↑冨樫成春イメージ像(畠山義綱画)
教家の嫡子。加賀北半国守護。幼名亀童丸。仮名次郎。1441(嘉吉元)年父教家と叔父泰高が家督を争い合戦を繰り返す加賀嘉吉文安の内乱が勃発した。そんな中、1442(嘉吉2)年に教家を支持する管領畠山持国の支援もあって教家の嫡子成春が加賀守護に補任された。しかし、泰高も成春も中央政権の有力者に左右されて一進一退を繰り返す中、1447(文安4)年に幕府の斡旋で両者和解し、両者各々半国守護となった。だがそれも長く続かず、またもや中央政権の有力者に左右され、成春は1458(長禄2)年に赤松家再興の犠牲にされ守護を解任された。 |
成春支配体制ちぇっく!
第1次成春政権(両流相論期)<1442-1445>
守護代:本折某
父・教家を支持する畠山持国が管領になったことを契機に、冨樫泰高が守護を罷免され、教家の嫡子・亀童丸(成春)が守護に補任された。しかし、加賀は依然として泰高が在地勢力の支持をうけて実効支配を続けた為、1443年1月教家は幼少の亀童丸と守護代本折某を強引に加賀に入国させた。両者は激しい合戦となったが、亀童丸党は泰高党の山川家之を破り、亀童丸は加賀を名実ともに支配した。しかし、1445年、畠山持国が管領を失脚し泰高を支持する細川勝元が管領に就任すると、亀童丸は守護を罷免されて合戦でも泰高党に敗れた。
第2次成春政権(北半国守護期)<1447-1458>
守護代:本折越前守常範、本折入道祖若
1448(文安5)年臨川寺領大野庄に守護使を入部させて侵入を企てたが幕府に禁止されたり、1456(康正2)年には倉部村などの押領行為も働いている。木越祐馨氏は『日本の名族七−北陸編−』において「成春はしばしば寺社の庄園を侵しており、このことも解任の口実となったのであるまいか。」(前掲書219頁より)と1458年の成春の守護職解任の理由をこう指摘している。
第3次成春政権(南半国守護期)<1460-1462>
1460(長禄4)年に将軍より赦免された成春は幕府に出仕し、南半国守護となった。前守護泰高は隠居した。しかし1462(寛正3)年に成春が死去すると、再び泰高が守護に復帰した。
成春政治活動ちぇっく!
1442(嘉吉2)年後盾である管領・畠山持国に亀童丸は加賀守護に任じられた。この守護補任は敵対する泰高への対抗措置としての実効性の無い形式的なものである。事実、泰高は在地勢力の多くを味方につけ守護解任後も加賀国元に留まっていた。では何故教家が任命されなかったのであろうか。1441(嘉吉元)年より6年もの間続く加賀嘉吉文安の内乱は守護亀童丸を差し置いて度々教家の名前がでている(注1)。また、1442(嘉吉2)年の加賀下向では守護亀童丸と守護代本折は加賀に下向しているが、教家本人は京都に留まっている。このことを考え合わせると、教家は守護の任は嫡子及び有力被官に任せて、自身は京都にて幕閣有力者との折衝をしていたのではないかと思われる。事実、加賀嘉吉文安の内乱に於いて泰高・教家・成春父子は管領家の細川・畠山両氏の動向に激しく左右されている。このことから、教家は京都での折衝を最も重要視したのではなかろうか。
一方、守護に任じられ加賀現地の指揮を任された亀童丸軍は統率が取れていないことが伺われる。すなわち、1442(嘉吉2)年守護に任じられた時も、在地勢力のほとんどは罷免された前守護泰高を支持しており、泰高は守護罷免後も在国を続けて亀童丸はに対抗している。また、1447(文安4)年に成春・泰高両者が各々半国守護に妥協しようとした時も、成春党は本折某や狩野某が反対してすんなり和睦することができなかった。さらには、北半国守護となった1450(宝徳2)年には本折主計允が守護代の兄本折某と絶交して出奔し、細川常有被官・鵜高某の寄人となったので(注2)成春が命じて甘露寺親長邸で主計允を討たせる事件が起こっている。