<加賀冨樫氏との外交関係>
能登畠山氏と加賀冨樫氏は同じ守護大名の身分であり、その意味では両者対等の関係であったと言える。1467(応仁元)年より京都の中央政争から起こった応仁の乱においては、畠山義統は西軍、冨樫政親は東軍に属し対立していた。1468(応仁2)年4月、京都から帰国しようと加賀に差し掛かった能登兵に加賀冨樫軍が攻撃を加え能登兵に重大な被害が出たことからも、この当時義統と政親の関係はかなり悪かったと思われる。しかし、1488(長亨2)年、冨樫政親が20万人もの一向一揆軍に攻められ包囲された時(長亨の一揆)には、将軍足利義政の命令で援軍を派兵している。援軍は高尾城に向かう前に一向一揆軍に敗れた。一次交戦までした間柄であっても、援軍を派兵したというのは、「政親を救援したい」という積極的理由ではなく、「幕命に従い幕府に恩を売る」(応仁の乱により能登畠山と幕府の関係は悪化していたので、義統は贈答品を頻繁に送るなど幕府に頭が上がらなかった)、「一向一揆の能登への影響を恐れた」という消極的な理由であったと思われる。
長亨の一揆後、冨樫家の当主として冨樫泰高が一向一揆に擁立された。泰高は馬の絵を得意としたので、畠山慶致(あるいは義元ヵ)が絵を所望した。泰高が馬の絵を10幅献上したので、返礼として絵と同じような毛並みの馬・10頭を贈った(米原正義『戦国武将と茶の湯』淡交社)という。また、1531(享禄4)年に一向一揆内紛の為に起こった亨禄の錯乱では、冨樫稙泰に協調して本願寺の支援を受けた大一揆方(超勝寺・本覚寺)に対し、守護大名勢力と協調姿勢を展開する小一揆方(若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)を畠山義総は支援している。この事から、能登畠山氏は冨樫氏を軸に一向一揆(と本願寺勢力)を統制しようと試み両者の関係は良好であったと思われる。以上のことは一向一揆の「傀儡政権」と言われていた政親自害後の冨樫家も少なくない影響力があった事を物語ろう。
※加賀冨樫氏について詳しくは「加賀冨樫氏野々市の歴史」を参照のこと
西暦 | 和暦 | 畠山当主 | 冨樫当主 | 関係 | 出来事 |
1468 | 応仁2 | 畠山義統 | 冨樫政親 | 交戦 | 京都から帰国しようとした能登兵を東軍の冨樫政親軍が攻撃。能登兵は被害甚大。 |
1488 | 長亨2 | 険悪 | 幕府の命で冨樫政親救済の為加賀出兵→敗北 | ||
1500-1506? | 畠山慶致 | 冨樫泰高 | 良好 | 慶致が泰高の馬の絵を所望し贈答される。返礼として実物の馬を10頭贈る。 | |
1531 | 享禄4 | 畠山義総 | 冨樫稙泰 | 連携 | 亨禄の錯乱に対し、稙泰の味方する小一揆方に義総が加勢する→敗北 |
<本願寺政権(一向一揆)との外交関係>
長亨の一揆(1488)年において冨樫政親が敗れ自害すると、一向一揆勢力は冨樫泰高を当主に擁立した。しかし、その冨樫勢力とは別個に本願寺勢力は次第に加賀で政治組織を作り上げ後には国政を担当するに至っている。そのため、冨樫氏とは別に本願寺政権との外交関係を述べていく。
長亨の一揆以降、北陸では一向一揆の勢力がすこぶる高まっていた。能登も例外ではなく1490(延徳2)年には能登国内で一向一揆の扇動が起き井口某の密告みよって辛うじて弾圧に成功する等、一向一揆との極めて関係が悪化していた。義総の代になると北陸の政情を安定化するため、一向一揆と協調体制を実現させようと試みるが、越中守護の畠山宗家・畠山尚順と協調して主家に反旗を翻した神保慶宗征伐に加わった越後守護代・長尾為景と一向一揆の仲が悪く1521(大永元)には越中にて一向一揆蜂起。(戦場は主に氷見=越中大永の乱) 長尾為景・畠山義総が応戦し、飛騨の内ヶ島氏が一揆方として加わるなど関係は悪化した。1531(亨禄4)年、加賀で一向一揆勢力の内乱(亨禄の錯乱)が勃発し、守護と協調姿勢をとるの小一揆方(若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)及び加賀守護冨樫稙泰を支援し越前の朝倉と共同で出兵した。しかし、本願寺が支援する大一揆方(超勝寺・本覚寺)と対決に敗れ(加賀津幡の合戦)て、加賀は一向一揆は益々本願寺勢力色が色濃くなっていく。その一方、能登畠山氏は小一揆方を能登に亡命させ保護し、その勢力維持に努めた。なお、文明17・18年頃(1485-1486)に能登畠山氏庶流の西谷内畠山氏・政栄の娘・蓮能尼(1466-1518)が蓮如の5番目の室となったと言われている。この蓮能尼を利用して、能登畠山家も本願寺政権に対して様々な交渉をしたのは想像に難くない。
