↑冨樫泰高イメージ像(畠山義綱画)
冨樫介を称す。加賀守護。幼名慶千代。法名・瑞光院殿真幸。持春の三男。初め醍醐寺の喝食であったが、1441(嘉吉元)年、兄教家の逐電で還俗して家督を継承。その後兄と対立関係にあって(「両流相論」)激戦を繰り返した(加賀嘉吉文安の内乱)が、1447(文安4)年に和睦しそれぞれ半国守護となる。のち北半国守護が赤松氏に奪われると、両派は提携して一体化し、泰高の隠居後は成春(教家の嫡子)嫡子の政親に政権移譲する。しかし、長亨の一揆において反政親勢力の頭領として泰高が一揆に担がれ、政親自害後は再び守護に返り咲く。 |
泰高支配体制ちぇっく!
泰高政権は3期に大別できる。
第1次泰高政権(1441-1447)<一国守護期及び兄弟争乱期>
政権の中心人物:山川筑後守家之
1441(嘉吉元)年兄教家が6代将軍・義教の怒りに触れて蟄居したのをうけ、管領・細川持之の要請により醍醐寺の喝食であった泰高が還俗して家督を継承した。しかし、教家蟄居後すぐに将軍・義教が赤松満祐に暗殺されると、教家が幕閣の有力者・畠山持国の力を背景に家督の返還を求めて対立した。泰高の後盾としては管領・細川持之がいたが、両者の力は互角で冨樫家は二分され、争いは泥沼化して6年間にもわたる加賀嘉吉文安の内乱が展開された。「両流相論」の時代の始まりである。
教家は自らの臣・本折但馬入道を加賀に入国させ、一方泰高は山川家之と細川持之の命で合力することになった摂津満親で教家に対抗し両者で3度も合戦が行われた。しかし、1442(嘉吉2)年、細川持之が管領を辞して畠山持国が管領に就任すると、持国は教家の嫡子・亀幢丸(成春)を加賀守護に任じた。泰高は加賀を退去せず在地勢力の多くを味方につけ教家に対抗したが、教家も本折某を加賀に入国させる実力行使に及んで、両者で合戦が起こった。結果、泰高臣・山川家之は京都に敗走し、教家方の加賀入国が実現した。さらに山川家之が京都畠山持国邸襲撃を企て、事前発覚する事に加えて以前泰高方が幕府料所の代官を謀殺した罪も合わせて咎められるという泰高にとって不利な事態となったが、山川家之父子の切腹によって事無きを得た。
1445(文安2)年、泰高を支援する細川勝元が管領に就任すると、支援を受けた泰高派が勢力を盛り返し、泰高本人及び臣の山川近江守が入国した。そして、越前守護・斯波持種の協力も得て教家方の本折を越中に追放した。
第2次泰高政権(1447-1460)<南半国守護期>
南半国守護代:山川豊前入道仙源
奉行人:(姓不詳)弘久、(姓不詳)春重
1447(文安4)年、泥沼化していた争いに双方が矛を収め、半国ずつ守護をわけあうことで和議が成立する。その結果、教家の嫡男・成春は北半国守護に、泰高は南半国守護に任じられた。半国守護となった泰高であるが管領・細川勝元の支持を得ている分、北半国守護の成春より幕閣では有利に立っていた。その証拠に和解後最初に幕府に出仕できたのは泰高であり、冨樫嫡流を示す「冨樫介」も泰高が称することになっていた。
その後も双方の冷戦は続いたが、1458(長禄2)年嘉吉の乱にて没落していた赤松氏が後南朝より神璽を奪還した功により管領細川氏によって加賀北半国守護に任じられた。この事により当然成春は守護を解任され、赤松氏(守護・赤松政則)への対抗意識から冨樫家において成春派・泰高派の対立を解消し連携が生まれた。それは1460(長禄4)年に、成春が将軍より赦免され守護に復帰し、泰高が隠居したとき、さしたる争いがみられなかったことでも伺えないだろうか。
第3次泰高政権(1462-1464)<南半国守護期>