また、1455(亨徳4)年には成春被官の槻橋某が管領畠山家の内紛において、細川派の畠山義富(弥三郎)を支持した為(注3)、これを本折某が討っている。この事から、成春は相当国内統率に苦労していることが伺われる。その理由は、北半国守護になる以前は実力を有する教家が幕閣有力者と折衝する為に京都に残ったゆえであろう。北半国守護就任以後では、南半国守護の泰高が管領・細川勝元の支持を得て成春より先に幕府に出仕し、幕閣では有利に立ったことに加え、冨樫嫡流を示す「冨樫介」も泰高が称することになったことから、成春被官がその将来を悲観したことにも拠ろう。とにかく、成春の治世は安定しなかったと言える。
1458(長禄2)年に嘉吉の乱で没落した赤松一族の赤松政則が後南朝から神璽を奪還した功によって管領より加賀北半国守護に任じられたので、成春は守護職を罷免された。これは畠山持国に対抗する細川勝元が加賀での自派勢力拡大の為、恩賞として成春の加賀半国守護を取り上げ赤松政則に与えたとも言われるが(木越氏前掲書)、泰高との中央のパイプ(信頼関係)の差でもあった。
成春出陣履歴ちぇっく!
成春は1442(嘉吉2)年から始まる加賀嘉吉文安の内乱で数々の合戦に関わっている。文書上でみえる初めの合戦は1442(嘉吉2)年の加賀下向で守護代本折と共に加賀に下向し、泰高党山川家之と戦っていることである。この時、父教家本人は京都に留まっているので、総大将は幼い亀童丸(成春)であったのであろう。ただ、実質は守護代本折某が指揮していたかもしれない。この戦いは、加賀在地勢力のほとんどが泰高に味方したこともあり、亀童丸(成春)にとって非常に厳しいものとなったが、なんとか山川家之を敗走させて勝利を収めている。また、1445(文安2)年に泰高が管領細川勝元の支援を得、泰高党の山川近江守とそれに合力する摂津満親が加賀に攻め込んでくると、成春党の本折が加賀国橘で防戦し、山川近江守を戦死させている。このように、成春被官は決して有利でない状況でしばしば勝利を収めている。ただ、1447(文安4)年の時点において亀童丸が15歳と見えることもあって、加賀嘉吉文安の内乱において亀童丸(成春)が積極的に合戦に関わったとは認め難いものがある。
1458(長禄2)年に成春が守護職を罷免され、新たな守護赤松正則勢が入国する時に、これに抵抗したが成春の被官に擁立されたのは成春の嫡子・政親であって成春でなかった。成春は在地勢力に信頼されていなかったのか、あるいは被官達が「罷免された守護」を担ぐことは幕府に正面から戦いを挑むことであり、それを避けるため嫡子を擁立したのかもしれない。しかし、1460(長禄4)に成春は将軍より赦免され守護に復帰。1462(寛正3)年父より2年早く死去し、南半国守護は再び泰高の手へと渡った。。
成春文芸ちぇっく!
1454(亨徳3)年、成春邸に招月庵正徹が訪れ和歌を詠んでいる。また、1461(寛正2)年には、招月庵正徹からもらった和歌一首を表具(注4)する際、希世霊彦に成春の不遇な時代を綴った跋(注5)の作成を依頼している。京都にいた成春も周りの影響を受けて文化に通じていたのであろうことが伺える一端である。
(注釈)
(注1)加賀嘉吉文安の内乱で守護亀童丸より教家の名前がでることは多いのは、亀童丸が幼かったということが一因でもある。1442年時点で亀童丸は10歳である。
(注2)成春は管領畠山持国派なので、細川の被官となった本折主計允が許せなかったのであろう。
(注3)当然成春は、管領畠山家の内紛において反細川派で山名方に付く畠山義就を指示していた。
(注4)表具とは「紙などを貼って表装すること」の意である。
(注5)跋(ばつ)とは「書物など巻物のあとがき」の意である。
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