様々な観光地があり、2015(平成27)年には北陸新幹線が「金沢駅」まで延伸され、観光客も大幅に増えました。あと、石川県に関係する観光ガイドブックのタイトルは必ず「金沢」と書かれているそうです。「石川県」と書くと売上が減るそうです。「石川県」という名称よりも「金沢」という名称の方が現代では浸透しているようなのです。一方、同じ石川県である能登地方はガイドブックにもそれほどページを割かれてはいませんし、観光と言えば雄大な自然ばかりです。人口も広大な能登地方の割には全体でも20万人ほどしかなく、さらに人口が減る過疎化が進行しています。能登は「田舎」という認識が現代の方には多いようです。
では、中世の能登の「田舎」だったのか?というと、実はかなりの誤解です。中世能登は交通の要所で相当の都会でした。その理由は能登が「半島」という点でした。車も飛行機も電車もない戦国時代、物を輸送する主力は…船。馬や人では荷物を運ぶ量にも距離にも限界があります。当然馬も人も、生き物ですから「疲れる」わけです。ですので、中世の輸送の主力は、なんといっても「船」なんです。水の力で早く運べる。水の浮力で大量の荷物を運べる。つまり、川や海は現在の高速道路のような役割をしていたわけです。新潟(越後)で有名な戦国大名と言えば上杉謙信。その越後上杉家は京都に特産物を運んで儲けたのですが、当然その船のルートは日本海を取って若狭湾へ。若狭湾から琵琶湖を経由して京都へ、というものでした。この当時の船が能登に帰港する理由が2つあります。
1つ目は、この当時の「船が小さい」からです。現代のタンカーのような大きなものはなく、漁船程度の大きさです。越後の特産物をたくさん積荷として載せれば、食料や水は多くは積めません。そこで、沿岸の町で頻繁に補給する必要があります。高速道路ならSA(サービスエリア)やPA(パーキングエリア)のような場所です。日本海の沿岸には「三津七湊」(さんしんしちそう)と呼ばれる10箇所の大きな港がありました。安濃津(伊勢)、宇津(博多)、境津(堺)と、七湊は三国(越前)、本吉(加賀)、岩瀬(越中)、直江津(越後)、秋田(出羽)、十三湊(津軽)、小屋湊(能登輪島)の10箇所です。つまり現代で言えば「主要高速道路」である日本海会場ルートの「巨大SA」が「中世の能登」だったのです。また、商品を運ぶために必要な甕も必要であり、珠洲市では「珠洲焼」という陶器が作られ、遠くは北海道でも珠洲焼が出土されているほどです。それほど、日本海海上交通としての能登の重要性は高かったのです。
2つ目は「船が沿岸を通行していた」からです。この時代の船は小さく少しの荒波でも転覆や難破の可能性があるので陸の沿岸を航海していました。能登は半島ゆえ、能登の沿岸を回ろうとするととても時間がかかります。だからこそ、小さな船では最低でも能登で一箇所は補給をしなければなりません。つまり日本海を通る船は、必ず能登で寄港し、補給するのでお金を能登で使うので、港町は儲けが大きかったようです。能登の海は東西に分かれています。能登半島の西の海は「外浦(そとうら)」と呼ばれ、東の海は「内浦(うちうら)」と呼ばれています。外浦は西側からの風を受けるので、かなり波が高い。さらに帰港できる場所が限られているので、外浦では必ず能登に帰港せざるをえません。しかし、内浦は波も穏やかなので、東にそのまま行って越後や佐渡に行く例もあったようです。なので、内浦から直接越後に行くにはそこそこ長距離になるので、、能登輪島でごっそり食糧などを調達するため、輪島はSA(港町)という役割で相当栄えたのです。
このような理由で能登の港町は発達し、太閤検地で能登の石高は20万石強と測定され、農業生産が低く重要な地ではないと思われがちなのですが、その逆「農業で食べなくても十分庶民の仕事があった」というのが中世能登の風景だったのです。そんな日本海海上交通の要所である能登を支配する能登畠山氏は、経済的にも恵まれていたと言うことができます(詳しくは不定期特集の「能登の国力」参照)。
(6)上杉謙信でも実力で攻略できなかった七尾城
(七尾城の調度丸付近に残る石垣)
七尾城は日本の五大山城に例えられるほど堅固な城でした。七尾城の他は、春日山城(新潟県・上杉氏)、小谷城(滋賀県・浅井氏、観音寺城(滋賀県・六角氏)、月山富田城(島根県・尼子氏)です。戦争にとても強いと言われる越後・上杉謙信が2年かかっても実力で落とせず、結局能登畠山家内部の裏切りを誘って開城させたほどです。ではなぜ、これほどまでに堅固な城になったのでしょう?
