山川高藤特集

山川高藤イメージ像
↑山川高藤イメージ像(畠山義綱画)

☆山川 高藤<やまごう たかふじ>(生没年不詳)
 三河守。最初泰高に仕えたが、泰高家督移譲後の政親・幸千代の兄弟対決(文明の一揆)では政親に味方した。政親政権で南加賀半国守護代となり、守護代として荘園の横領に対処したり、1489年に幕府の六角征討に政親が参加した際には、留守の加賀を守護代として切り盛りする。その際、政親の命で軍費調達の為、兵糧米・人夫などを課された。長亨の一揆では一貫して政親派として一向一揆と戦った。

高藤政治力ちぇっく!
 石田晴男氏は山川高藤を中院家によって補任された家領の代官としている。しかし、それを神田千里氏(『一向一揆と真宗信仰』より)で反論している。「山川氏は冨樫家の被官であり(略)」としている。『官知論』では長亨の一揆(高尾城攻防戦)にて和平を申し入れた一揆側の意見を冨樫政親に取り次ぐ人物としている(注1)からも、冨樫家で政親の側近ないし、重臣であったことが伺われる。また、『冨樫物語』において、山川高藤は政親の側に仕え、戦略などの意見を具申している。
 1487(長享元)年将軍足利義尚自ら出陣する幕府の六角征討が行われた際、政親もこれに参加している。この際に高藤は留守の加賀を守護代として切り盛りしている。この時、政親の命で等寺院領加賀粟津保に兵糧200石、人夫100人を命じたところ、等寺院は大いに困った(反発)したと言う。高藤に縁のある等寺院の者が減免を請うたところ、わずか15貫200文を納めた他は赦免としたと言い、これを徳としたとされる(『景徐日渉記』より)。この次の年に長亨の一揆(高尾城攻防戦)に起こったことを考えると、高藤の行動は現実路線をみることができる。理想を追求する政親と、それに反発する領国との間で高藤も悩んだことであろう。相当の実務能力が求められたことであろう。
 長亨の一揆(高尾城攻防戦)において政親方の敗戦が決定的になった際、政親の奥方を一向一揆方の光徳寺と申し合わせて城を脱出させるということをした。これは、高藤の妹「おわん」が一向一揆方として参戦している松任安吉城主大窪源左衛門に嫁いでいたという理由から実現できたということもあろうが、どんな不利な状況においても、冷静な判断ができるという高藤の一面を物語るエピソードであるとも思える。しかしこれらは『官知論』に伝わるエピソードであり、全てを信じるわけにはいかない。それよりは、長亨の一揆(高尾城攻防戦)において最終的に主君・政親を裏切って高尾城を脱出しており、高い地位にありながら政親との信頼関係が深いものではなかったのではないかと思われる節もある。
 政親自害後の冨樫家当主泰高に守護代として山川高次がいる。高藤の子と言う。山川氏は元は泰高の被官といえども、高藤は政親に仕えていた人物である。その息子である山川高次を泰高が家臣として迎え入れたと言うことは、山川氏がその政治的手腕を買われたのか、高藤が政親を裏切って泰高方に付いたのかもしれない。
 ちなみに、山川三河守(高藤)の館として金沢市山川町と野々市町本町の2箇所が伝わるが、本拠は金沢市山川町の方であったという。

高藤出陣履歴ちぇっく!
 政治力ちぇっくでも述べたように長亨の一揆(高尾城攻防戦)で、高藤は政親の参謀と言える役割を果たしている。それだけでなく、同合戦で頼みの綱とも言える各国の援軍を迎える役目も与えられている(越前朝倉の援軍を迎えに「松坂信遠」が、越中神保氏等への迎えには高藤が出陣している)こともあり、内政面だけでなく軍事面でも戦略・軍指揮ともに政親に信頼されていたといえる。しかし、圧倒的な兵力差をつけられていることもあり、高藤の能力は存分に発揮できなかったようである。越中からの援軍を迎えに行った時は、20万人とも言われる一揆軍に対し1500人の手勢であえなく敗退し高尾城に戻っているし、1488年6月9日の最後の政親方の反撃では、一揆方の将・三池掃部の軍に捕らえられ、吉野の祇陀寺に幽閉された(一説には戦死したとも言う)。高藤は夕闇に紛れて脱出し越前大野へ向かったとされているが、その後の消息は明らかでない。

高藤文芸活動ちぇっく!
 高藤は、連歌師宗祇との交流をもっており、加賀の自邸に宗祇を招いて連歌の会を催したと言われる。「苑池の蓮花を観賞して唱和」(津田邦儀著『石川訪古遊記』より)したと言う。ではいつ宗祇は山川邸を訪れたか。冨樫研究の第一人者である舘残翁氏によると1484(文明16)年か1486(文明18)年の越後下向の途中ではないかとしている。下の古文書Aは山川高藤の発句ではなく、山川高藤主催の連歌会での発句である。近世資料によると、冨樫館もある野々市に守護代館と見われる山川館も野々市にあったとされている。宗祇の加賀国内での連歌会はこの資料のみであることから考えると、加賀国内で宗祇を招いて連歌会を催すレベルの教養を持っていたのは高藤のみだったのかもしれない。
 金沢市山川町に「諏訪神社」があるが、この神社は、冨樫家重臣「山川三河守」がこの地に館を構えた時に創建されたと伝えられるも、創建された年代は不明である。山川氏は「筑後守家」や「豊前守家」などもあり、多くの家臣がいる。その中で「山川三河守」と言えばこの山川高藤がもっとも著名な人物である。とするならば、この高藤が冨樫泰高政権の1447(文安4)年時以降に建てられたものかもしれない。あるいは、もっと違う山川三河守某としてもっと前から創建されていた可能性もある。

古文書A「宇良葉」夏
(貴重古典籍叢書刊12宗祇句集)
加賀国山川三河守許の會に、氷室を

みこしちや宮こちかくはひむろ山
  おなし心を
水さむき山を氷室の名殘哉

ちぇっくぽいんと!
 高藤の「高」の字は冨樫泰高の偏諱であろうか。となると、泰高が南半国守護を政親に譲る1464年以前に元服したと言う事になる。『富樫物語』の長亨の一揆(高尾城攻防戦)で山川高藤が「老臣」と形容されている事からも、この頃かなりの年齢に達していたのであろう。
 山川氏は元々泰高派の主力で、反泰高の教家派の主力は本折氏であった。それゆえ、泰高派の当主政親が一国守護になって実力を伸ばしていたと同時に、山川氏の実力も伸びていったと考えられる。

(注釈)
(注1)高藤の妹「おわん」が一向一揆方の大窪源左衛門に嫁いでいた為、一向一揆方の連絡を仲介をし易かったことも理由に挙げられる。

☆参考資料(山川高次花押)
山川高次花押
↑山川高次は高藤の子ヵ

参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社,1989年
井上鋭夫『一向一揆の研究』吉川弘文館,1968年
神田千里『一向一揆と戦国社会』吉川弘文館,1988年
高井勝己『北加賀の山城』(自費出版).2001年
室山孝「加賀の守護所と野々市」『中近世移行期前田家領国における城下町と権力-加賀・能登・越中-』所収.2016年
富樫卿奉讃会『富樫物語』北国出版社,1977年
富樫氏と高尾城の歴史研究会『富樫氏の歴史と伝承』金沢市都市政策局圏域交流課,2007年
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