冨樫稙泰特集

冨樫稙泰イメージ像
↑冨樫稙泰イメージ像(畠山義綱画)

☆冨樫 稙泰<とがし たねやす>(?〜1535)
 泰高の孫。初名恒泰。仮名次郎。法名泰雲寺殿通安。泰高の孫だが、父・泰成が早世した為、傀儡化された加賀守護・泰高の跡を嫡孫の稙泰が継承した。稙泰の「稙」は室町幕府将軍・足利義稙の偏諱だと思われる。1531年に起こった亨禄の錯乱にて小一揆方の味方をした為、大一揆方に敗れて加賀守護の地位を追われた。これにより守護冨樫家の権威は完全に失墜し、本願寺が本格的に領国内調停者の地位を得た。

稙泰への代替り時期ちぇっく!
 泰高の没年は不詳であるゆえ、稙泰への正確な代替り時期は推定できない。しかし、木越祐馨氏が『日本の名族七−北陸編−』において、泰高の没年を「明応九年十一月から永正三年(一五○六)三月にいたる間に死亡した。(中略)子の慈顕がすでに没していたため、孫の稙泰に家督が継承された。」とし、泰高の没後稙泰が家督継承したとする。一方、井上鋭夫氏は『一向一揆の研究』において、「明応三年八月義材が越中で兵を挙げると、加賀守護冨樫稙泰や一向衆巨頭洲崎慶覚・河合宣久はこれに応じ」とあり、1494(明応3)年にすでに家督を稙泰が継いだとして書かれている。1494年時点ではまだ泰高が存命中であり木越氏の説と対立する事になる。館残翁氏がその著書『冨樫氏と加賀一向一揆史料』において、泰高の年齢が「兄持春より五年後の出生として」とあるように、持春が1413年の生まれでるから、泰高が1418年の生まれと仮定して、1494年時点で泰高・77歳となる。77歳と言う年齢で、傀儡とは言え守護と言う重荷に耐えれるかは疑問であるので、すでに稙泰に家督を譲っていたとしても不思議でない。しかし、今のところ決定的な確証はなく、泰高−稙泰への代替り時期の問題は今後の課題である。ただ、恒泰(稙泰)は1504(永正元)年に法慶道場(善性寺の前身)に父・泰高が寄進した山林・屋敷の安堵状を出しており、それが代替わりの安堵状である可能性もある。

稙泰支配体制ちぇっく!
 稙泰は1504年(永正元)に第二次泰高政権で泰高が法慶道場に寄進した大仙寺領有の屋敷と山林を安堵している。1524年(大永4)には、奥州葛西氏の使者下向にあたって、加賀国内の路次の安全を保証するよう細川高国から命じられている。それが以下の文書である。

『岩手大学学芸学部所蔵文書』(浜田敏夫氏旧蔵小本文書)
就公方様御礼事、為葛西陸奥守使岩淵紀伊守・伊藤大蔵少丞致参洛、
只今下国候、路次無其煩之様候者、可為喜悦候、恐々謹言、
 十月廿四日 高国(花押)
  冨樫次郎殿
付箋「大永四年十二月七日到着」

木越氏は「このことは守護権の行使によらなければ保証できないため、稙泰が依然守護として存在したことを示している。」と書かれている。これらのことから、実態は別として表面上は稙泰が守護としての活動をしていることを示すものである。しかし、守護権の行使には実権が伴なっていたかどうかは疑問である。それは、本願寺などの一向一揆勢は第二次泰高政権期の後半から徐々に勢いを増し、冨樫氏の守護としての実権を奪い、次第に冨樫氏の守護は名目的なものになっていったからである(注1)
 ただ、将軍足利義稙が義尹から義稙と名乗ったのが1513年(永正10)であるから、恒泰(=稙泰)が将軍から「稙」の一字を与えられるほど、幕府に対して活動ないし貢献をした事実が伺えるので、まだそれなりに冨樫家にも財政力があったと考えられる。

『大館常興書札抄』
富樫殿内、ぬか・山河
此方被官衆大概おなしことくに進之候と書へし、さのみさうになく可書也、
如此の諸家被官之内にても、おとな衆にてはなくて、すゑの輩には、
いかにも進之候もさうにあるへし。

