英田 次郎四郎(あがた じろうしろう) | 生没年不詳 |
実名不詳。守護代。冨樫氏の庶流とみられる。冨樫昌家が上洛して将軍・足利義満に近侍すると、次郎四郎は加賀守護代として国許の統治を任された。1374(応安7)年頃には守護代としての活躍が知られる。1400(応永7)年、昌家から加賀国能美郡一針村(小松市)などを石清水八幡宮雑掌に渡すよう命じられている。 | 詳細情報なし |
英田 智円(あがた ちえん) | 生没年不詳 |
実名不詳。1387(至徳3)年、祗園社領の萱野保の年貢徴収を請け負っている。 | 詳細情報なし |
英田 昌延(あがた まさのぶ) | 1363-1391 |
冨樫氏庶流の英田氏。享年29歳。法名祖妙。山名氏が幕府に反旗を翻して起こした明徳の乱(1391年)に対する足利義満軍に従軍しており、京都の内野で討死した。享年29歳。法名祖妙。従来、1387(至徳4)年に昌家死去後に加賀守護職を取り上げられた冨樫氏は、幕府に反旗を翻した山名氏に味方したというが、昌延は幕府軍として活躍しており、反幕府軍として討死したという軍紀物の記録は誤りである。 | 詳細情報なし |
阿曾 孫六(あそ まごろく) | ?-1488 |
冨樫政親の家臣で長亨の一揆(高尾城攻防戦)において討死している。孫八郎盛俊の同族ヵ。(『官知論』より) | 詳細情報なし |
阿曾 盛俊(あそ もりとし) | 生没年不詳 |
孫八郎。冨樫政親の家臣。元は冨樫幸千代の武将であったが、この頃までには政親に従いっており長亨の一揆(高尾城攻防戦)に参戦している(『官知論』より)。越中よりの援軍に乗じて小杉基久と2000騎で布陣したが、一揆軍に越中からの援軍と共に敗れ去ったという。『官知論』には「盛後」と記載されるが、読みは「もりとし」と書いてあるので、おそらく「盛俊」の誤りであろう。 | 詳細情報なし |
有松 次郎三郎(ありまつ じろうさぶろう) | 生没年不詳 |
実名不詳。冨樫氏の一族と言われる。伝承では金沢市有松町に館があった言われる。 | 詳細情報なし |
岩室 某(いわむろ ぼう) | 生没年不詳 |
実名不詳。成春被官。成春が北半国守護を取り上げられ赤松政則が守護に任じられると、これに対抗して成春嫡子・冨樫政親を奉じて政則の入国に抵抗した。しかし、鎮圧された。1457(長禄元)年にみえる成春被官に岩室帯刀亮(いわむろたてわきのすけ)がいるが、これが同一人物かどうかはわからない。 | 詳細情報なし |
押野 家嗣(おしの いえつぐ) | 生没年不詳 |
冨樫庶流の押野氏の一族。冨樫昌家の被官。妙法院円音寺領の年貢徴収を請け負った。 | 詳細情報なし |
狩野 某(かのう ぼう) | 生没年不詳 |
実名不詳。冨樫成春の被官。1447(文安4)年の成春・泰高和解に対して異議を唱えたので、管領・細川勝元は被官の安富宝城を加賀に派遣して説得にあたった。 | 詳細情報なし |
狩野 伊賀入道(かのう いがにゅうどう) | ?-1474 |
実名不詳。狩野氏は加賀の有力国人。伊賀入道は幸千代方に味方するが、政親が本願寺門徒等の力を得て1474(文明6)年蓮台城を攻め(文明の一揆)、10月14日に陥落すると、同月24日には自害して果てた。 | 詳細情報なし |
鏑木 繁常(かぶらぎ しげつね) | 生没年不詳 |
兵衛尉。鏑木繁治の子。松任城主。鏑木氏は松任氏の一族。後に鏑木氏は一向一揆の旗本衆として活躍する。繁常は冨樫政親方の武将で1475(文明7)年6月の一揆鎮圧に活躍した。しかし、乱の途中で農村を把握する為、本願寺派に帰依した。それが元で後に一向一揆の旗本衆になったのであろう。 | 詳細情報なし |
小杉 某(こすぎ ぼう) | ?-1474 |
実名不詳。幸千代に味方するが、1474(文明6)年に政親が蓮台城を攻め落とすと(文明の一揆)、10月24日に、狩野伊賀入道とともに自害して果てた。 | 詳細情報なし |
小杉 基久(こすぎ もとひさ) | 生没年不詳 |
新八郎。冨樫政親の家臣。政親に従い長亨の一揆(高尾城攻防戦)に参戦している。(『官知論』より)幸千代の臣ということは、1474(文明6)年に文明の一揆で幸千代に味方し自害した小杉某と同族ヵ。 | 詳細情報なし |
