↑冨樫幸千代イメージ像(畠山義綱画)
加賀守護。成春の次男。応仁の乱において東軍に組した冨樫政親に対抗する旧教家党で北加賀の国人たちが擁立したのが幸千代である。幸千代は一時、越前甲斐氏の支援を受けて政親を破るが、後援の甲斐氏の支援が弱まると、形勢が逆転し、1474年一揆衆らの支援を得た政親方に拠点の蓮代寺城は陥落し逃亡した(文明の一揆)。 |
幸千代支配体制ちぇっく!
幸千代政権(1473?-1474)
守護代:額景春(熊夜叉)、小杉某
主力家臣:狩野伊賀入道、額田藤八郎、小杉某、沢井某、阿曾某
基本的には旧教家党の国人衆で構成されていた。本折氏・槻橋氏など旧教家党の有力者がみえないのは、政親の治世下で旧泰高党に定着した為に幸千代政権に参加しなかったのであろうか。
幸千代政治・外交活動ちぇっく!
1467(応仁元)、冨樫幸千代は冨樫政親(鶴童丸)に対抗するシンボルとして擁立されたと言われる。擁立された理由は、この年京都で勃発した応仁の乱において政親が旧敵である細川勝元陣営である東軍に属したためであろう。政親は冨樫成春の嫡男であり本来は反細川派であった。しかし、父成春が領国(北半国守護)を罷免されて赤松政則が半国守護に補任されると、泰高党及び教家(成春)党はお互い和睦して失地回復にあたることになった。そのため、1464(寛正5)年に泰高は当主を隠居し成春嫡男であった政親に家督が継承されたのである。こうして1441(嘉吉元)年以来激しく対立してきた泰高・教家は一応統一されたのであった。しかし、冨樫家に落とした対立の根は深かったようで、応仁の乱において政親が東軍に属したことから旧教家党の不満が噴出したのであって、その象徴が幸千代の擁立となった。この応仁の乱では幸千代の他に冨樫又次郎家延(注1)が西軍として見える。ただ、『野々市町史資料編1』では「『応仁別記』は本年春、山名方に富樫幸千代丸・同又次郎家延が、細川方に富樫鶴童丸が参加したと記すが、後年の付会か。」としている。
1471(文明3)年、東軍の越前守護朝倉孝景が旧守護斯波氏に攻められ時、同じ東軍陣営の冨樫政親に支援を求めたが、政親にとって朝倉は旧敵であったためこれを拒否した。怒った孝景は加賀半国守護赤松政則を通じて冨樫幸千代の擁立を画策した。このことを考えると、1467年に幸千代が擁立されたというのは虚構であり、正しくは1471年に擁立されたのであろう。事実、1467年〜1471年の間に政親と幸千代が争った形跡は今のところ見られない。やはり、『野々市町史資料編1』が指摘するように、後年に付会したために年次を間違えたものであるか。ただ、幸千代には越前旧守護斯波氏の守護代甲斐氏が味方したので、朝倉孝景と幸千代の連携はそれほど長く続かなかったと思われる。
冨樫幸千代が加賀守護になったかどうかは、これまであやふやであったが、『野々市町史資料編1』によると、「『今古独語』は、本願寺門徒が「根本の守護富樫次郎政親」を引出したと記すので、弟幸千代が加賀守護に補任された一証となる。」(445頁より)としている。とすると、1474(文明6)年の文明の一揆における蓮代寺城攻防戦は守護冨樫幸千代対冨樫政親の戦いであったということになる。幸千代の守護補任時期は不明であるが、1473(文明3)年に幸千代勢が山内の政親居館を攻めたと言うので守護補任時期はそれ以降か。なお、文明の一揆で幸千代勢は新興の本願寺派に門徒を奪われていた専修寺派が本願寺を破り加賀の勢力維持を図るため幸千代と結んだ(注2)。
1474年の政親との戦いに敗れて京都に敗走した幸千代は、京都において守護職奪回工作を続けていた。当時政親及び政親被官が分国で諸家領の押領行為を度々していたようで、京都の諸家は困っていたようだ。そこで、1476(文明8)年甘露寺親長などが幸千代に加賀半国守護拝領が近いことを伝えると共に、幸千代に押領停止を依頼しようとした(『親長卿記』より)。これは、幸千代が守護職復帰が濃厚と親長が思ったための行為であり、幸千代も京都で精力的に工作を続けていた結果であろう。ただし、幸千代が再び守護に補任されることはなかった。
幸千代出陣履歴ちぇっく!
1471年に旧教家党から幸千代が擁立されると、越前甲斐氏の支援を得て力を増していった。1473年に幸千代は政親居館山内を攻撃して越前に追放すると、政親は朝倉孝景を介して幕府に同じ東軍で畠山政長の分国越中勢の援助を請うた。その為か、翌年の合戦(文明の一揆)では「政親に同心するのが道理」という幕府奉書が出された。加賀守護である冨樫幸千代軍も応戦したが、政親に拠点の城・蓮台寺城を攻略された。その時、幸千代被官として沢井・阿曽・狩野・小杉らがいたとされるが、このうち守護代・小杉某と狩野伊賀入道が戦死した。幸千代は難を逃れて京都に逃走した。
その後1479(文明11)年『十輪院内府記紙背文書』によると、幸千代の「加賀入国必定」と言われるほど入国が現実味を帯びていた。そこで十輪院の中院通秀は諸家領の違乱停止を依頼したが、実際には幸千代は加賀に入国できなかったようである。その後の幸千代の消息は不明である。
ちぇっくぽいんと!
冨樫幸千代の生年・没年は知られない。しかし、実兄である冨樫政親の生年は1455年なので、幸千代はそれ以降となる。「幸千代」という名前は当然幼名であり、1476年になっても「幸千代」の名前が見えることからまだ元服するには早い年齢であったのであろう。とすると、一般に遅くとも元服は20歳以前にするであろうから、幸千代の生年は1456年以降となり、政親の弟という点で合致する。現実的には16歳くらいで元服すると考えると1460年頃の生まれであろうか。
(注釈)
(注1)冨樫庶流の押野氏の出自である。
(注2)専修寺派が幸千代と結んだ為、当初冨樫家の内紛介入に否定的だった本願寺派も、政親と結んで参戦した。
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