冨樫晴貞特集

冨樫晴貞イメージ像
↑冨樫晴貞イメージ像(畠山義綱画)

☆冨樫 晴貞<とがし はるさだ>(?〜1570)
 初名を泰縄。晴泰のち晴貞。「晴時」名の発給文書も花押が同一なので同一人物とも言われる。仮名小次郎。冨樫稙泰の次男。父の稙泰が亨禄の錯乱(1531年)で加賀を追われると、加賀冨樫氏を継いだ。彼が冨樫家を継いだ頃には既に守護としての役割を本願寺が担っていた。それほど冨樫家の凋落は激しかった。「晴」の字は将軍・足利義晴の偏諱と思われる。法名慈光寺殿明晴。

晴貞支配体制ちぇっく!
 亨禄の錯乱で晴貞の父・稙泰が守護を追われた後、次男の冨樫小次郎晴貞が1536(天文5)年10月、代替わりの挨拶として本願寺に書状を送るなどし冨樫家の家督を継いだ(注1)。しかし、守護職が宛がわれたかどうかは定かではない。というのも、加賀の歴史に詳しい林光明氏などが指摘するよう(冨樫氏末期の領国支配についてを参照)本願寺に加賀への国役が懸けられたり、本願寺が守護の役割を果たしていることが関係しているのかもしれない。しかし、冨樫家当主として積極的な行動をし加賀守護の立場を取り戻そうとしている動きもある。1545(天文14)年には南白江庄の支配を幕府奉公衆・安威兵部少輔光脩と相論して勝利した事。1553(天文22)年には、曇華院の末寺である永寿院への押領を行い、同院から本願寺に訴えられている。さらに1557(永禄元)年にも禅昌寺が売却した土地を駒井与三郎に安堵するなどの動きもみられ、冨樫家が本願寺と完全に一体化しているのではなく、独立した動きを探ろうとしていた事が伺える。その行動は、後述するが1570年に織田信長に呼応したことに現れている。
 冨樫氏の晩年の家臣はほとんど知られていないが、一般的に晴貞期の冨樫勢力は、一向一揆勢力の傀儡でほとんど実権はなかったとされている。しかし、その考えは適当ではないと思われる。1552(天文21)年に「本折治部少輔」の名が知られる。また、天文年間(1532〜1554)頃とされる幕府内談衆大館常興の書札抄に冨樫氏の重臣として「ぬか、山河」の2氏を挙げているので、晩年になっても、本折、額、山川らの従来からの臣が冨樫家に仕えていることがわずかに確認できる。また、1557(永禄元)年の晴貞(晴泰)が「善性寺教勝に同村松連寺分を充行う」発給文書(善性寺文書)がある。この時の理由として、善性寺教勝は菖蒲刀や長刀などの献上品をもってきたが、本領である松連寺松林院は「毎年之禮儀數十年無是候間」(毎年の礼儀数十年無沙汰)であったからと述べている。これより、冨樫の国主としての魅力はかなり落ちていると見えるが、一方でそれに対抗しようと善性寺教勝のように近づく者もいるということは、一定度の影響力はあったと言えよう。さらに後述するが、晴貞は当主の頃「諸橋大夫」という能楽の一座を召抱えている。これは、晴貞期の冨樫氏が能楽座を召抱えられるだけの財力を持ち合わせたことになる。また、晴貞が絵画や能に興味を示した事も、間接的にではあるがその行為を許す経済的背景を冨樫氏が持っていたことの証拠である。また、加賀の歴史に詳しい林光明殿(元・六郎光明の屋形の管理人)はこう指摘している。1570(元亀元)年に信長に呼応して、一向一揆と対陣しようとして一向一揆に野々市館を攻められた時、晴貞は野々市の冨樫館からかなり離れた大乗寺・伝灯寺に逃げているが、この距離を一向一揆勢力から一気に逃げ切る為にはそれ相応の軍勢・軍馬が必要である。つまり、それだけの経済力・軍事力を晩年の冨樫氏が持ち得た事になる。この事からも、現在思われている晩年の冨樫氏のイメージと実際とはだいぶ違うと言えよう。今一度、政親自害後の冨樫政権期を再考する必要があるではなかろうか。