駒井 与三郎(こまい よさぶろう) | 生没年不詳 |
実名不詳。冨樫晴貞(晴泰)の被官。1557(永禄元)年に禅昌寺(善性寺?)が売却した土地を冨樫晴貞が与三郎に知行を安堵している。 | 詳細情報なし |
斎藤 筑前守(さいとう ちくぜんのかみ) | ?-1488 |
実名不詳。冨樫政親方の将。1487(長享元)年に斎藤御園筑前守が横北庄の代官職を横領している。 | 詳細情報なし |
斉藤 藤八郎(さいとう ふじはちろう) | ?-1488 |
実名不詳。富樫氏の同族・加賀斎藤一族の家柄。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で政親方として討死している。(『官知論』より) | 詳細情報なし |
沢井 彦八郎(さわい ひこはちろう) | ?-1488 |
仮名彦八郎。実名不詳。冨樫政親の被官。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で政親方として切腹している。(『官知論』より) | 詳細情報なし |
沢井 某(こすぎ ぼう) | 生没年不詳 |
実名不詳。幸千代に味方するが与力の一人として名前が見える。(「白山宮荘厳講中記録」より) | 詳細情報なし |
沢井 彌八郎(さわい やはちろう) | 生没年不詳 |
仮名彌八郎。実名不詳。冨樫泰高の被官。加賀国得丸保の押領で、1497(明応6)年祥雲庵住持地桂首座より訴えられ、幕府より守護・泰高に押領をやめさせるよう命令が下された。 | 詳細情報なし |
末松 信濃(すえまつ しなの) | 生没年不詳 |
信濃守ヵ。冨樫氏の老臣。野々市町にある大兄八幡神社の社殿を建立したとされる。さらに隠居後、泰澄作とされる虚空蔵菩薩の社殿を本社の横に設けたとされている。 | 詳細情報なし |
洲崎 慶覚(すさき きょうかく) | ?-1531 |
加賀の門徒土豪で、一向一揆方の武将。慶覚は近江国の生まれで蓮如の弟子として加賀に下向する。1475(文明7)年に冨樫方に一揆方が敗れた時、一揆方の代表として蓮如に仲介を求めた等一揆の主軸の人物である。後に一揆方の松根城の城主となる。 | 詳細情報なし |
高尾 若狭守(たこ わかさのかみ) | 生没年不詳 |
実名不詳。若狭守。冨樫氏嫡流だと「堀内系譜」が知らせる。 | 詳細情報なし |
田村 教俊(たむら のりとし) | 生没年不詳 |
冨樫高家に1336年7月に臨川寺領賀北郡大野荘での動乱に乗じた軍勢の濫妨停止や、同郡笠野南方地頭職を沙汰されている。 | 詳細情報なし |
槻橋 左衛門尉(つきはし さえもんのじょう) | 生没年不詳 |
実名不詳。1486(文明18)年に冨樫政親が上洛する際に、伴なって上洛している。 | 詳細情報なし |
槻橋 左衛門九郎(つきはし さえもんくろう) | 生没年不詳 |
実名不詳。1511(永正8)年、専修寺応真(冨樫次郎=稙泰の異父兄弟)が、専修寺を保つ器量が無かったようで退院するために、附弟(法統を受け継ぐ者)を派遣して欲しいと、、稙泰に依頼した古文書の宛先に「槻橋左衛門九郎殿」とあるので、稙泰の被官である。 | 詳細情報なし |
槻橋 重能(つきはし しげよし) | ?-1488 |
近江守。政親・幸千代の兄弟対決では政親に味方する。1475(文明7)年に、一揆勢の年貢不沙汰などの動きから弾圧を政親に進言し、本願寺弾圧の中心となった。後、政親政権の北加賀半国守護代となる。長亨の一揆(高尾城攻防戦)で一揆方に討ち取られ死亡した。 『官知論』によると実名は「重能」(しげよし)と言われるが、良質な文献には本名が見えない。「コトニ儒道(儒学)ニ意ヲカケ、詩聯句(連歌)ノ道ヲモ嗜ミケレバ、武芸ノ道ハ申ニ不レ及。」と文化的能力と武芸の能力の高さを記述している。 |
詳細情報なし |
槻橋 親長(つきはし ちかなが) | 生没年不詳 |
政親の臣。「親」は政親の偏諱ヵ。1487(長享元)年10月に政親の命を受けて、建仁寺家代官大西帯刀丞代に年貢の進納を命じる文書を、安江永秀と共に発給している(『両足院文書』)。このことから、木越祐馨氏は、政親の「両人とも側近の奉行人であったことはいうまでもない。」(『富樫の歴史と伝承』富樫氏と高尾城の歴史研究会より)としている。 | 詳細情報なし |