兄・成春が1462(寛正3)年に死去すると、泰高が守護職を再登板することとなった。泰高は冨樫家のさらなる融合を画策し、成春の嫡子である冨樫政親に家督を移譲することによって冨樫家一本化を実現したのである。この家督継承は、表向き泰高が嫡子・泰成が病身であったためとされているが、これは幕閣の有力者に赤松氏に対する怒りをカモフラージュする理由づけであろう。幕府の決定した赤松政則の守護就任を表だって批判すれば、幕府内で立場の弱い冨樫氏は守護を取り上げられる可能性もあった。冨樫家の幕府内での微妙な立場が知れる出来事である。
第4次泰高政権(1488-?)<一向一揆擁立政権>
守護代:山川高次ヵ
打倒冨樫政親を目指して蜂起した長亨の一揆で頭領として泰高は本願寺門徒に擁立された。政親自害後は正式に冨樫家督を継承し、加賀守護に復帰する。泰高が擁立された背景には、本願寺が管領家細川氏と連携していたので、冨樫家の人物で一貫して細川方に味方した泰高に白羽の矢を立てたのであろう。泰高は在地武士への横領の停止など秩序維持に努めたほか、政親と同様に、自ら横領行為を働くなどしているが、この矛盾した行動は守護権力強化の為の行動であると思われる。また、本願寺門徒の力が増しつつあるとはいえ、文書上でも一揆勢に対し命令調で発給されていること、1493(明応2)年に本願寺門徒と密接に関係している細川政元が将軍・足利義材(義稙)を追放したにも関わらず、泰高は義材を支持しているし、泰高の管見できる限り最後の発給文書の1500(明応9)年では倉月荘大浦村を横領し守護支配を展開していることなどを考えると、完全に本願寺門徒のいいなりではなかったのであろう。しかし、冨樫館の発掘調査から堀が16世紀を境に徐々に埋まっていることがわかり、経済力の低下=権力の低下は時代をおうごとに進み、徐々に実権を本願寺門徒に奪われたことは確かなようである。なぜ実権を奪われたのか。その理を考えるには幕府で起こったできたことを解説しなければならない。1493(明応2)年、10代将軍足利義材は、管領である細川政元に追放され(明応の政変)、11代将軍に足利義澄が就任するのである。この幕閣の政争に泰高=親足利義材派として参加し、本願寺勢力と親細川政元(足利義澄)に対立した。このため、細川政元は本願寺勢力を加賀支配に介入させることになり、泰高の守護支配は停滞したのである(詳しくは冨樫政権末期の政治状況参照)。泰高の死亡時期は1500年(泰高最後の発給文書)-1504年(稙泰の発給文書初見)の間だと考えられている。
泰高政治・外交活動ちぇっく!
泰高の政治行動は、1447年に成春方と和議を成立し、守護を分け合った後も成春分国である北加賀で横領行為を働くなど、かなり貪欲な姿を見せる。また、中央での政争では一貫して細川派に属し、新たに北半国守護となった赤松政則への対抗上、自ら隠居し成春の嫡子の政親に家督を譲り冨樫家を細川派での一本化に統一するなど大胆な政策が読んでとれる。また、上述のように一向一揆に擁立された後も、一向一揆との協調での中で守護権力を拡大していこうとの姿勢も彼の権力強化政策に対する積極性が伺える。
1442(嘉吉2)年に教家を支持する畠山持国が管領に就任し教家派の亀幢丸(成春)を加賀守護に任じられても、泰高は加賀を退去せず在地勢力の多くを味方につけ対抗した。このことからも、上位権力者に左右されない強固な支配体制を領国内に守護在任中築き上げたという手腕は鋭い。
