↑山川家之イメージ像(畠山義綱画)
筑後守。仮名八郎。満春・持春・泰高に仕えた(教家に仕えたかはわからない)。満春政権・持春政権では守護代に任じられている。1441(嘉吉元)年より冨樫泰高と教家が争った加賀嘉吉文安の内乱では、主君泰高に忠実に仕え、教家党としばしばたたかっている。しかし1443年、泰高の敵教家を支援する管領畠山持国邸襲撃を計画するが事前発覚され、その責を負って息子共々自害して果てた。 |
家之政治力ちぇっく!
家之の文書初見は1419(応永26)年である。冨樫満春に命じられて、石田兵庫入道に「家之(花押)」と署名し文書を発給している。また、1420(応永27)年には文書(A)に見られるように冨樫満春から催促停止を命じられているので、家之の立場が守護代であったことがわかる。(注1)
一、同遵行 天龍寺領加賀国横江庄地頭職白山社造営段別米・人夫役等事、 任去応永廿六年六月二日御教書之旨、可停止催促由、可被相 触社家雑掌之状如件、 応永廿七年二月十五日 冨樫介(満春)判 山川筑後守(家之)殿 |
1431(永亨3)年には、幕府より飯尾貞連に充行されたのを冨樫持春に遵行が命じられたが、その際、満春より家之が命じられて進藤次郎左衛門入道に文書を発給したことが知られる。このように、家之は満春・持春政権を通じて守護代として加賀の国政を担っていたようだ、。家之の詳しい治世はわからないが、長年にわたって守護代を任じられるのは、それなりに行政手腕があったと推測できよう。一方で万里小路時房は家之を「泰高は「微弱不便者」であって罪に及ばず、国元での悪行はひとえに山川に責任があり」(注2)という評価もある。
1433(永亨5)年〜1441(嘉吉元)年に至る冨樫教家の治世では、古文書の数の制約もあってその動向が明らかでない。しかし、1441年の泰高の治世になると、再び家之の存在が知られることを考えると、教家政権下でも被官として活躍したのではないか。ただ、泰高と教家の「両流相論」時代において何故、守護在職期間が僅かしかなかった泰高党に属したのかは不明である。
家之出陣履歴ちぇっく!
1441年、守護泰高と前守護教家との家督争いが起こり、以後6年間にもわたる加賀嘉吉文安の内乱が勃発した。この内乱において家之は泰高党に属し主力として奮戦した。1441年12月に教家党の本折但馬入道父子が加賀に侵攻してきた時、家之は幕府より泰高党への合力を命じられた摂津満親(注3)と共同してこれを防戦している。この合戦は3度行われたと言われ、最初家之が勝ち、次は本折が勝ち、最後に家之が勝つという激しい戦闘が行われた。
1442(嘉吉2)年、泰高を支持する細川持之が死去した為、教家を支持する畠山持国が管領となった。すると、持国は泰高の守護職を罷免し、教家の嫡子・亀童丸を守護に補任した。しかし、泰高は加賀在地勢力の多くを味方につけていたため、国元を離れずにいた。すると、教家は亀童丸とその被官・本折某を強引に加賀に入国させ、再び泰高党と合戦を繰り広げた。泰高党もかなり抵抗したが無念にも敗れ、主力である家之は京都に敗走した。家之はこれらの激しい戦闘を何度も経験していることから相当軍事力・統率力ともに長けた人物だと推測できる。
管領も教家を支持し、守護職も分国も奪われた泰高党の状態で、家之は起死回生のために管領畠山持国邸の襲撃を計画した。しかし、泰高を支持する細川氏に合力を拒絶された挙句、この計画が事前発覚されてしまった。泰高はこの襲撃未遂事件と以前泰高方が幕府料所の代官を謀殺した罪も合わせて咎められ、幕府より京都追放を命じられた。この危機を打開する為に家之とその息子は1443(嘉吉3)年2月28日、泰高の無実を嘆願し又襲撃未遂事件の責任を取って切腹した(『師郷記』より)。この家之の切腹に伏見宮貞成親王は「主を扶て一身腹を切るの条、忠節の至り、感嘆に堪えざるものか」(『看聞御記』より)と誉め称えたと言う。この家之らの切腹により、泰高を討つべく出陣していた畠山持国も矛を収めたと言われ、泰高は最大の危機を脱したのである。
家之の切腹は幕命であるとも言われるが、持国邸襲撃事件にしても切腹にしろ家之の行動は大胆であり、主君に忠の厚いものである。
家之文芸履歴ちぇっく!
1443年家之の切腹にあたり辞世の句が伝えられている。
「あづさ弓五十路をこゆる年浪のまことの道に入にけるかな」
“五十路”ということは、この時家之は50歳前後であったのであろうか。文書初見時期などを考えると、年代的にもほぼ誤りはないので、山川家之の年齢を考える興味深い資料である。
この句から1443年時に50代前半であると考えられる(注4)。かりに死去時の年齢が51歳だと仮定すると、誕生年は1392年となる。すると、1419年守護代となったのが27歳となる。年齢的には合致いくものと言える。
(注釈)
(注1)満春政権下では加賀国北ニ郡守護代に任じられたと言う。
(注2)室山孝「富樫教家の流転-加賀両流相論のはざまで-(『地域社会の歴史と人物』所収.2008年)の12頁より
(注3)摂津満親は現金沢市に領地を持っていた幕府奉公衆であるので、幕府より合力を命じられたと思われる。
(注4)「五十路をこゆる年浪」というからには、丁度50歳を過ぎた辺りではないか。60歳近くなら別の言いまわしが考えられると思う。
★参考資料
↑山川家之花押
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