晴貞政治・外交活動ちぇっく!
 晴貞政権は、一向一揆と表向き協調しながらも、独自の動きを探っていた。例えば、最初に晴貞は、泰縄(やすただ)と名乗っている。1541(天文10)に将軍・足利義晴に馬を進上しており、この後、将軍の諱「晴」を拝領して、「晴泰」と名乗ったのではなかろうか。また、晴貞は歴代冨樫家当主で、初めて「加賀介」を名乗っている(文書で確認できるのは1557(弘治3年)より)。これは1518(永正16)年に父・稙泰が朝廷に「冨樫介」を口宣を申請して、代わりに「加賀介」を提示されたことに由来する。代々続いてきた僭称である「冨樫介」を捨てて、公称である「加賀介」を名乗ったということは、幕府や朝廷への交渉への強い意欲を感じる。
協調関係は林光明殿のコンテンツ(冨樫氏末期の領国支配についてを参照)にあるように、小松の本折の一族が本願寺の協力を得て冨樫家被官となっている事で確認できる。これは、冨樫氏の衰微を示すものであるが、本願寺が一応、冨樫家を尊重していた事の史料としても伺われる。しかし、本願寺と冨樫家の利益は究極的には矛盾(守護領回復の動き)するので、結局1570年に台頭してきた信長に呼応して、一向一揆との協調路線を捨てて対立したのであった。

★晴貞の対本願寺外交文書
発給 宛て先 内容 出典
1536(天文5) 富樫小二郎(泰縄) 本願寺証如 代始めの礼物 『天文日記』
1538(天文7) 富樫小二郎(泰縄) 本願寺証如 本年の礼物 『天文日記』、『音信日記』
1539(天文8) 富樫殿(泰縄) 本願寺証如 礼物 『天文日記』、『本願寺証如書状案』
1540(天文9) 富樫殿(泰縄) 本願寺証如 年始の礼物 『本願寺証如書状案』
1541(天文10) 富樫小二郎(泰晴) 本願寺証如 年始の礼物 『天文日記』、『本願寺証如書状案』、『宛名留』
1542(天文11) 富樫小次郎(晴泰) 本願寺証如 年始の礼物 『天文日記』
1543(天文12) 富樫小二郎(晴泰) 本願寺証如 証如息の誕生祝い 『天文日記』、『音信日記』
1546(天文15) 富樫小二郎(晴泰) 本願寺証如 東燃の礼物 『天文日記』、『音信日記』

晴貞出陣履歴活動ちぇっく!
 織田信長の勢力が拡大すると、晴貞は一向一揆との協調関係を1570年に破棄し、信長に呼応して挙兵した。しかし、本願寺の兵にすぐに包囲され、大乗寺、伝灯寺などに逃げるが敵を振り切れず自害した。次男彦次郎、三男豊弘侍者は同合戦にて野々市で討ち死にした。このことから、冨樫氏の晩年には政親が篭もった高尾城が冨樫の支配下に無かった事が伺われる。しかし、それにもまして重要なことは、この期に及んで冨樫家が一向一揆と対立することが可能だった事である。晴貞が挙兵したということは、少なくとも勝算が少しでもあったと言う事が考えられる。実際に伝灯寺の僧兵は晴貞に味方している。晩年の冨樫家も影響力があった事をこの挙兵は物語っている。

晴貞文芸活動履歴ちぇっく!
 晴貞は泰高や政親同様絵の技量があったらしく多くの馬の絵が伝来する。これは、冨樫家が代々(泰高の頃からか)絵画に興味を持っていた事を推測させる。その他にも、晴貞には能楽の趣味もあったらしい。それは、江戸期の書物『加賀志徴』に、能楽の諸橋大夫が冨樫に召抱えられたとの記述からも伺える。諸橋大夫は1532(天文元)年に穴水の諸橋六郷に諸橋大夫代々の「権之進」の名が見える事から、それまでは能登に在住し、冨樫に召抱えられ小松に進出したものと思われる。1532(天文元)年まで能登在住が確認されるとなると、晴貞期になって諸橋大夫が迎えられた事になる。冨樫家が文芸に興味を持っていた事が伺えると同時に、能楽座を召抱えるだけの財力があったことが伺われる。諸橋大夫は1570(元亀元)年の冨樫家滅亡後は小松周辺に居住していたが、前田家に迎えられたらしい。