長亨の一揆後、守護になり第4次政権を築いた泰高だが、その勢力はとても不安定だったようだ。守護復帰3年後の1491(延徳3)年には、京都から管領・細川政元と歌人の公家・冷泉為広が京都より北陸道を進み、越前加賀を通って越後へ行った。その折に野々市も通ったはずだが、守護館があり宿場町であるはずの野々市に宿泊しなかった。それどころか「一行を迎える冨樫関係者は誰もおらず、政元らは石川郡一揆の指導者で実力者として名を馳せた米泉の土豪洲崎慶覚のもとにとまったのである。」(室山孝「加賀の守護所と野々市」『中近世移行期前田家領国における城下町と権力-加賀・能登・越中-』所収)。細川政元はお忍びで旅行したわけではなく、越後では守護・上杉房定と会見している。その後諸事情により越後から帰京するが、帰りも加賀では布市(野々市のこと)で昼休みを取っているが、冨樫家関係者との会談はなかった。冨樫家の地位が下がっていたとも考えられるし、細川家と疎遠になっていたとも考えられる。事実、翌1492(明応元)年には、再び冨樫家は赤松政則に北半国守護を奪われて、泰高は京都から没落し加賀に下向した(蔭涼軒日録』より)。その一方、翌1493(明応2)年に将軍・足利義材(義稙)が細川政元に京都を追われ(明応の政変)、越中放生津に逃亡すると泰高は早速馳せ参じている(『尋尊大僧正記』『足利季世記』『応仁後記』より)。しかしこの泰高の義材を支持する姿勢が問題となってくる。それは、冨樫氏の最大支援者である本願寺が細川政元と連携していることである(注1)。この支援者の対立から冨樫氏と本願寺は次第に疎遠になったと考えられる。実際、将軍足利義澄の治世下の加賀では、義材派である冨樫家より、政元(義澄)派である本願寺が押領の停止や所領安堵などの守護権を得たのである。これにより一層の冨樫家の権力・権威が低下したと言える。
すなわち、後世の資料のように長亨の一揆に突然と冨樫家が一向一揆勢力の傀儡となったのではなく、その後の対外関係や一向一揆との緊張関係ゆえに徐々に傀儡のようになったと言える。長亨の一揆から傀儡になったのであれば、その時に泰高を守護として一向一揆が擁立する必要はない。つまり、一向一揆は1488(長享2)年時点では「冨樫政親の対立軸を擁立せざるを得ない状況だった」と言えよう。
泰高出陣履歴活動ちぇっく!
教家と泰高は加賀嘉吉文安の内乱でいくつも合戦を重ねた。1441(嘉吉元)年に教家方の本折但馬入道が入道すると、泰高方は山川家之と幕命により山川を応援する摂津満親が応戦した。合戦は3度行われ、その戦は山川の2勝1敗であった。1442(嘉吉2)年、守護に任じられた教家方の成春が、被官本折某を加賀に入国させた時には、泰高も加賀に留まって応戦した。この戦は結局は負け山川家之は敗走してしまうが、加賀在地勢力のだいたいは泰高に味方したという。1445(文安2)年、泰高を支持する細川勝元が管領に就任すると、加賀の国人に泰高に合力するよう求めたり、越前守護斯波義種軍が泰高に味方して教家軍と戦い、教家方を越中に追放するなど、泰高に有利に戦局は動いた。
これらはいずれも直接の泰高の軍事活動ではないが、泰高は幕閣の味方や在地の味方を多く付け戦に望んでいる。時に、管領が親教家方の畠山持国となり窮地に立たされることもあったが、泰高の臣・山川家之が泰高の無実を嘆願し切腹して危機を乗り越えている。この事から、泰高は人的掌握術に長けていたと思われる。この事が、泰高の軍事情勢を助けたであろう事は想像に難くない。
泰高文芸活動履歴ちぇっく!
泰高は絵の技量に長け、特に馬の絵を得意とした。雪舟とも交流が知られその雪舟も泰高の絵は見事であると彼の門人に語る程の腕前であったと言う。それゆえ、隣国の能登畠山家より馬の絵を所望され、泰高は馬の絵十幅を能登畠山家に献上すると、返礼に絵の馬と同じ毛並みの馬を十頭贈られたという。
☆参考資料(泰高花押)
(注釈)
(注1)実際、1496(明応5)年には、細川政元が加賀一向一揆に足利義材の上洛妨害を依頼するなど、一向一揆と細川との連携は密接であった。
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