その他の勢力との外交関係


<朝倉氏との外交関係>

 3代義統の応仁の乱の時、朝倉家に義統の弟政国を殺されていることから朝倉家との関係は最悪だったと思われる。その後、朝倉との関係は主に一向一揆との関係から生じていた。朝倉は一向一揆に目を付けられていた勢力の一つで、同じ一向一揆を敵にする立場として畠山家は「敵の敵は味方」の論理で朝倉家と表面的には友好的な関係を演出しているとみられる。1488(長亨2)年に冨樫政親が一向一揆に包囲された時、幕命にて能登畠山も越前朝倉も加賀に援軍を派兵している。また、加賀津幡の戦い(亨禄の錯乱)(1531年)では朝倉家と共同出兵して、守護勢力と協調体制をとる小一揆方の味方をした事実がある。しかしながら、応仁の乱時からの不和は16世紀中盤にも続いているようで、六角氏関係の史料に「先年、(六角氏の)娘を朝倉にほしいと内々に所望してきたが、(朝倉氏と敵対関係にあるが六角氏と親しい)畠山氏への義理があるので難しいと何度も断ってきた。」(村井祐樹著『六角定頼』ミネルヴァ書房、2019年、261頁より)と畠山氏と朝倉氏との関係を評している。と言うことは、畠山との共同出兵は、幕命により嫌々ながらのものであると言える。

能登畠山・朝倉関係年表
西暦 和暦 畠山当主 朝倉当主 関係 出来事
1470 文明2 畠山義統 朝倉孝景 敵対 義統(西軍)の弟政国が越前朝倉孝景(東軍)に殺害される。
1488 長亨2 朝倉氏景 険悪 幕命により一向一揆に包囲された冨樫政親を救援するため、畠山・朝倉から援軍を出す。
1531 享禄4 畠山義総 朝倉孝景 加賀の一向一揆の内紛亨禄の錯乱に介入し、畠山・朝倉小一揆方を支援する。

<六角氏との外交関係>

 能登畠山氏と近江の関係は15世紀前半からある。能登畠山氏は近江の余呉に荘園を持っていて京極氏に代わって地頭職を得ていた(詳しくは「能登畠山氏と余呉庄の考察」参照)。そのような関係もあって元々ある程度の関係は近江守護の六角氏ともあったと考えられる。また、畠山義総は1491(延徳3)年産まれ、六角定頼は1495(明応4)年産まれととても生年が近い。さらに近江六角氏も1508(永正5)年に将軍に復帰した足利義稙政権を支持する勢力であった。義総は義父・畠山義元の後継者として、一方六角定頼は近江六角家の家督を継いだ六角氏綱の弟であり、入道して慈照寺にいた。時を同じくして在京していたことから当然それまでに関係があったことは想像できよう。定頼は兄が1518(永正18)年に早世したために還俗して家督を継ぐことになった。そんな中、近江六角氏は1536(天文5)年に本願寺と和睦し、翌1537(天文6)年には六角定頼の娘と細川晴元が祝言を挙げて縁戚関係となった。そのため、12代将軍・足利義晴もその勢いを評価していた。
 そして7代畠山義総は1539(天文8)年、義総の娘2人をそれぞれ、定頼の子・義賢の正室・後室として六角定頼と婚姻関係を結んだ。その狙いは幕閣で中枢をなしており、本願寺ともパイプがある近江六角氏の力ををあてにしたもの。度々能登を含めた全国規模で一揆を起こす一向一揆との和睦を行い、さらに加能の国境で反乱工作を行っている畠山九郎に対する本願寺の支援を止めたいことが理由であった。また能登から陸路で近江まで通行する場合、加賀を通る事は避けられず、その理由をもって六角家の能登畠山家に対する協力を得ようとした。六角家としても、今まで良好な関係を保っていた本願寺との険悪な関係になることは避けたい。「縁談」という理由をもって加能の両国を取り持つきっかけにするとは、能登畠山家側にも六角家が受けやすい理由にもなり、六角氏もまた本願寺に嫌な事を頼みやすい「方便」に利用できたのである。
 この作戦は功を奏し、一応ではあるが、畠山九郎への援助は停止された。本願寺にとって、六角家の申し出を断れないばかりか、縁談という理由でさらに断りにくくなってしまったのだ。さらに、六角定頼にとっては、幕府への信頼の厚い畠山義総に恩を売ることで、より政権基盤を安定化させようと思ったのであろう。