ちぇっくぽいんと-冨樫氏の晩年と外交-
 晴貞の治世時代にはいくつもの疑問点がある。
(疑問点@)なぜ、晴貞は家督を相続したのか(前当主の嫡子泰俊がなぜ跡を継がなかったのか)。
(疑問点A)なぜ、晴貞はたくさんの贈り物を本願寺にしているのだろうか。(「晴貞政治・外交活動ちぇっく!」参照)
(疑問点B)なぜ、傀儡とも言えるような存在の冨樫家が諸橋大夫(能楽座)を雇う余裕があったのか。(「晴貞文芸活動履歴ちぇっく!」参照)
(疑問点C)なぜ、小松の本折の一族が本願寺の協力を得て冨樫家被官となっている。(「晴貞政治・外交活動ちぇっく!」参照)
(疑問点D)晴貞の息子が「三男豊弘侍者」となっている点がどうしてか。
(疑問点E)なぜ、晴貞は加賀守護になっていないのだろうか。
(疑問点F)なぜ、晴貞は歴代の僭称「冨樫介」ではなく、公称の「加賀介」を名乗ったか。
 これらの疑問を一挙に解決する手として私の推論を述べたい。それは、本願寺証如の傀儡としての晴貞の存在である。「享禄の錯乱」(1531年)で父稙泰と泰俊が本願寺に敗北して加賀から逃げた。しかし、傀儡としての冨樫家当主がなんとしてもほしい。その関係で稙泰直系の兄の泰俊に代わり、冨樫家当主として擁立されたのが晴貞(晴縄)と言えないだろうか(疑問点@)。その御礼として、晴貞は積極的に本願寺に貢物をしたのではないか(疑問A)。傀儡となった冨樫家を本願寺が懐柔するために、本折を口利きで家臣にしてあげたり(疑問点C)能登から猿楽座を呼んだり(疑問点B)するようになった。そのような晴貞の状態であるならば、領地も少ないので経済的な余裕もないはずである。だからこそ、息子を「侍者」にした。「侍者」とは、寺で住職や高僧に仕えて雑用をつとめる者を言うらしい。つまり冨樫氏は息子を育てる余裕がなかったからこそ、息子を寺に出したのではなかろうか。冨樫氏がそんな状態であるからこそ、1537(天文6)年には幕府が本願寺に加賀の国役(加賀国への税金)の課せられていて、むしろ幕府の中では冨樫氏の地位の完全なる低下が起こっていたのではなかろうか。だからこそ、幕府は冨樫氏を守護に任じる必要性を感じなかったのではなかろうか(疑問点E)。その為、晴貞は朝廷・幕府への接近の必要性を感じ、1541(天文10)に将軍・足利義晴に馬を進上したり、公称である「加賀介」を名乗ったりして、冨樫の存在感をPRしていたのではなかろうか。(疑問点F)
 それではなぜ、1570(元亀元)年に冨樫と本願寺は争いになったのか。それは、傀儡が故の反発とではなかろうか。越後守護・上杉定実が守護代・長尾為景に反抗したような、傀儡君主に一般的にみられる行動ではないだろうか。ただ、この戦いは、本願寺が晴貞を攻めたのか、晴貞が反旗を挙げて本願寺が攻めたのかではだいぶ意味が異なる。前者ならば晴貞の影響力は、本願寺にとって邪魔な存在であって潰そうという事であり、後者は積極的に晴貞が実権回復を伺っている事になり、それなりの権力が晴貞にあることになる(完全な傀儡ならば反旗を翻すこともできまい)。これは史料的限界(古文書があまり残っていない)のある冨樫氏にとっては、解明の余地がない。しかし、まだ解明の可能性はある。それは「冨樫館の発掘調査」である。『野々市町史』資料編1によると、冨樫館の「十六世紀を境に堀は徐々に埋まっていき、守護所としての求心的な力は政親自刃とともに急速に失われたようである」(同掲書P.287)とあり、堀だけ見ると冨樫館が戦乱で失われた様子は確認できない。あとは、館の内部の建物がどのような変革をたどっているのか、考古学見地から確認したいものである。

☆参考資料
●晴貞花押
冨樫晴貞花押
●晴泰花押
冨樫晴泰花押
●冨樫晴貞墓地(金沢市伝灯寺)
晴貞の墓

(注釈)
(注1)稙泰の嫡子泰俊は亨禄の錯乱での結果、一向一揆方の牢人となったので、稙泰次男の晴貞が家督を継承した。

参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社.1989年
東四柳史明(共著)『室町幕府守護職家事典 』新人物往来社.1988年
米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社.1986年
歴史書刊行会(編)『加賀・能登の能楽』北國新聞社,1997年
中西国男「中世における加賀・能登の猿楽」『北陸史学』22号,1973年

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