二宮 信濃(にのみや しなの) | 生没年不詳 |
実名不詳。信濃入道。満春の被官。満春政権において加賀国南ニ郡の守護代に任じられている。 | 詳細情報なし |
額 親家(ぬか ちかいえ) | ?-1488 |
景春(熊夜叉)の子。丹後守。仮名八郎四郎(八郎次郎?)で実名は親家(「額氏系図」より)。「親」の字は政親の偏諱であろうか。政親に仕え長亨の一揆(1488年)では父景春とともに6月7日に戦死した。亡骸は父・景春と共に額谷山中の御廟谷(県指定史跡)に葬られたと伝えられる。 | 詳細情報なし |
額 景春(ぬか かげはる) | ?-1488 |
丹後守の子。丹後守。熊夜叉と呼ばれ、実名は景春(「額氏系図」より)。冨樫幸千代の守護代として幸千代に仕える。しかし長亨の一揆(1488年)では政親方に属しているので、その頃までに鞍替えしたものか。1488(長享2)年6月7日、子・親家と共に戦死したと伝えられている。亡骸は子・親家と共に額谷山中の御廟谷(県指定史跡)に葬られたと伝えられる。 | 詳細情報なし |
額 丹後守(ぬか たんごのかみ) | ?-1468 |
景春の父。実名不詳。冨樫教家(幸千代)派の被官。応仁の乱で、主君教家は西軍に味方し、1468(応仁2)年、東軍に属す北半国守護赤松の守護代・小寺藤兵衛と戦った。この合戦で丹後守某は敗死した。 | 詳細情報なし |
額 氏家(ぬか うじいえ) | ?-1488 |
冨樫用家の子で冨樫昌家の被官。三河守。1377(永和3)年、守護・冨樫昌家と不和の状態であった(「軽海郷代官僧霊康注進状」より)。昌家政権では、守護代が冨樫用家、山川入道、英田次郎四郎と3人も見え、背景に守護代選任による不和があったのではないかと室山氏は指摘する(「加賀の守護所と野々市」『中近世移行期前田家領国における城下町と権力-加賀・能登・越中-』所収)。 | 詳細情報なし |
本郷 春親(ほんごう はるちか) | 1435-1488 |
修理進。小松市本江町に本郷氏の館があったと伝える。春親は、高尾城落城目前の1488年6月5日、自ら一人一向一揆勢の正面に進んで冨樫家のこれまでの善政を称え、高尾城の包囲を解くように説得した。この試みは失敗し、6月7日の戦闘で春親は討死する。 『富樫家遠孫成田家由緒』や『富樫家遠孫成田家由系譜』などの後世の資料によると、冨樫政親の嫡子で乳呑み児であった政直を富樫親春という家臣が付き添って越前の知り合いに身を寄せていたという後世の記述がある(『富樫卿』第57号,2003年,3頁)。この春親の「親」の字は主君の政親の字でもあり、その字を名前の後ろに付けるというのは考えがたい。そこから考えると、この親春が本郷の本名かもしれない。すると、本郷氏は冨樫氏の縁戚の人物と言うことにもつながる、が詳細は不明である。 |
詳細情報なし |
本郷 駿河(ほんごう するが) | 1432-1488 |
実名不詳。小松市本江町に本郷氏の館に居館したと言う。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で冨樫政親方高尾城に篭城。政親が切腹する時に先達として切腹したと『官知論』に書かれている。辞世の句も書かれている。 「陰弱キ弓張リ月ノ程モナク我ヲ誘テ入ヤ彼國」と読み生年56歳で亡くなったと言う。 |
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松川 修理(まつかわ しゅり) | 生没年不詳 |
実名不詳。官途不詳。冨樫政親に仕える。野々市町に居館跡があると伝えられる。 | 詳細情報なし |
松坂 信遠(まつざか のぶとお) | ?-1488 |