 その後も六角氏とは関係が続いて9代義綱の妻は六角義賢の娘を娶っている。天文年間に猿楽で有名な近江日吉大夫が能登に下向しているが、それも六角氏の口添えがあった可能性が十分に考えられるだろう。
 弘治の内乱ではその縁戚関係を能登畠山家側がフル活用し、加賀本願寺が反乱軍である温井・三宅方へ公式に合力するのを防いだ。と言いつつも1560(永禄3)年に「加賀は裏表がある」と義綱が六角氏に報じていることからも、非公式の温井・三宅方への支援は続いていたのだろう。また同年、六角氏が朝倉と縁戚になるとき義賢が「畠山義綱の義理で慎重」に諭していることからも、六角氏において能登畠山家との関係は重視していたと言える。1568(永禄8)年に第13代将軍・足利義輝が暗殺され、その弟・覚慶(後の義秋、義昭)が近江国和田に動座すると、畠山義続が将軍就任への支援を約束しているが、これは六角氏を介して求められた返答である可能性も十分ある。1566(永禄9)年、永禄九年の政変で義綱が家臣に能登を追放されると、妻の実家である六角氏を頼って亡命し、六角氏は「義綱亡命政府」を援助し能登に新たに誕生した義慶政権と対峙した。義綱の能登奪回計画(1568年)においては、義綱に兵などを貸したと推測できる。

 能登と近江との距離が遠く、一見してその同盟は軽視されがちである(特に戦国系のゲームなどを行っているとほぼこの設定は無視される)。しかし、能登畠山家にとっては畿内という幕府に近い場所に位置する六角氏は、外部の勢力と連携を図る仲介役として十分価値がある。では、六角氏側の利点は何であろうか。これも幕府との関係であると言える。六角氏は幕府との関係が深い。そこで能登畠山のみならず、上記でも朝倉とも通じているところが見て取れる。それ以外にも幕府への折衝の仲介役や取り次ぎとしての機能を果たし、幕府の信頼関係を得ていると考えられる。実際、能登畠山家は近江国余呉に拠点を持っており、使者が上京する際そこを拠点としていることが十分考えられる。つまり、能登畠山氏側には重要な同盟関係ではあったが、六角氏にとっては数ある同盟国のひとつに過ぎないと言える。

能登畠山・六角関係年表
西暦 和暦 畠山当主 六角当主 関係 出来事
1539 天文8 畠山義総 六角定頼  婚戚 義総の娘2人を定頼の子・義賢の正室・後室とする。
同年 六角氏を通じて本願寺と和睦する。畠山九郎への合力停止。
1545 天文14  畠山義続 河内畠山家の畠山稙長が死去した際の遺言で後継を畠山義続に決定していたことを、六角定頼がバックアップし、河内畠山家に介入。
天文年間後期 畠山義綱 六角義賢  六角義賢の娘が義綱の正室となる。近江六角氏の史料『江源武鑑』ではこの輿入れを弘治元(1555)年7月25日とするが、史料の信憑性から、日程の再検討の必要あり。
1557 弘治3 義綱が弘治の内乱発生後数年経っても思い通りにならないと文書で義賢に伝える。
1558 永禄元 六角氏を通じて、弘治の内乱での敵・温井への本願寺の合力を停止させる。
同年 史料『江源武鑑』に拠ると7月25日に畠山義綱が近江を訪問したとされる。
1560 永禄3 六角義治    六角義賢が同家宿老衆に朝倉との成婚について、畠山義綱との義理を慮り、慎重になれと諭す。
同年 加賀の能登への外交不安に対して、義賢に使者の派遣を懇望する。
1566 永禄9 畠山義慶 敵対 亡命した義綱を受け入れ義慶政権と対峙する。
 