皆さんはお城と言うとどのような城を想像しますか?だいたい、城といえば、江戸城・姫路城・大阪城といった壮大な天守閣をもつ江戸時代的な(近世的な)城を想像するのではないでしょうか?七尾城は姫路城のような立派な天守閣はありません。おそらく綺麗に石垣で作られた堀も櫓もなかったと思います。それは、七尾城が中世の山城だからです。上の七尾城跡の写真を見ていただければわかる通り、七尾城は山の中に作られています。つまり、山全体が城になっている天然の要塞を、さらに防御力を高めて改良したのが七尾城であるといえます。百聞は一見にしかず。ぜひ七尾城を訪れてください。車で上れば本丸まで歩いて10分。七尾城史資料館から徒歩で登れば本丸まで1時間ほどかかります。七尾城の堅固を実感していただくには、一番良い方法だと思います。また、このサイトでも、七尾城をバーチャル(写真)で登城体験する「バーチャル登城体験-七尾城-」もありますので、どうぞご利用ください。
さて、そんな堅固な七尾城はいつ出来たのでしょう?これは正確なことはわかっていません。初代当主満慶が築城したとも言われていますが、とにかくその時の守護の居館は七尾城ではなく、七尾府中から西の場所にあった守護所に居館がありました。つまり七尾城は普段から住んでいる場所ではなく、攻められたときの緊急避難としての砦の役割でした。そんな七尾城の役割に変化が訪れるのが7代当主義総の頃です。次第に改良・改修されていき、当主・義総が七尾城の城内に住むようになり、それにつられて城下町も七尾城の麓に引っ越してきます。普通は山城といえば、城下町と離れた所に位置し、商業流通から隔離され、次第に城下町に近い平城を新たに作る、というのが当時の大名の流行でしたが、畠山家の場合、見事山城と城下町を一緒にすることを実現したのです。さらに、元からあった能登七尾府中の町も町として存続して共存することになります(詳しくは都市としての「中世七尾都市圏」の発展参照)。そして、戦乱の波が能登にも押し寄せてくるようになると、七尾城は一層防衛上改修され堅固な城になっていきます。この頃にやっと七尾城は五大山城と言われる地位を確立したのでしょう。9代当主は七尾城の改修をみて上杉謙信に「当城いよいよ堅固に候」と手紙を送っています。よっぽど七尾城が堅固になって嬉しかったのでしょうか?それとも自慢したかった?まあ、その手紙を受け取った上杉謙信が、堅固な七尾城を相手に苦戦するのは歴史的な縁なのかもしれません。
七尾城は戦前の1934(昭和9)年に「国指定史跡」となるほどで、それほどこの史跡の重要性が早くから認められていたことがわかります。しかしその一方で、七尾城は長年発掘調査が行われず、その全貌がなかなか明らかになりませんでした。したがって「一乗谷朝倉史跡」と並ぶほどの城下町を有していたとは言っても、それは文献上だけで確認されおり、一乗谷史跡のように発掘調査でそれを証明することはなかなかできませんでした。しかし平成の世になって、開発や高速道路建設による発掘調査が行われ、「漆器片」や「金の加工片」が出土したり、その城下の発展振りがどんどん確認されてきています。さらに2020(令和2)年9月に七尾城本丸の発掘調査が始まりました。いよいよその七尾城の一端が分かるかもしれないと思うと壮大なロマンを感じさせます。
むすびに
以上カンタンに能登畠山家特徴を紹介しました。あまり難しい言葉は使わないようにまとめたつもりですが、このように能登畠山家の170年の歴史は実に多彩で、すべてのをこのコンテンツで紹介することはとてもできません。そこで気になったものをみなさんが調べやすいように、文章中にも参考コンテンツをリンクさせてもらいました。能登畠山氏に興味をもってくださった皆さんがさらに、深く調べてみたいと思って頂ける一助となれば幸いです。それでは最後に当サイトの内容の御案内をして「初級畠山家講座〜これであなたも能登畠山通になれる〜」を終了したいと思います。ありがとうございました。
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