長亨の一揆(高尾城攻防戦)で冨樫政親方高尾城に篭城。なかなかこない援軍を迎え入れるため政親に懇願し、手勢二千を率いて越前との国境に向け出発。行く手をふさぐ本願寺方の今江久太郎と戦って戦死する。 | 詳細情報なし |
松任 範光(まつとう のりみつ) | 生没年不詳 |
松任氏は冨樫氏の一族。長亨年間の頃、松任城の城主であった。冨樫政親の自害(1488年)後の松任城は鏑木氏に奪われた。 | 詳細情報なし |
三浦 弥兵衛守(みうら やへいのかみ) | 生没年不詳 |
冨樫政親の家臣で、松任市の三浦館に居館したと言う。1458(長禄2)年、赤松政則が北半国守護に任命された時は、この三浦館当たりに布陣したと言う。 | 詳細情報なし |
宮坂 某(みやさか ぼう) | 生没年不詳 |
冨樫家の家臣。石川郡堂村(金沢市)の風吹峠の付近に山城を構えたと言う。 | 詳細情報なし |
宮永 八郎三郎(みやなが はちろうさぶろう) | ?-1488 |
実名不詳。冨樫氏庶流林氏の分かれで、石川郡宮永に住む。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で政親と共に自害する。 | 詳細情報なし |
本折 主計允(もとおり かずえのじょう) | ?-1450 |
実名不詳。成春被官であったが守護代の兄・本折某と絶交して冨樫家を出奔。成春の政敵である細川常有の被官・鵜高某の寄人となったので、成春は被官に命じて甘露時親長邸で主計允を討たせたと言う。 | 詳細情報なし |
本折 治部少輔(もとおり じぶのしょう) | 生没年不詳 |
実名不詳。1552(天文21)年に「本折治部少輔」の名が見える(『戦国人名事典』新人物往来社)。加賀国人・本折氏の微証の下限である。『石川県大百科事典』(北國新聞社出版局.1993年)によると、1490(延徳2)年頃に本折の有力者として「養牛庵運用」が、天文年間(1532〜55)には「本折三日市道念」、「本折教明」という名が知られるが、「本折治部少輔」との関係は不明である。 | 詳細情報なし |
本折 道祖若(もとおり どうそわか) | 生没年不詳 |
入道して道祖若と名乗る。北半国守護の冨樫成春政権で守護代を務めている。 | 詳細情報なし |
本折 祖福(もとおり いふく) | 生没年不詳 |
入道して祖福と名乗る。文明の一揆(1474年)では政親の将として山内から幸千代が篭もる蓮台寺城(小松市)に攻めこんだ。 | 詳細情報なし |
本折 但馬入道(もとおり たじまにゅうどう) | 生没年不詳 |
実名不詳。冨樫教家の被官で両流相論時代は冨樫泰高・山川家之らと対立する。主君教家は将軍・義教の忌避されていたが1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱で将軍が暗殺されると、但馬入道は加賀に打ち入り泰高被官・山川等と争う。その後、教家の後ろ盾である畠山持国が管領に就任すると、加賀守護に返り咲いた教家政権の守護代として加賀に下った。 同一人物かわからないが、1443(嘉吉3)年にも教家は本折某を加賀に打ち入らせている。また、1447(文安4)年の教家・泰高の和解に反対する教家の臣・本折某がいる。 |
詳細情報なし |
本折 常範(もとおり つねのり) | ?-1488 |
越前守。金沢市木越にあった木越館に居館したと言う。冨樫成春政権の下で守護代になったと思われる。その後、政親方について長亨の一揆(高尾城攻防戦)に参戦したが、おめおめと一揆方の降人となり、泰高に目通しされた時に泰高によって首をはねられたと伝えられている。 | 詳細情報なし |
安江 弥八郎(やすえ やはちろう) | ?-1488 |
実名不詳。石川郡安江郷の冨樫氏の外戚、安江二郎盛高の一族ヵ。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で政親方として討死している。『官知論』の異本・加本では「弥太郎」の名前で記されている。 | 詳細情報なし |
