管領畠山家(河内畠山)との外交関係


<管領畠山家(河内畠山)との関係>
(河内・越中・紀伊守護)

 初代満慶と満家は兄弟関係も良好だったようで、管領家とも仲く兄弟で緊密に連携し、幕政に協力してあたっていた。そんな管領畠山家と能登畠山家の関係が一変するのは応仁の乱からである。同乱は畠山義就(畠山総州家)、畠山政長(畠山尾州家)の対立から始まった。ゆえに能登畠山家も管領家の内紛に巻き込まれ、3代当主・義統は弟政国が義就の養子となっている事から、西軍(義就方)についた。しかし、義就に実子が生まれると政国と次第に仲が悪くなった。政国は越前に逃亡したが、逃亡先の朝倉孝景に殺されて、義統と義就の関係は悪化した。さらに、畠山総州家(義就流)はその後没落していき、宗家は畠山尾州家(政長流)に取って代わられたので、義統も義就を見限ったように東軍に移った。応仁の乱で義就方についた義統は、政長方とも関係が冷え込んでいて、義統の能登下向後も越中守護・畠山政長と対立。北陸では甚だ勢いのあった能登畠山家は管領家の分国・越中侵攻を企てるほど関係は悪化していた。
 その後、1493(明応2)年に「明応の政変」で10代将軍・足利義材(後の義稙)が廃され、11代将軍・足利義高(後の義澄)が擁立されると、義材の復権を目指す畠山尾州家の畠山尚順によって前将軍・足利義材は越中に逃れ、北陸の勢力を基盤に体制立て直しを図る。その都合上、畠山尚順と畠山義元の連携が図られるようになり、畠山尾州家との関係が改善されていった。そして、1508(永正5)年に足利義稙が周防の大内義興の力を借りて上洛を果たして将軍に復帰すると、尚順の求めもあり細川高国、大内義興、畠山尚順と共に義元も上洛し幕閣の中枢に列して在京大名となって支えた。この縁で能登畠山家は畠山尾州家と強力な絆で結ばれる。その後、越中に対する管領畠山家の影響力が薄れて1519(永正16)年尚順(政長流)の領国が一向一揆と結ぶ神保慶宗に混乱がおきるた。尚順は長尾為景と共に、能登畠山家の畠山義総にも援軍を要請した。義総はさんざん固辞したが強い尚順の説得もあり、これを受けて義総は参戦(越中永正の乱)。神保慶宗を長尾と共に討ち取った。
 このできごとをきっかけに能登畠山氏は管領畠山家(河内畠山家)の代行として、越中の守護機能を代理で果たした「畠山体制」が成立する(『北陸社会の歴史的展開』より)。この時の両家の関係は、資料的に、畠山宗家から能登畠山家への文書が高圧口調で上下関係が成立していると同書は指摘している。この体制は両越能三国に及んだ。前述の義総の1519(永正16)年の越中永正の乱や、義続が1544(天文13)年に神保長職と椎名氏の調停をして長職に富山城安堵したことや、義綱が1562年に上杉謙信に敗北した長職の増山城安堵などはその例である。能登畠山家のこれらの政策は能登畠山氏単独の政策とは考え難く、薄れたとはいえ越中守護の畠山宗家の威光で達成したと言える。また、1544(天文13)年の義続の功績が評価され、1545(天文14)年に管領畠山家当主・畠山稙長が死去の際遺言で義続を後継者に指名したが、同年、義総も死去した為実現しなかった(義続の家督相続について)。
 次いで1553(天文22)年、遊佐続光が対立する温井紹春(総貞)との権力闘争で挙兵した(大槻・一宮の合戦)のに対して、河内衆の安見紀兵衛が遊佐続光に対して参戦するなど、これより天文期になっても能登と河内で家臣たちの交流も少なからず連絡を取り合っていた事実が伺える。この安見の動きに呼応したものがどうかわからないが、1554(天文23)年に、河内守護代である安見宗房が能登国に使者を送る際、本願寺に路地の安全に関して謝していたことが、「天文日記」の天文23年6月9日の条に記されている。畠山尾州家の当主である畠山高政はこの頃、足利義輝と行動を共にしている。将軍家と行動を共にする河内畠山家との交渉は、能登畠山家を間接的につなげる使者であったと思われる。

能登畠山・河内畠山関係年表

西暦 和暦 畠山当主 尾州畠山(関係) 総州畠山(関係) 出来事
1408  応永15 畠山満慶 畠山満家(密接) 満慶が兄満家に家督を譲渡。能登一国を譲り受ける。 
1442 嘉吉2  畠山義忠 畠山持国(密接) 他の勢力から持国への執り成しを義忠が依頼されている。 
1454 享徳3  畠山政久(険悪) 畠山持国(密接) 畠山持国邸が政久方に襲われる。持国が義忠邸に逃れる。
1460 寛正元 畠山義統 畠山政長(険悪)  畠山義就(親密) 義就が朝敵に。京都の義忠邸炎上。政長派の仕業か? 
1467 応仁元 畠山義就(同盟) 応仁の乱に西軍(山名方)として兵三千を率いて参戦。 
1470 文明2  畠山義就(敵視) 畠山義就の猶子となっていた畠山政国が朝倉孝景に殺害される。
1478 文明10 畠山政長(停戦) 将軍義政、足利義視が畠山義統を赦免する。東軍と和解する。
1508 永正5 畠山義元 畠山尚順(同盟) 畠山義英(敵対) 義元が畠山尚順と共に復帰した将軍・義稙の中枢の一角として支える。
1519 永正16 畠山義総 畠山義英(連携) 越中永正の乱(第1次征伐)で義総は尚順と連携し、神保を攻めるも敗退。
1520 永正17 越中永正の乱(第2次征伐)で神保を下し、両越能三国同盟締結。「畠山体制」確立。
1544 天文13 畠山稙長(密接) 畠山在氏(疎遠) 稙長の要請を受け義続が越中の神保氏と椎名氏の争いを調停。
1545 天文14 畠山稙長が死去の際遺言で義続を後継者に指名。同年義総没のため実現せず。
1553 天文22 畠山義綱 畠山高政(良好) 畠山尚誠(疎遠) 河内衆の安見紀兵衛が遊佐続光方として大槻・一宮の合戦に参戦する。
1554 天文23 河内守護代・安見宗房が能登国に使者を派遣する際、本願寺に路地安全を謝す。

参考文献
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会.1968年
久保尚文『越中中世史の研究』桂書房.1983年
高沢裕一他『北陸社会の歴史的展開』桂書房.1992年
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社.1986年
神奈川大学常民文化研究所編『日本海世界と北陸』中央公論社.1995年
加能史料編纂委員会『加能史料戦国T』北國書籍印刷株式会社.1998年
久保尚文「遊行上人のみた越中永正の乱」『かんとりい』4号.1973年
東四柳史明「畠山義綱考」『国史学』88号.1972年
東四柳史明「能登弘治内乱の基礎的考察」『国史学』122号.1984年
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