槻橋 豊前守(つきはし ぶぜんのかみ) | 生没年不詳 |
実名不詳。仮名弥次郎。豊前守。政親・幸千代の兄弟対決では政親に味方する。槻橋村の冨樫氏糧倉における代官となっている。幸千代打倒に功労のあったものとして「槻橋兵庫允」なるものがいるが、豊前守か近江守のことか? | 詳細情報なし |
槻橋 某(つきはし ぼう) | ?-1455 |
実名不詳。冨樫成春の被官。槻橋某は管領畠山家の内紛に関与し、、主君成春が畠山義就を支持するのに対して、敵対する畠山政久(弥三郎)に加担した為、1455(亨徳4)年・成春の主命により本折某に討たれた。 | 詳細情報なし |
冨樫 家真(とがし いえさね) | 生没年不詳 |
仮名又次郎。又次郎家延と同族ヵ。将軍御供衆の一人。1465(寛正6)年、岩清水八幡宮の放生会に参加する将軍・足利義政夫妻に供奉している。 | 詳細情報なし |
冨樫 家延(とがし いえのぶ) | 生没年不詳 |
仮名又次郎。又次郎家真と同族ヵ。将軍足利義政の任内大臣参内に帯刀として供奉している。一説には、応仁の乱において、冨樫幸千代と共に西軍(山名派)に味方したとも言われるが、幸千代は東軍(細川派)であるので、誤りであろうか。 | 詳細情報なし |
冨樫 氏春(とがし うじはる) | 生没年不詳 |
冨樫介を称す。高家の嫡子。加賀守護。父同様、南北朝の乱では尊氏側につき、分国を拡大した。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 量家(とがし かずいえ) | 生没年不詳 |
冨樫昌家の弟。冨樫庶流の山代姓となった。兄・昌家に従って京都にいたことが確認できる。(「金沢文庫文書」より) | 詳細情報なし |
冨樫 幸千代(とがし こうちよ) | ?-1464? |
成春の次男。応仁の乱において、兄政親と文明の一揆(1474年)にて対立したが、政親には勝てなかった。 | 冨樫幸千代特集 |
冨樫 成春(とがし しげはる) | ?-1462 |
教家の嫡子。加賀北半国守護。1447年、泰高と和睦し北半国守護となるが、1458年には罷免されて赤松政則に与えられた。成春は政則の入国に抵抗したが敗れ、失意のうちに死去した。 | 冨樫成春特集 |
冨樫 高家(とがし たかいえ) | ?-1337? |
冨樫介を称す。冨樫泰明の子。加賀冨樫氏で初めて加賀守護に任命された人物。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 稙泰(とがし たねやす) | ?-1535 |
泰高の孫。初名恒泰。父泰成が早世していた為、家督を継承し、加賀守護を継いだ。しかし、種泰が家督を継承した頃はかなり本願寺勢力が強く、冨樫家の力は著しく抑制された。 | 冨樫稙泰特集 |
冨樫 教家(とがし のりいえ) | ?-1447 |
刑部大輔の後冨樫介と称す。持春の弟。幕府の奉公衆になった後に加賀守護となる。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 晴貞(とがし はるさだ) | ?-1570 |
冨樫家最後の当主。1536年に加賀冨樫宗家の家督を継承する。1570年織田信長に通じて本願寺勢力の排除を図ると、それを察知した本願寺勢力に攻められ自害した。 | 冨樫晴貞特集 |
冨樫 伯耆(とがし ほうきのかみ) | 生没年不詳 |
実名不詳。伯耆守入道。冨樫満成の被官で、1414(応永)年に千木保内府南御供田地頭職を満成に安堵されている。 | 詳細情報なし |
冨樫 昌家(とがし まさいえ) | ?-1387 |
父が死去した為、幼くして家督を継承。当主継承の初期は竹童丸の名のまま用家が実務を執る。昌家が死去すると、当斯波義種に加賀の守護職を奪われ、冨樫氏の分国経営は断絶する。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 政親(とがし まさちか) | 1455-1488 |