<大内氏との外交関係>

 能登畠山氏と大内氏とは縁戚関係であり、強い連携関係にあった。畠山義有(畠山義忠の嫡男)の妻は賀茂別雷社の社家・竹内氏出身であるが、周防・長門守護の大内政弘の母はその姉妹であった。その縁からか、畠山義統は賀茂別雷社の社家・鳥居大路氏の実娘を養女にして、大内政弘に嫁がせている(『尋尊大僧正記』延徳四年自四月至六月冊後付より)。応仁の乱で、畠山義統や大内正弘が一貫して西軍にあり同一行動を取ったり、明応の政変で足利義材(義尹・義稙)と足利義澄が対立した時、畠山義元(義統の嫡男)と大内義興(政弘の子)が一貫して義材を支援していたり同一行動をしているのは、こうした縁戚関係が影響しているとみていいだろう。

能登畠山・大内関係年表
西暦 和暦 畠山当主 大内当主 関係 出来事
1467 応仁元 畠山義統 大内政弘 縁戚 義統と政弘が西軍として応仁の乱に参加する。
1491 延徳3 大内政弘が上洛し、10代将軍・足利義稙に従い六角氏平定に従軍する。
1493 明応2 将軍足利義材(義稙)が京都を追われ越中放生津に逃れた際、畠山義統らが参陣。
1498 明応7 畠山義元 大内義興 将軍が上洛して義澄らと交戦。敗戦し、大内義興を頼って山口へ逃げる
1500 明応9 畠山慶致 明応九年の政変で畠山義元が失脚し、畠山慶致が守護となる。
1508 永正5 畠山義元 将軍足利義稙が大内らの支援で入京し、将軍に復職。
同年 畠山義元が守護に還任し、入洛。将軍に大内義興らと共に近習する。
1509 永正6 義元が、将軍・義稙邸で「猿楽」を細川高国・大内義興らと共に鑑賞。
1511 永正8 足利義澄らが京都に侵入し交戦(船岡山合戦)。義元は義興らと共に交戦し勝利。

内ヶ島氏との関係
 飛騨の国人である内ヶ島氏は、1519(永正16)〜1522(大永2)年の越中永正の乱において1521(大永元)年から一向一揆方として参戦した。畠山義総、長尾為景、神保慶明、遊佐慶親と敵対し、一向一揆と結び畠山軍篭もる氷見・多胡城を攻撃した。両軍共にかなりの被害を出したが、1522(大永2)年春頃、多胡において内ヶ島兵衛大夫が能登畠山家に敗れて戦死し退却した。

武田信玄との関係
 能登畠山家と直接関係は無いが、1555(弘治元)年の弘治の内乱において義綱に反乱した温井続宗を中心とした温井・三宅連合軍(畠山晴俊が総大将)の援護をしている。義綱方に長尾景虎が味方したことに刺激されたのであろうか。晴俊は義綱に対峙する為以前から連絡を取っていたと考えら、弘治の内乱は長尾VS武田の代理戦争の一面をもっていたとも言える。晴俊政権は基盤が脆弱で、武田家は晴俊勢が劣勢になると積極的な援助をしなくなった。

織田信長との関係
 能登畠山家と織田家との直接の交流は無かったが、家臣である長氏が織田家と接近していた。その理由は永禄九年の政変により後ろ盾を無くした長続連が他派閥にリードされないために選んだ後ろ盾と私は考える。織田家と能登畠山家の友好が奏した例としては1576(天正4)年の七尾城攻防戦時の織田援軍があげられる。1577(天正5)年密か七尾城を脱出した長連龍は安土城の織田信長を頼り、援軍の派兵を懇願した。その結果、援軍は1577(天正5)年の9月に3万人という大兵力が派遣されたが、時すでに遅し。七尾城は陥落してしまった。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会.1968年
久保尚文『越中中世史の研究』桂書房.1983年
高沢裕一他『北陸社会の歴史的展開』桂書房.1992年
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社.1986年
神奈川大学常民文化研究所編『日本海世界と北陸』中央公論社.1995年
加能史料編纂委員会『加能史料戦国T』北國書籍印刷株式会社.1998年
久保尚文「遊行上人のみた越中永正の乱」『かんとりい』4号.1973年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」『国史学』122号.1984年
村井祐樹『六角定頼』ミネルヴァ書房,2019年
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