長亨の一揆(高尾城攻防戦)
[1488年]
冨樫政親軍VS加賀一向一揆
- ●原因
- 本願寺門徒を味方につけて対立する冨樫幸千代を討った冨樫政親であったが、その後本願寺門徒の加賀国内での横暴な行為が目立つようになり(注1)、政親も放って置けなくなった。そこで幸千代を討伐の際に交わした約束「一向宗を保護する」の約束を反故にして、政親は一転弾圧に踏み切った。この時点で、すでに政親と一向宗との対立は不可避となった。『官知論』からはこのような長享の一揆の発生理由が伺われる。
しかし、理由はそれだけではない。もうひとつの理由は応仁の乱の際に起こった政親派と幸千代派の根強い対立と言える。政親は応仁の乱において一貫して東軍派に属しており、その後も将軍・足利義尚に忠実であった。六角討伐に向かう幕府軍に従軍する為、軍事費を国内で臨時調達したことからも明らかである。一方で加賀国内の元西軍派である反足利義尚派は政親に対し一層の不満を高めたのであろう。そこで、敗れた幸千代に代わり反足利義尚派として擁立されたのが冨樫泰高であった。泰高が総大将になったのは、本願寺門徒が大義名分を得る為に冨樫家の人物を擁立し、さらに細川氏と懇意にしている泰高を利用して援助を期待したという事もあろう。一方で泰高も守護職に返り咲く気持ちがあったのであろう。
|
冨樫政親軍 |
加賀一向一揆勢 |
勝敗 |
LOSE |
WIN |
兵力 |
詳細不明 |
20万人とも言われる
(あるいはもっと少ないとも) |
支援者 |
能登畠山氏
越前朝倉氏
越後上杉氏
越中遊佐・神保氏 |
能登一向一揆
越中一向一揆 |
総大将 |
冨樫政親→戦死 |
冨樫泰高(傀儡) |
主力 |
山川高藤
松坂信遠→戦死
槻橋近江守→戦死
他多数 |
洲崎慶覚
河合宣久
今久江太郎 |
●経過
- 1487(長亨元)年12月、将軍足利義尚自ら出陣した六角討伐に従軍し近江に来ていた冨樫政親が、分国加賀の反政親勢力(泰高・反足利義尚勢・本願寺門徒)の不穏な動きに将軍の許しを受けて帰国する。
- 政親、高尾城を修造する。
- 1488(長亨2)年5月、反政親勢力(本願寺門徒など)が挙兵する。
- 1488年5月26日、将軍義尚が越前朝倉孝景などに政親への援軍派遣を命令。
- 高尾城に立て篭もる冨樫軍を反政親勢力(本願寺門徒など)が取り囲む。
- 朝倉の援軍に対して反政親勢力(本願寺門徒など)は、越前との国境を封鎖してその入国を阻んだ。
- 松坂信遠が越前よりの援軍を迎え入れる為、手勢2000を率いて高尾城を出陣→今井江太郎等の手勢7000に阻まれ戦死。
- 山川高藤が越中よりの援軍を迎え入れる為、手勢1500を率いて高尾城を出陣→馬飼・浦上(本願寺方)に夜襲される
- ☆守備側(冨樫方)−高尾城の配置
- 正門:松山左近
背門:森宗三郎
その前後:斉藤八郎・安江弥太郎・小早川半弥・新倉将監・浅井九八
(いづれも冨樫家譜代の部将)
- 同年6月5日冨樫軍に救援に向かった越中の遊佐氏と神保氏などの軍勢・2千が倶梨伽羅峠にて反政親勢力(本願寺門徒など)に敗れる。
- 同年同月同日、能登畠山義統の援軍が河北郡黒津船の浜で宗徒勢に敗れる。
- 同年同月同日、冨樫方将・本郷修理進春親と反政親勢力(本願寺門徒など)に包囲を止めるよう促すが失敗。
(この後、冨樫・一揆軍少々小競り合いとなる)
- 同年同月7日、午前6時頃より戦闘となる。
(冨樫方戦死者:本郷修理進春親、額丹後守(景春)、同八郎四郎(親家)、林正蔵坊、同六郎次、高尾若狭守、槻橋弥次郎、斎藤彦八郎、安江弥太郎、同三郎、宇佐美八郎左衛門、山田弥五郎、広瀬源左衛門、同又七、徳光次郎、松本新五郎、阿曽孫六、霜田伊豆坊、奈良与八郎、松原彦四郎、多田源六、石田帯刀、和田次郎三郎、同朋知阿陀、越前衆の溝江一本兄弟ら)