 『大館常興書札抄』 とは、永正年間(1504-1521)、大永年間(1521-1528)の間に描かれたものと思われる、室町幕府の幕臣・大館尚氏が書いたものを後年に大館常興がまとめたものである。永正年間・大永年間は冨樫家で言うと稙泰の治世にあたる。その時に至っても、冨樫家中に額氏と山川氏が被官となっていたことがうかがわれる。

稙泰外交ちぇっく!
 1518(永正15)年に、稙泰は幕府奉公衆である摂津元直を通じて、「冨樫介」の官途を得ようと口宣を申請した。しかし公卿の中御門宣胤は、冨樫という国はないので、代わりに「加賀介」と判断され冨樫側に結果を伝えている。「○○介」というのは国につく役職なので、中御門宣胤は当惑は当然のことである。「冨樫介」(注2)は一族の通称であるのにもかかわらず朝廷に官途を打診するという姿勢に、泰高や政親のように室町幕府に積極的に出仕していたのに対し、稙泰は幕府との関係が不足していたのではないかと考える。

稙泰出陣履歴ちぇっく!
 稙泰の戦績はあまり芳しくない。将軍義高(後、義材・義稙)が細川政元に追放され越中に退いていたが、1492(明応3)年8月に前将軍・足利義材(後義稙)が挙兵をする。すると、稙泰や一向一揆の中心人物である洲崎慶覚や河合宣久が呼応して挙兵し、六角高頼と結ぶ朝倉氏を反朝倉の越前国人・甲斐氏とともに越前で進撃した。しかし、後援が得られず加賀軍・甲斐軍は敗れて加賀へ撤退した。また戦前の資料である『昔日北華録』によると、将軍・足利義材の要請に従って「富樫介稙泰五百騎を引率し先陣に加わる」ともある。この資料によるとその時期は1490(明応元)年だが、その時期にはまだ中央での政変が行っていないので、誤りだと思われる。
 さらに、1531(亨禄4)年には一向一揆が超勝寺・本覚寺方(=大一揆)と、賀州三ヶ寺方(=小一揆)に分かれて内乱が起こった(亨禄の錯乱)。賀州三ヶ寺は守護冨樫氏と協調路線をとっていたため、稙泰も小一揆方として参戦したが、敗れて長子・泰俊、国長衆数百人とともに牢人となった。この錯乱の敗戦で加賀守護冨樫家の権威は完全に失われたといって良い程凋落した。その後、稙泰は国外に亡命し失意のうちに没した。この亨禄の錯乱における冨樫家の対応について神田千里氏は著書『一向一揆と戦国社会』において、「このような冨樫氏の対応は、この時点で一揆の頭目の地位をほぼ喪失し、一揆の一員に埋没していたことを何よりも雄弁に物語るように思われる。」と指摘している。

☆参考資料(稙泰花押)
稙泰花押

(注釈1)
(注1)1537(天文6)年には諸国守護への国役が加賀では本願寺に懸けられており、冨樫氏が守護として実態を伴なわないものとなっていた微証と言える。
(注2)自家が代々‘介’に任ぜられている事に由来する名乗りであり、周囲も認知する通称(尊称)としたものが八介となっているようです。
大内介=周防権介に任官されている大内氏当主。
冨樫介=加賀介に任官されている冨樫氏当主。
井伊介=遠江介に任官されている井伊氏当主。
狩野介=伊豆介に任官されている狩野氏当主。
三浦介=相模介に任官されている三浦氏当主。
千葉介=下総権介に任官されている千葉氏当主。
上総介=当主が上総権介に任官された為苗字とする。
秋田城介=秋田城主兼出羽介の事。鎌倉時代は安達氏。
<ご教授いただいた巣鴨介様ありがとございます!>

参考資料
木越祐馨(共著)『日本の名族七−北陸編−』新人物往来社,1989年
井上鋭夫『一向一揆の研究』吉川弘文館,1968年
神田千里『一向一揆と戦国社会』吉川弘文館.1998年
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