16世紀に入ると能登の反主流派(畠山九郎・畠山駿河など)が度々一向一揆と提携して当主打倒を企てた為、畠山家は本願寺政権と関係改善をする必要性を痛感し、贈答品を送るなどして懐柔していった。婚姻関係である六角氏の協力もあり、1539(天文8)年には石山本願寺と和睦し緊張関係を緩和する事に成功した。本願寺政権との交渉役としては、義総政権・義続政権期では神保総誠の名が、義綱政権では神保周防守の名が交渉の奏者としてあがっている。さらに能登国内でも一向一揆門徒の組織化を図って協調しようと模索するなどして、本願寺との緊張緩和を試みた。詳しくは林六郎光明殿(六郎光明の屋形@管理人)のご意見を参照していただきたい。
畠山義綱の治世では弘治の内乱において、反義綱勢力の温井氏勢力を支援したが、六角氏を通じて合力を停止させた。しかし、本音は温井への支援をしたかったのが透けて見える。それを見越して1560(永禄3)年に、畠山義綱は六角義賢に遊佐続光を派遣して、「雖然賀州表裏而已有」(どうも裏表がある)と述べて、加賀へ使者を派遣するよう要望している。畠山義綱が追放(永禄九年の政変)されて以降は、本願寺と懇意であった温井景隆が能登畠山家に帰参したので、温井家を中心に良好な関係を保ち、近江に逃れた「義綱亡命政府」と対立を深めた。
(林六郎光明殿のメール等抜粋) 一向一揆の起こす危険性のある門徒たちを、畠山がイニシアチブを取りながら組織化させて、それを本願寺に認めさせるなど、なかなかできることではないです。もともと加賀一向一揆の専攻の私から見ても、一国の守護として、この時期(1551年)にしては、かなりの情勢判断と手腕ですよ。加賀の隣国とはいえ、時期的にも早い段階でこうしている(本願寺への贈答など柔軟政策)とは驚きでした。朝倉氏とは正反対の政治・外交方針で、この時代時点では畠山の方がはるかに柔軟で、数段先に進んでいるという感じを持ちました。 本願寺と畠山の関係は私もずっと悪かったと考えていたのですが、まさか、天文年間に修復を図っていたとは思いもしませんでした。享禄の錯乱以後、本願寺は戦国大名化の道を歩み始め、加賀の一向一揆とは若干の意識のズレを残しつつ、のちに信長と戦うことになりました。ただ、琵琶湖西岸の堅田衆は相変わらず本願寺直属ですし、湖上交通権を独占する堅田衆と、敦賀・小浜の商人など、北陸と畿内を結ぶ商業ルートに畠山が繋がっていたとすると、本願寺の情報も早くから、かなり詳細に入っていたことと思います。これにきっかけとしての近江六角氏との関係があれば、あとは…という話です。 |
西暦 | 和暦 | 畠山当主 | 主勢力 | 関係 | 出来事 |
1485-1486 | 畠山義統 | − | − | 畠山政栄の娘(蓮能尼)が蓮如の5番目の室となる。 | |
1490 | 延徳2 | 一向一揆 | 険悪 | 能登国内でも一向一揆が計画されるが、事前に発覚し弾圧に成功する。 | |
1506 | 永正3 | 畠山慶致 | 交戦 | 能登の他全国各地で一向衆が蜂起する | |
1521 | 大永元 | 畠山義総 | 険悪 | 加州三ヵ寺との関係を疎かにしない旨を長尾為景に義総が伝える。 | |
同年 | 交戦 | 越中にて一向一揆蜂起。(戦場は主に氷見) 長尾為景・畠山義総が応戦。 | |||
1531 | 亨禄4 | 大一揆 | 交戦 | 守護大名勢力と強調する小一揆方を支援し大一揆方と交戦する→敗北 | |
1538 | 天文7 | 本願寺 | 険悪 | 能登を出奔した畠山九郎・駿河らを本願寺が支援し、義総と対峙する。 | |
1539 | 天文8 | 敵視 | 六角定頼を通じて本願寺との表面上は和睦に成功。畠山九郎等への合力停止される。 | ||
1547 | 天文16 | 畠山義続 | 敵対 | 本願寺が畠山駿河を支援し、能登入国し押水の合戦を起こす→義続勝利。 | |
1551 | 天文20 | 普通 | 義続が本願寺に対して贈答品を送り関係改善を図る。 | ||
1555 | 弘治元 | 畠山義綱 | 敵対 | 義綱と対峙する温井勢力を支援し、弘治の内乱が起こる。 | |
1558 | 永禄元 | 険悪 | 六角義賢を通じて温井への合力を停止させる。 | ||
1560 | 永禄3 | 普通 | 義綱が、六角義賢に本願寺は裏表があるので加賀国への使者派遣を懇望する。 | ||
1566 | 永禄9 | 畠山義慶 | 良好 | 義綱が家臣に追放された事で本願寺勢力と懇意の温井景隆が畠山家に帰参する。 |
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