冨樫介と称す。成春の子。加賀南半国守護の後、加賀守護となる。幼名鶴童丸。長亨の一揆(1488年)で一向一揆衆が蜂起し政親篭もる高尾城を攻撃されると、敗れて自害した。 | 冨樫政親特集 |
冨樫 政時(とがし まさとき) | 生没年不詳 |
政直の子。別名、成田政時。『富樫家遠孫成田家由緒』や『富樫家遠孫成田家由系譜』などの後世の資料によると、父である第二十五世政直は、世をしのぶため名を成田外記と改めたといい、その後第三十二世から井上姓を名乗っている。」(『富樫卿』第57号,2003年,3頁)とある。この人物が事実とすると父が越前に逃げたことから、ほとんど加賀に入国した事はないと思われる。 | 詳細情報なし |
冨樫 政直(とがし まさなお) | 1488?-1553? |
冨樫政親の子と言われる。『富樫家遠孫成田家由緒』や『富樫家遠孫成田家由系譜』などの後世の資料によると、「加賀一向一揆が高尾城を攻落し富樫氏第二十四世の政親が討死に際し、乳飲み児であった嫡子政直を乳母が懐にかくし、富樫親春という家臣が付き添って越前の知り合いに身を寄せていたという政親直系の後裔としている。(『富樫卿』第57号,2003年,3頁) | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 用家(とがし もちいえ) | ?-1363? |
対馬守。景家の末裔で冨樫氏の庶流の額氏を名乗ったので額用家とも言われている。氏春の晩年から守護代行を勤め、若年の当主・昌家を助けた。1363(貞治2)年頃に没したらしい。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 満家(とがし みついえ) | 1363-1391 |
通称小次郎。冨樫氏春の次男。冨樫氏庶流の英田姓となる。1387(至徳4)年に兄昌家が死去すると冨樫家の家督を相続した。しかし、兄が細川派に属していたことから時の管領・斯波義将に加賀守護職に任命されなかった。1339(応永6)年に、兄昌家の13回忌を行っている。
この満家は「昔日北華録」や「越登賀三州志」などには、加賀守護職を奪われたために幕府に反旗を翻し明徳の乱(1391年)を起こした山名氏の軍に参加したとも言われるが、上記13回忌を行っていることから、1339(応永6)年に生存している事実から事実に反していると言えよう。 |
詳細情報なし |
冨樫 満春(とがし みつはる) | ?-1427 |
氏春の次男・満家の嫡子。加賀南半国守護の後加賀守護。幕府に良く配慮をし、将軍の信任を得た。特に、前将軍・義持や将軍・義量が度々満春邸を訪れるほど信頼が厚かった。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 満成(とがし みつなり) | ?-1419 |
兵部大輔。冨樫氏の庶流。加賀北半国守護。将軍義満・義持に良く仕え、1414年に嫡流の冨樫満春とともに半国守護に任命された。しかし、1418年将軍の逆鱗に触れ守護職を罷免される。 | 冨樫満成特集 |
冨樫 持春(とがし もちはる) | 1413-1433 |
冨樫介と称す。満春の嫡子。加賀守護。御相伴衆。父の死去に伴ない1427年に守護に就任。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 泰高(とがし やすたか) | 生没年不詳 |
両流相論で兄教家(とその子成春)と激しく対立する(加賀嘉吉文安の内乱)。一族融和のため、政親へ政権移譲したが長亨の一揆(1488年)で政親が自害すると、一揆に擁立され守護となった。 | 冨樫泰高特集 |
冨樫 泰俊(とがし やすとし) | ?-1464? |
稙泰の嫡男。1531(亨禄4)年に起こった亨禄の錯乱にて父と共に小一揆方の味方をした為、大一揆方に敗れて越前に亡命した。しかし1574(天正2)年に加賀の一向一揆が越前に侵入したことで、戦いに敗れ父子3人共々討死した。 | 冨樫一門人物特集 |
冨樫 泰成(とがし やすなり) | ?-1464? |
中務大輔。泰高の子。病弱で1464年頃に京都で病没した。 | 冨樫一門人物特集 |
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