加賀嘉吉文安の内乱
[1441〜1447年]
冨樫泰高VS冨樫教家・成春
- ●原因
- 1441(嘉吉元)に加賀守護であった冨樫教家が将軍・足利義教の逆鱗にふれて逐電すると教家弟の冨樫泰高が家督を継ぎ守護職も継承した。しかし、教家が逐電した僅か6日後に嘉吉の乱によって赤松満佑に将軍義教が暗殺されて事によって、冨樫の家督紛争も複雑になっていった。すなわち、冨樫教家が泰高に対して家督の返還を要求したのであり、これを泰高が拒否したことによって一層内紛は拡大した。さらに、泰高には管領細川家が、教家には管領畠山家が後盾となったこともあり、加賀国内で細川対畠山の代理戦争の一面ももった。泰高・教家が激闘を演じた6年間をその家督争いから「両流相論」と呼ぶが、ここでは便宜上一連の合戦として扱い「加賀嘉吉文安の内乱」という名前をつけた。
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冨樫泰高軍 |
冨樫教家・成春軍 |
勝敗 |
DRAW |
兵力 |
詳細不明 |
詳細不明 |
支援者 |
細川持之(管領)
細川勝元(管領)
摂津満親
斯波持種(越前守護) |
畠山持国(管領) |
総大将 |
冨樫泰高 |
冨樫成春 |
主力 |
山川家之→自害
山川近江守→戦死 |
本折但馬入道
本折某
狩野某 |
●経過
- 1441(嘉吉元)年6月18日、冨樫教家が将軍足利義教の逆鱗に触れ逐電する。冨樫家督と守護職は教家弟泰高が継承。
- 1441年6月24日嘉吉の乱にて赤松満佑に将軍義教が暗殺される。
- 同年、管領細川持之が義教に追放された人々を復帰させる政策を採ったため、教家が泰高に対して家督返還を要求した。
- 同年8月、前守護教家は被官・本折但馬入道父子を加賀に侵攻させ、泰高被官の山川家之と合戦する。合戦は3度行われ、最初本折が負け、次に山川が負け、又本折が負けたと言う。
- 1442年(嘉吉2)6月、泰高を支持する管領細川持之が没すると、教家を支持する畠山持国が管領となった。畠山持国は泰高を罷免し、教家の嫡子・亀童丸(成春)を加賀守護に任じた。
- 1443(嘉吉3)年1月、加賀守護を罷免された泰高らが加賀を離れなかった為、教家は強引に守護・亀童丸と守護代本折某を加賀に入国させた。しかし、加賀の在地勢力の多くは泰高を支持していた。
- 同年2月、成春(教家)党の冨樫亀童丸・本折某と泰高党の守護代・山川家之が戦う→山川が敗れ京都に敗走する。
- 同年同月、京都に敗走した山川家之が、教家らを支援する畠山持国邸の襲撃を計画する。事前にこの計画が発覚し、泰高はこの襲撃未遂事件と以前幕府料所の代官を謀殺した罪も合わせて咎められ、同月27日幕府から京都よりの退去を命じられた。
- 同年同月28日、山川家之父子が持国邸襲撃事件の責任をとって切腹し、泰高の無実を訴えた→泰高は赦された。
- 1445(文安2)年、教家・亀童丸が洛外の馬借衆を味方に泰高邸を襲撃した。
- 同年3月24日、成春(教家)支持の畠山持国が管領を辞職すると、泰高支持の細川勝元が管領となった。
- 同年8月、管領細川勝元の支援により泰高が加賀守護に復帰。勝元が加賀の成春(教家)党を追討するように泰高に命ずる。
- 同年10月、管領勝元から摂津満親への合力要請もあって、山川近江守が加賀に入国→加賀国橘で成春(教家)軍の本折と合戦し、近江守が敗死した。
- 1446(文安3)年7月、幕府は教家党追討のため、加賀に所領を持つ有力な奉公衆に泰高党への合力を命じる。
- 同年9月、泰高軍・成春(教家)軍が加賀で激戦を展開。越前守護斯波持種の泰高軍への援助もあって、成春軍を破り越中に敗走させた。
- 同年10月、教家党が加賀を一時奪回。将軍足利義政が教家を支援しようとしたが、泰高を支持する管領細川勝元に牽制される。
- 加賀を追われた成春(教家)残党も再び加賀入国を企てるなど活発な動きを展開し、泰高党に圧力を加えた。
- 1447(文安4)年5月、幕府の斡旋により泰高・教家の和議が図られる。幕府は加賀北半国守護に成春を、南半国守護に泰高を任じることを提案する。
- 成春被官の本折某が和議に反対し、幕府が説得のため特使を派遣するが本折某はこれを殺害した。さらに、成春被官の狩野某も和議に反対し、勝元が説得する為に被官を加賀に派遣している。
- 同年7月、泰高・教家は和議案に同意し、守護職が折半されて、1441年より6年間続いた両流相論に一応の決着が着く。
- ●合戦の影響
- 争いの発端は将軍義教による冨樫教家の蟄居であり、さらに管領家の細川・畠山がそれぞれ泰高・教家を支持して対立した為、「両流相論」は複雑化長期化せざるをえなかったのである。結局、発端も長期化も中央の政争が原因であり、冨樫氏が幕府の有力者にその動向を左右されてしまった弱さが伺える。この泰高党・教家党の争いは1447年の和解と1458(長禄2)年の成春の守護解任によって一応冨樫家の統一がなされるが、1470年代に入ると泰高党の流れを受け継ぐ冨樫政親と教家党の流れを受け継ぐ成春次男の冨樫幸千代が争うことになり、「両流相論」の時代は冨樫家の分裂を根深いものにしていたことがわかる。さらに、この6年間の争乱によって加賀の国力が疲弊したに違いなく、経済的な停滞と民衆の不満増大をもたらしたと考えられる。
- 参考文献
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(共著)『クロニック戦国全史』講談社,1995年
(共著)『図説石川県の歴史』山川出版,2000年
(共著)『日本の名族 七』新人物往来社,1989年
(共著)『野々市町史資料編1』野々市町.2003年
(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社.1988年
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