- 同年6月9日、最後の決戦が行われる。山川高藤等が捕らえられる(或いは戦死と言う)。
- 同年6月9日、政親篭る高尾城が反政親勢力(本願寺門徒など)20万人に強襲され、政親自害し落城。
☆政親と共に自害した武将
宮永八郎三郎、勝見与四郎、福光弥三郎、那波某、吉田某、小河某、白河某、進藤某、黒川某、興津屋五郎、谷屋入道、徳光西坊林、金子某、田上入道、八屋藤左衛門入道、立入加賀入道、長田三郎左衛門、宮永左京、沢奈井彦八郎、安江和泉、神戸七郎、御園筑前守、同五郎、槻橋豊前守、同近江守、同三郎左衛門、同式部、同弥六、同弥次郎、同三位坊、山川又次郎、本郷春興坊、同駿河守
- 政親の自害に将軍義尚が激怒。蓮如に門徒等の破門を迫る。
- 同年7月4日、蓮如が一向宗門徒の行動を非難・叱責。
- 一向一揆方は冨樫泰高を守護に擁立。
- ●合戦の影響
- この長享の一揆は、冨樫家対一向一揆という構図で見てしまいがちであるが、政親に対抗して泰高が擁立されるなど、冨樫家の内乱という側面もある。この後冨樫家では冨樫泰高、冨樫稙泰、冨樫晴貞が守護(あるいは冨樫家当主)となるが、いずれも強大な力をもった本願寺門徒にその立場を大きく左右されることになる。
しかし、この長享の一揆により「百姓の持ちたる国」になったというのは早計である。確かに本願寺門徒の力は強大ではあるが、それでもあくまで本願寺門徒とは冨樫家は独立した行動を行う。ただそれも本願寺門徒内での対立が起こる1531(享禄4)年頃には状況が変わって一変する。
☆異説「鞍ヶ岳合戦」
冨樫政親の死亡場所として、従来の高尾城での自害の他に異説として鞍ヶ岳城で戦死説がある。これは、冨樫政親が高尾城落城前に同城を密かに抜け出し、鞍ヶ岳城に篭もり、越中・越前の援軍を待って体制を整えて反撃しようとの試みとされている。また、一向一揆勢は、高尾城に政親がいると思うので、高尾城・鞍ヶ岳城から一向一揆勢を挟撃できるという利点もあったかもしれない。しかし、政親が鞍ヶ岳城にいるとの情報が密かに一揆軍の将である洲崎和泉入道慶覚に漏れたらしく、一揆軍に鞍ヶ岳城を攻められ、白崎民部、高尾若狭、同九郎右衛門、額八郎次郎、槻橋入道、同蔵太、宇佐神八郎右衛門、山川監物、同小次郎らが討死したという。その時、政親も一揆軍の将・水巻忠家と組み合い、池中に落ち、両者二度と帰らなかったとされている。政親が死去した事で、高尾城の包囲は解かれたが、政親を慕う高尾城に残った武将達は、自刃を諌めた一揆軍の手紙にも関わらず、自刃して果てたと言う。
加賀藩時代の歴史家・富田景周(著書『越登賀三州志』がある)のみならず、「加賀国中古記」「昔日北華録」などでも、この「鞍ヶ岳合戦」を肯定的に表記している。富田景周は、史料や文献を吟味した結果、高尾城では防衛城不利で鞍ヶ岳に城を築き拠ったとしている。
(注釈)
(注1)本願寺門徒が横暴になった理由は、対立する冨樫幸千代も高田門徒もいなくなったためであろう。
- 参考文献
- 神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』吉川弘文館,2007年
木越祐馨『日本の名族 七』新人物往来社,1989年
能坂利雄『北陸合戦考』新人物往来社,1988年
富樫卿奉讃会『富樫物語』北國出版社,1977年
富樫卿奉讃会『続富樫物語 落穂集』北國出版社,1997年
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