安江 永秀(やすえ ながひで) | 生没年不詳 |
政親の臣。1487(長享元)年10月に政親の命を受けて、建仁寺家代官大西帯刀丞代に年貢の進納を命じる文書を、「永秀」という人物が槻橋親長と共に発給している(『両足院文書』)。このことから、木越祐馨氏は、「おそらく安江氏であろう」と推定しつつ、政親の「両人とも側近の奉行人であったことはいうまでもない。」(『富樫の歴史と伝承』富樫氏と高尾城の歴史研究会より)としている。 | 詳細情報なし |
山川 家之(やまごう いえゆき) | ?-1443 |
筑後守。仮名八郎。満春・持春・泰高に仕えた(教家に仕えたかはわからない)。満春・持春政権では守護代に任じられている。泰高と教家が家督を争った加賀嘉吉文安の内乱では泰高に従う。 | 山川家之特集 |
山川 近江守(やまごう おうみのかみ) | ?-1445 |
実名不詳。家之の次男ヵ。両流相論のさなか、1445(文安2)年に細川勝元が管領になり細川派で守護に復帰した冨樫泰高に近江守は仕えた。近江守は同年8月、泰高の守護代として加賀に入部するにあたり、細川勝元から教家や本折らを追討するようにと命ぜられ、勝元から摂津満親への合力要請もあって、10月入国した(加賀嘉吉文安の内乱)。しかし、加賀国橘で教家党の本折と合戦し敗死した。 | 詳細情報なし |
山川 仙源(やまごう せんげん) | 生没年不詳 |
実名不詳。豊前守。入道して仙源。南半国守護となった冨樫泰高政権の守護代となっている。 | 詳細情報なし |
山川 高次(やまごう たかつぐ) | 生没年不詳 |
山川高藤の子。冨樫稙泰の守護代として活躍するのが確認できる。、「御屋形」(稙泰)の旨を遵行する目的で、1505(永正2)年に法慶入道(善性寺開基)に文書を発給している。 | 詳細情報なし |
山川 高藤(やまごう たかふじ) | 生没年不詳 |
三河守。泰高・政親に仕える。政親政権で南加賀半国守護代となり、領国経営の主軸として活躍した。また、長亨の一揆(1488年)では政親軍の中枢として奮戦した。 | 山川高藤特集 |
山川 又五郎(やまごう またごろう) | 生没年不詳 |
実名不詳。冨樫高家に仕える。高家が南朝と畿内で戦っている最中、又五郎は在国していた。1336(建武3)年、大桑一族と共に兵を率いて上洛するよう、京都で合戦中の高家の命令された。 | 詳細情報なし |
山代 泰信(やましろ やすのぶ) | 生没年不詳 |
江沼郡山代荘(加賀市)に興る。泰信は冨樫高家の弟であるので、山代氏は冨樫氏の庶流である。泰信以後、量家−康行と続いたと言う。 | 詳細情報なし |
山代 量家(やましろ かずいえ) | 生没年不詳 |
昌家の弟。兄・昌家とともに在京し、称名寺から量家や母が贈答品をもらっている(「金沢文庫文書」より)。一方で、領国である南加賀にも影響力があったと言われる。山代泰信と直接の系譜関係はないので、養子にいったものであろうか。 | 詳細情報なし |
結城 宗弘(ゆうき むねひろ) | 生没年不詳 |
修理亮。幼名鶴市丸。石川郡河内村福岡の結城館の主。結城市は室町幕府の奉公衆であり、冨樫家での被官ではない。1487(長享元)年には、政親の近江六角氏征伐に参加している(『日本城郭体系 第7巻』482頁)が、これは幕府の戦争だったために参加したものと思われる。 | 詳細情報なし |
横隅 右衛門(よこすみ うえもん) | 生没年不詳 |
石川郡堂村(金沢市)の横隅谷に、冨樫氏の家臣・横隅右衛門の居館があると言う。 | 詳細情報なし |
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